新ブログ作成しました⇒当分期間当ブログと同時更新を続けますが、一定期間経過後、新ブログをメインで使用します

http://ameblo.jp/kattann2525

現在、評論家古谷経衡氏 倉山満氏等を中心とする言論人グループと係争中です。
横浜銀行 横浜若葉台支店 
店番号 387 普通預金口座番号 1258646
タカギカツトシ



多額の弁護士費用とかかりますので、どうか、もしよろしければご支援の方よろしくお願いしますm(_ _)m

2015年01月05日

経済を見るべきか、経済学を見るべきか?〜『じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路』(著 ロバート スキデルスキー、エドワード スキデルスキー)を読んで〜

147 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん
>>143
経済学の教科書など、読んでも無意味。
現実の「統計」からアプローチする三橋が説得力を持ってしまうのは、経済学の教科書が間違っているから。
だいたい、竹中は、
「私がクラウディングアウトを教科書に載せました」
って、威張っていたんだぜ。クラウディングアウトなど、現実には起きていないにも関わらず。


 この書き込みを読んで最初に思い浮かんだのは、ノーベル賞経済学者の二人の次のセリフです。

クルーグマン「流動性の罠の下での財政出動は、クラウディングアウトも後世へのツケも残さない」
スティグリッツ「今日『クラウディングアウト 』の問題を持ち出す者は、まじめな経済学者のなかには1人もいない」


 ここまで、はっきり言い切っても、未だにクラウディングアウトを主張する経済学者は日本では数多く存在します。ちなみに、MF理論については海外の経済学者はほとんど言及していないような印象があるのですが、おそらくは、MF理論自体がクラウディングアウトの一形態であると認識されているのではないかと思います(要は国債発行⇒金利上昇⇒為替の変動ですから)。なので、上念などは「ノーベル賞を取ってからMF理論を否定しろ!!」などとよく言っていましたが、そもそも、ノーベル賞経済学者が今日の状況ではクラウディングアウトは発生しないと述べているのは、MF理論も含めた広義のクラウディングアウトを想定しているのではないかと思うんですね。

 ところで、先の書き込みにあった、教科書の理論と現実の経済との問題ですが、ロバート・スキデルスキーは『じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路』の中で、今日の経済学の理論を批判し、次のように述べています。

 よい暮らしの実現に関して教育面で大きな障害となっているのは、おそらくは経済学であろう。より正確に言えば、世界中のほとんどの大学で、経済学の名でまかり通っている極端な正統主義である。最近の教科書にも、経済学は「無限の欲望を満足させるために有限の希少な資源をどう使うか」を学ぶ学問だと書かれている。だが、傍線を振った形容詞(有限の希少な)は、まったくもって不要である。欲望が無限なら、資源が絶対的な意味でいかにゆたかであろうとも、欲望に対して相対的に有限となるのは自明のことだ。だが私たちは資源が足りなくて死ぬのではなく、無節操な欲に駆られたまま死ぬ。(中略)世界は貧しい、だから何が何でも効率を重視しなければならない、という視点が現代の経済学には組み込まれている。(p24)

 クラウディングアウトやMF理論などは、まさにこの効率至上主義の経済学の最たるものですね。さらに、ここに市場原理主義が組み合わさることで現在の現実の世界の状況と乖離した理論が生み出されているわけです(さらに、ここに凡庸化し大衆化した専門人や教条主義的な全体主義の問題も指摘しておきたいのですが、それはまた別の機会に)。

 しかし、ここで、「理論は常に現実と乖離するからダメだ!!現実を見よ!!」とか、「経済学はダメだ!!現実の経済を客観的に観測することこそが重要なのだ!!」となるのも早計で、現実は、特に経済現象という一定の抽象度をもった現実は、常に理論というフィルターを通してしか解釈し得ないために、いくら「虚心坦懐に現実を眺めよ!!」などといっても、本当に頭を空っぽにしてしまえば、現実の現象に反応も出来なければ、おそらくは認識するできないはずです(そもそも、一定の優先順位の設定がなければ現実のうちのどこを観察すべきかすらも定めることが出来ません)。

 このような理論と現実の問題と類似の問題は経営戦略の分野にも見られます、『戦略サファリ』という本では、このように書かれています。

 われわれは、少なくとも当面の間は何かを“当然のこと”と捉えることで、最もよく活動することができる。それが組織における戦略の主な役割である。戦略が大きな問題を解決するからこそ、人々は問題の詳細に着手できる。たとえばどの市場が一番いいかというような議論をせずに、顧客への営業活動ができるというわけだ。最高責任者でさえ、ほとんどの場合は与えられた文脈の中での組織の管理に終始しなければならない。常に文脈を問題にするわけにはいかないのだ(p18)

 つまり、これは最高責任者を政策立案者や決定者に置き換え、戦略を論理のフレームワークと考えれば、そのまま政治や行政の政策の問題に置き換えることが出来ます。つまり、無数の選択肢から最適解を選び実行するというオペレーションが要求される政策決定の現場においては、常に論理や認識のフレームワークを問題にすることは出来ないワケです。だから、こそ学者や識者の、あるいは政策決定者のために複数のオプションを用意する官僚が必要であり、そのような立場の人間が権力者に媚びたり、阿っていては確実に国家運営は道を踏み外すことになるわけです。つまり、常に権力者のAという決定に対し、「BやCのオプションも検討すべきだ!!」と突きつけるのが本来の学者や官僚や知識人の役割なのですが、現実を見れば、むしろ、安倍に近い立場にいる政策スタッフや知識人たちこそが「この道しかない!!」などといって他のオプションや選択の可能性を潰してしまっているのです。これでは、もはやここまで・・・という他ないでしょう。

 ちなみに、スキデルスキーは先の効率至上主義の経済学に対して、かつては全く違ったタイプの経済学が存在したと述べています。

 かつては、けっしてそうではなかった。現代の経済学の礎を築いたアダム・スミスは、つねにより多くを求める生まれついての欲求は、いずれ自然の限界や制度上の上限に突き当たり、「定常状態」に達するとした。ケインズの師であるアルフレッド・マーシャルにとって、経済学とは「幸福の物質的条件」を研究する学問だった。この見方は、富は目的のための手段だとするアリストテレスやキリスト教の姿勢を踏襲する。

 おそらく、現在求められている経済学は、まさにこの種の、「効率至上主義」を超越したオルタナティブビジョンであると思われます。それを獲得するためには、まずは、経済学者や政策担当者の発想の根本的な転換が求められるワケですが、経済=効率性追求という自明の前提をもとにして組み立てられた学問を一度ぶち壊す、あるいはよりアウトレンジから眺め、より包括的な認識を獲得することが非常に重要なのですが、果たして、現在の経済学者や、政策担当者にそのような転換が可能であるかは非常に微妙な問題であると言えるでしょう。




応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★




↓選挙前にアベノミクスを評価し採点してみました!!Youtubeチャンネル登録等していただけるとありがたいです(*・人・*) オ・ネ・ガ・イ♪





ASREADに寄稿しました!!今回も文学論について!!⇒『金閣寺』から見る三島由紀夫の美の追求 | ASREAD http://asread.info/archives/1374
posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 05:39 | 神奈川 | Comment(3) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
グローバル言ってる連中が一番世界で起こっている問題点見てない。
安倍は経済学云々以前の問題だからねぇ
Posted by at 2015年01月05日 10:40
経済学を壊す前に日本をぶっ壊す!!by安倍
Posted by ねとうよ at 2015年01月05日 13:36
これって常識も同じ文脈で表せますね。
いちいち常識を疑ったり再考していては、社会生活はままならないですから。
ですが、そのまま行くと次第にズレておかしくなる場合があるので、ある時に今一度問い直される。それが今の時代、あらゆる面で噴出してるのでしょう。
Posted by at 2015年01月05日 22:08
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿が無いブログに表示されております。