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2015年01月12日

「書を捨て、町に出よ」はおかしくないか?

 ネットでアレコレ調べ物をしていたら面白いコラムがあったので紹介。

「書を捨て、町に出よ」はおかしくないか?
読書と実務の正しいバランス

書生論に意味はないのか

先日、ある若手ビジネスパーソン向けのセミナーで、「書を捨てよ、町に出よう」という寺山修司の言葉を引き合いに、実務経験の重要さを訴える講演を耳にする機会がありました。

「町に出る」重要性は私も大いに首肯するところがあり、個人的にはとても満足して会場を後にしました。

そこまではよかったのですが、その後セミナーのアンケートを見る機会があり、印象がかなり変わりました。

アンケートでは「勉強している暇があったら、とにかく外に出ます!」とか「書生論を振りかざしても意味はなく、まずはいろいろな経験を積むことで頑張ります」といった内容で大勢が形成されていました。

そのアンケートの別の設問に読書量や勉強量を問うものがあったのですが、いずれの時間量もとても少なく(というかほとんどなく)、そのような内容と併せてみたときに「これは何かが間違っているのではないか」と強く感じました。

自分が普段、平均年齢が50歳を超える職場にいて、思考が年寄りくさくなっているのかもしれません。今の若者は……という中高年特有の加齢臭がにじみ出てきたのかもしれません。でも、その辺の予断も覚悟しつつ思い切って言うと、「そもそも勉強もしていないのに、いきなり外に出て何がわかるんだ」と、強く感じた次第です。

http://toyokeizai.net/articles/-/13404


 いやぁ、これは全く同感ですね。結局、人類誕生以来、物凄い時間が経っているわけで、過去の色々な人びとが色々な行動をし、体験をして、その中で様々な学びや気づきを得ているワケで、おそらく一個人の経験から学べるその学びや気づきの量ってのは到底そういった過去の人々の経験や思索には及びもつかないワケです。そういった膨大な経験や体験や思索を行った過去の人々が、「これこそが重要な問題だ!!」と考えて書き残した書物の知識や知恵というものを、「そんな書生論何の役にも立たないよ」と馬鹿にするという傲慢さが、まず私には理解できない。

 例えば、先日、参加したセミナーでは、かつて企業で営業をやっていたという講師の方が、「営業の実践において、○○とか××という体験や経験をして色々と学んだんですけど、こういうのって、実際に現場で経験しなければ分からないんですよね」みたいな事を言っていたんですが、私としては、「いやいや、今あなたから話を聞いたことで、経験する前に分かったよ」と思ってしまいました。

 結局のところ、実際に失敗は時間的にも労力的にも金銭的にも高くつくワケですが、逆に書物で、あらかじめ多くの人びとが失敗しやすいポイントをいくつか抑えておけば、そういう手痛い失敗をいくつか避けられるかもしれない。

 結局、書物の方が効率よく得られる知識や技能もあれば、どうしても実際に現場でやってみなければ分からない専門的な問題というものも存在する。

 つまり、書斎にこもって、ひたすら書物を読み漁り、一歩も外に出ないことが愚かであっても、また同時に1冊もろくに本も読まずに、とにかく外に出て何かを実行したような気分になるのも同じくらい愚かだということなんですね。

 坂口安吾は、宮本武蔵の「事に於いて後悔せず」という言葉をもって、「きっと、こんな言葉を編み出さずにいられなかった宮本武蔵という男を、恐ろしい程に後悔の連続の人生だったのだろう。私は、この言葉の中から武蔵の怨念にも似た想いを感じ取る」というような解釈をしましたが、結局、武蔵なんかでも、徹底的にも過去を反省し、悔み、後悔し、やり切れない想いを抱えながら、それでも、断ち切らなければならないという必死の思いで「事に於いて後悔せず」という言葉を残したのではないでしょうか。単純なポジティブシンキングとは少し違うんですね。むしろ、非常にネガティブでどうしても過去に囚われてしまってどうしようもない人に向けてこういうった言葉を残している、そこの部分が理解できないとどうしてもこの言葉の意味を読み誤ってしまいます。

 これは、「書を捨て、町に出よ」という言葉も同じなのではないかと思います。書斎にこもって、限界まで知識を得ようとする、どこまでいっても納得できず、「どうしても自分は真理を掴みたい」と思いながらひたすら書物を読みあさる。そこでどうにもこうにも行き詰まってしまった時に、その最後の瞬間にあるそんな人物こそ「書を捨て、町に出よ」という言葉をかけたのではないか?

 そもそも本を読まないような人間は捨てる書物すらもともと持ってないわけで、こんな言葉は必要ないでしょう。おそらく、そんな人には、寺山修司は「たまには本屋や図書館に足を運んでみよう、もしかしたら新鮮な発見があるかもしれない」という言葉をかけたのではないでしょうか?





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ASREADに寄稿しました!!今回も文学論について!!⇒『金閣寺』から見る三島由紀夫の美の追求 | ASREAD http://asread.info/archives/1374 <
posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 06:23 | 神奈川 | Comment(3) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
情報先に知っとけば失敗しても致命的になる事は避けれそうだもんな。
Posted by at 2015年01月12日 10:42
書をネットとかスマホに置き換えるとしっくりきます
Posted by のべっち at 2015年01月13日 13:39
書物を友にして町にでよう
きっと、インクの文字がいきいきと見える筈さ
Posted by akkatomo at 2015年01月23日 20:39
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