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2014年10月09日

続・愛の反対は?

 以前から何度か書いているように、最近仏教思想に興味を持って色々と仏教系の動画を漁っているため(何故、本を読むのではなく動画なのか?というと、単純に仕事で運転をする時間が長いのでその間ラジオ代わりに動画を流して聴いているからです)、少し仏教っぽい内容の記事をいくつか書いていて、以前書いた記事(『愛の反対は?』http://achichiachi.seesaa.net/article/406655014.html)もその一つなのですが、予想以上に反響というか書き込みのコメント数が多かったので、コメントに答えるというカタチで続編としたいと思います。

 先の記事では、マザーテレサが言ったとされる名言の一つである「愛の反対は無関心」(無韓心じゃないですよ?念のため(´・_・`))という言葉が、ある一定の真理を含みつつも、やはりおかしいのではないか?ということについて解説しています。一応、要点をかいつまんで理由を説明すると、

1 愛とは関心の一形態であり、有の概念であり、無関心は関心が無いという無の概念であるがゆえに、そのような意味において、確かに、対照的な概念であると言える

2 しかし、愛の反対は無関心であるということは出来ても、無関心の反対は愛とはなりえないため、愛と無関心が対概念であるとは定義しにくい

3 その上、このように、愛の反対は無関心という定義を真だとしてしまうと、あらゆる有の性質を持つ関心の追概念が無関心であることになってしまい議論が混乱する。つまり、愛の反対は無関心であると認めてしまうと、憎しみの反対も無関心、嫌悪感の反対も無関心、欲望の反対も無関心となんでも有りになってしまい。そもそも「〜の反対は無関心」という言葉や定義付け自体がほとんど意味を成さない空語となってしまいかねないため、やはり「愛の反対は無関心」という定義は適切ではないと思われる


といったところです(簡潔に説明したつもりが余計わかりにくくなったかも( ̄▽ ̄;))。

 以上を踏まえた上で、興味深い反論がいくつかあったので紹介します。まず、やはり、この「愛の反対は無関心」という言葉を理解する際には、特定の状況や視点、あるいは前後の文脈との関連性の理解が必要不可欠であろうという反論です。

私は、反対の対概念としてパースベクティブ(以下、「視点」の意味で用いる。)を、抜きにして成立しているものは、(今思い浮かぶ範囲では)“有”と“無”だけだと思っています。

よって、今回の御エントリーと絡ませると、愛の対概念は、

>一部真理関を含みつつ、と、仰られている様に、関心にパースベクティブを向けることにより、無関心でも問題ないと思います。

これにより、関心に“だけ”パースベクティブを向けると、論理的な間違いとは言えず、論破とはならないと思います。

何故なら、パースベクティブを何かに限定しなければならないというルールは、神で無い人間には存在しないと思います。
Posted by 愛知者(長いので一部抜粋)

愛の反対は無関心。愛の抽象度を広げて行けば、成立するのではないでしょうか?また、皆さんの抽象度を広げて下さいね!と言うマザーテレサなりのメタファのような気がします。
Posted by at 2014年10月07日 13:25

恋愛事に限って言えば「好き」の反対はね「好きじゃなくなった」ですよ。ええ。
なんか知らないけどあの人嫌い、と思っていたが、よくよく付き合ってみるといいとこあるじゃん。好きになっちゃった。ということはありますが、好きだったのに好きでほなくなってしまった、という場合、もうその気持ち回復することは100%ありません(笑)

Posted by リンクス at 2014年10月09日 00:36

格言とか名言って前後の文脈を把握してないと無意味になりますよね

スラムダンクの「諦めたら試合終了だよ」という言葉もその物語を知らない人にとってはなんのこっちゃって話になりますし

胡散臭さっていうのは、社会や個人の実体と乖離してるところからくると思うのですが、できるだけその言葉の前後の文脈を知ろうとすることの方が重要なのであって、言葉が標語やスローガンのように一般に流布してしまっている「だけ」の状況になれば単なる胡散臭いものになるのもしかたがないような気がします。

ということでマザーテレサの言葉を単に切り捨てるのではなくて、その言葉を発した人の置かれた状況を知ることの方が大事なような気がします(マザーテレサに限らず、ありとあらゆる陳腐化した言葉に対しても)。

話の本題とは少々ずれてしまいましたが。
Posted by セイタカアワダチソウ at 2014年10月09日 01:34


 つまり、仮に普遍的に「愛の反対は無関心」であると定義するのは、(先に挙げた複数の理由により)不適切であったとしても、特定の状況下において、たとえば、「特定の対象に対する関心の有無を問題にする場合」「恋人同士の恋愛感情における場合」等々、特定の具体的な状況を想定するなら、やはり「愛の反対は無関心」という言葉は十分に真になりうるということです。みなさんも、あるときには「この人と結婚したい!!」とか思ってても、時間が経つと、「あれ、なんでこんな人のことあんなに好きだったんだろう?」と疑問に思ったりすることがあるんじゃないかと思います、これなど典型的に愛が無関心に変わるような場面ですね(笑)

 また、一部の心理学では、子供にとっては親に怒られることよりも無視されることのほうが辛いことなのだと考え、一部の非行少年(別に少女でも構いませんが)が親を困らせるのは、(たとえ怒りという負の感情であっても)親から関心を持たれたいがためにやっているのかもしれないと考えることがあるそうです。このように、恋愛や親子関係といった具体的な状況を想定するなら、やはり、「愛の反対は無関心」という言葉は相当な具体性と説得力を持って真であると言えるかもしれません。

 えー、それから少々屁理屈っぽくなりますが、以下の反論はどうかな?と思ってので、最後に以下の書き込みについて再反論を・・・

U 仏教では対概念を設けるとの事ですが、以下の仮定の場合に、その対概念を設けるという思想が納得できません。

@ 仮定

1 初めて「熱い」を覚えた子供
2 その子が対概念「冷たい」を覚える前に死んだ場合

A設問 その子の「熱い」は、対概念なしに成立していたのか?

B私の回答 成立していた。何故なら母親が「熱いの?」と聞いた場合、その子は、「はいorいいえ」の意志を表示した時は、対概念なしで十分に対話が成立していた。
よって、温度と触覚(痛覚)の視点による対概念である「冷たい」は、この場合不必要である。と、私は思う。

Posted by 愛知者(一部抜粋)


 要は、子供が熱いものに触れて、そのまま、対概念である「冷たい」を知らずに死んだ場合、熱いは対概念を持つことなく成立したことになるのではないか?ということですが、これは、少々疑問です。この場合、たとえば子供が熱いモノを触って火傷して泣いているというな状況が発生した場合でも、このように認識するのはあくまでその状況を客観的に眺めている大人からの視点であり、おそらくそのような体験があったとしても、子供の主観からするならば、何かに触って痛かったとか酷い苦痛を味わったとかそのようにしか認識されず、やはりそれが「熱いものを触って火傷して痛かったのだ」と認識するためには、「冷たい」という経験と「冷たい」という概念の認識があって初めて成立することなのではないかと思います。


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この記事へのコメント
釈迦なら、熱い冷たいなどの概念を語るより、まずは子供の手を冷やしなさいって言うんじゃないかな?
Posted by at 2014年10月10日 01:36
マザーテレサのことはよく知りませんが、「無関心には愛は存在し得ない」ということが言いたかったのではないですか?
Posted by kanata at 2014年10月11日 21:21
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