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2014年10月06日

愛の反対は?

「愛の反対は無関心」とは、マザーテレサの言葉として有名ですが、これってよく考えるとおかしくね?ということで、少し反論してみようかと、かなり屁理屈っぽい内容になるので、詭弁や屁理屈が嫌いな人はスルー推奨です( ̄Д ̄;;

 まず、最初に以前の書いた記事(『WJFの多元論批判及び、二元論批判批判』http://achichiachi.seesaa.net/article/406407312.html)のおさらいになるのですが、仏教の考えでは、人間の抱くあらゆる思想や観念や概念は対になる概念を持ちます。つまり、「高い」が、あるから「低い」があり、「重い」があるから「軽い」があり、「善」があるから「悪」があるわけですね。このように、考えると、やはり「愛」の反対は、「憎しみ」とか「嫌悪」とかになるわけです。

 しかし、マザーテレサは、「愛」の対概念は「無関心」(※注 現在好評発売中の『無韓心』とは関係なありません)だと言っているのですけど、やっぱりそれって違うと思うんですね。まず、一つ、非常に簡単な証明方法として、「無関心」の反対は、やっぱり素朴に考えれば「興味」とか「関心」になるわけであって、「愛」にはなりえないということを取っても、やはり「これってやっぱり違うんじゃね?」と推測できるわけです。つまり、「愛」と「無関心」とはそもそも全然性質の違うものであって、いうなれば、「高い」の反対は「寒い」だ!!とか「美味い」の反対は「低い」だ!!とか言ってしまうくらいに見当外れなんですね。

 それでも、なんとなくこの「愛の反対は無関心」という言葉が一般に広く受け入れられ、しかも、ある程度直観に合致するのには理由があって、「愛」とは「関心」に包括される概念だからです。つまり、「無関心」の対概念である、「関心」に包括される概念であるがゆえに、「愛は無関心の対概念だ!!」と言われると「なるほど!!」と思ってしまうんですね。でも、それってよく考えると、「辛いの反対は無味だ!!」とか「臭いの反対は無臭だ!!」っていうのと同じくらい無意味な考え方であって、やっぱり普通に考えれば、「辛いの反対は、甘いだろ!!」とか「臭いの反対は良い匂いだろ!!」とかなるわけです。

 それから、やはり、この考え方を採用するとおかしくなるのは、「愛の反対は無関心」が真だとすると、「憎しみの反対は無関心」なんてことも真だということになって、そうなると、「愛も憎しみも無関心の反対なのだから、愛と憎しみは同じものだ!!」なんて無茶苦茶な結論にもなってしまうわけです(まあ、J−POとかの歌詞でよくありそうなフレーズですがw)。でも、それって結局、「無の反対は有だ!!」というなんてことない結論なワケで、一見奥が深そうに見えて、物凄く浅〜い観念なんですね。なんとなく、マザーテレサって胡散臭いなと思ってる人はもしかしたら、潜在的にこの心理トリック的なものの胡散臭さを見抜いているのかもしれない(笑)

 まあ、そんなわけで、今後もしたとえば恋人が少し物憂げに「愛の反対は無関心なんだよ・・・」なんて、言ってくることがあれば、一言「いや、それは違うな!!」と言った後に、このロジックを用いて完全論破してみてください。わずかに残っていた愛も見事に吹き飛び、そこには荒涼とした無関心もしくは嫌悪感が立ち現れるはずです。

 結論・・・「愛の反対は無関心」という言葉は(一部真理を含みつつも)論理的には間違っているが、それを論破したところで何も得しない


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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 22:23 | 神奈川 ☁ | Comment(11) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 藪遅く失礼します。

はじめまして いつも楽しく拝見しております。

はじめてコメントさせて頂くにも関わらず、心苦しいのですが、反論を致します。(何故なら、ブログ主様とは読んでいる本が、殆ど重複しており、毎日のエントリーも賛成しているものが多いからです。)、

私は、反対の対概念としてパースベクティブ(以下、「視点」の意味で用いる。)を、抜きにして成立しているものは、(今思い浮かぶ範囲では)“有”と“無”だけだと思っています。

よって、今回の御エントリーと絡ませると、愛の対概念は、

>一部真理関を含みつつ、と、仰られている様に、関心にパースベクティブを向けることにより、無関心でも問題ないと思います。

これにより、関心に“だけ”パースベクティブを向けると、論理的な間違いとは言えず、論破とはならないと思います。

何故なら、パースベクティブを何かに限定しなければならないというルールは、神で無い人間には存在しないと思います。(勿論、伝統により一定の方向性はあると思いますが、この場合には、私は絶対を拒否します。余談ですが、この思考の限定は、芸術の死を意味すると思います。)

ですがこの思想は、他者をモノ自体(X=モノ自体)として認識する(超越論的)観念論者や、他者は存在しないとする独我論者には、問題なく納得頂けるとは思いますが…それ以外の人には説得は無理だとは思っております。

酩酊しており、推敲はしましたが、論理的・明瞭ではなく、長文である事をお詫び申し上げます。


もう一つ言わせて頂くと、

>仏教思想について~善の心で行為をしてはならない

は、カントの定言命法に似ていると思いました。(私は勉強が足りませんので、なんとも言えませんが)カントは、幅広く読書していた様なので、何か琴線にふれたのかな?と夢想したので、時間が取れたら勉強してみようと思いました。

ながながと長文失礼しました。益々のご活躍を期待しております。
Posted by 愛知者 at 2014年10月07日 02:33
申し訳御座いません。論理的に不明瞭でしたので、補足させて頂きます。

(卑俗な例で済みません。エントリー内にアツイが有ると勘違いし、論理展開させてしまいましたので…)

「熱い」という言葉を例に、以下、話しをします。

この対概念は通常、「冷たい」だと思いますが、これは“温度”にパースベクティブを向けた対概念だと直感します。(熱いのパースベクティブが痛覚だとは、直感的に思えないので…)

しかし、温度というパースベクティブを除くと、どうなるのでしょうか?

@まず、“有と無”にパースベクティブを向けた場合、熱いが無い状態が、まず思い浮かびます。
Aもし、熱い事が好きなMな人を想像すると(済みません。下品で。)、そのパースベクティブには、熱いは快楽であり、その対概念は、

1 それが無い状態(無痛)と、
2 他の嫌いな何か?(例えば、満足の不足による不快や、冷たい事が嫌いだと冷たいが該当?)

に、なったとしても、神では無い人間であり、無宗教者、絶対のパースベクティブを認めない人間には、何の問題無いと思います。(勿論、社会人または、社会的人間の状況により、問題が生じるだとは思いますが…勿論私は人前では言いません。)

他にもあると直感しますが、今は思い浮かばないので終了とさせて頂きます。

私は、ブログ主のエントリーや、表現者(特に西部邁・佐伯啓思顧問、中野剛志氏、東谷暁氏)と無頼派(どちらかと言うと太宰ですが…)の熱心な読者ですので、所謂アラシと勘違いされない事を願います。

三度も長文の事を書くと問題だと思いますので、お礼を申し上げます。コメントの場所を提供して頂き、有り難う御座いました。失礼します。
Posted by 愛知者 at 2014年10月07日 03:17
 連投ですが、思い浮かびましたので書かせて頂きます。

マザーテレサは、クリスチャンですので、無関心こそが、愛の対概念になるのでは?と思います。

何故なら、無関心は神の“存在”の否定になるからです。憎悪の場合は、その存在は認めているので“存在”にパースベクティブを向けると問題が生じません。(特にキリスト教徒の場合、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは、ヤハウェという点で、一致は、しているので)

私は無宗教者であり、自身を能動的虚無主義者と自認していますし、何よりも聖書を読んでいません。また、彼女に関係するモノを全く読んだ事が有りませんので、誤解が有るかもしれませんが、

絶対の神の“存在の否定”は、憎悪よりも(宗教上や改宗の点等で)問題になるのではないでしょうか?そう、直感しました。

書き終わりに思い出しましたが、そう言えばどこかで、(キリスト教徒だったかな?)無神論者の方が問題だと言っていた記憶が…曖昧で済みません。

済みません。失礼します。
Posted by 愛知者 at 2014年10月07日 03:52
『無韓心』の反対は『大嫌韓時代』でしょうな。
Posted by at 2014年10月07日 05:52
先程は酩酊しているとはいえ、失礼しました。どうしてもT 訂正と加筆、U 納得いかない部分が有りますので、書かせて頂きます。

T
@ パースベクティブ→パースペクティブ(ヴ)=(perspective、尚、視点は、「社会的」視点を意味し、以下恥ずかしいので、視点を使います)
A ブログ主→ブログ主様
B 視点を抜きにして成立しているものは、→他の視点を必要としない根本的対概念は、(多分)有と無だけ
C 美術の死→論理的不整合を意味しているのではなく、視点の絶対的固定の強制を意味している。


U 仏教では対概念を設けるとの事ですが、以下の仮定の場合に、その対概念を設けるという思想が納得できません。

@ 仮定

1 初めて「熱い」を覚えた子供
2 その子が対概念「冷たい」を覚える前に死んだ場合

A設問 その子の「熱い」は、対概念なしに成立していたのか?

B私の回答 成立していた。何故なら母親が「熱いの?」と聞いた場合、その子は、「はいorいいえ」の意志を表示した時は、対概念なしで十分に対話が成立していた。
よって、温度と触覚(痛覚)の視点による対概念である「冷たい」は、この場合不必要である。と、私は思う。


C雑感 これは、「人間のもつ機能が数多く不完全であること、それにもかかわらず人生の実際には十分であること(ジョージ・バークリ 人知原理論 大槻春彦訳 岩波文庫を参照)」というロックやその同時代人達の言葉が、私の感性にしっくりくるから出る感想であり、

また、私は人間の認識がイデアには触れられない?という信念が有るための回答なので納得頂けるかは分かりませんが…



これは、十分所謂アラシと言われても仕方ないので撤退いたします。有り難う御座いました。
Posted by 愛知者 at 2014年10月07日 12:36
愛の反対は無関心。愛の抽象度を広げて行けば、成立するのではないでしょうか?また、皆さんの抽象度を広げて下さいね!と言うマザーテレサなりのメタファのような気がします。
Posted by at 2014年10月07日 13:25
WJFを民事訴訟しちゃえばいいのに。カツトシなら絶対勝てるのに。WJFって金だけはありそうだから慰謝料でガッポリ儲けちゃえばいいのに。まあその金はWJFのママとパパのお金なんでちゅけどね。

wwwwwwwwwwwww
Posted by 茶碗 at 2014年10月07日 18:28
愛と憎しみの共通項は執着。
Posted by at 2014年10月07日 20:46
恋愛事に限って言えば「好き」の反対はね「好きじゃなくなった」ですよ。ええ。
なんか知らないけどあの人嫌い、と思っていたが、よくよく付き合ってみるといいとこあるじゃん。好きになっちゃった。ということはありますが、好きだったのに好きでほなくなってしまった、という場合、もうその気持ち回復することは100%ありません(笑)

Posted by リンクス at 2014年10月09日 00:36
格言とか名言って前後の文脈を把握してないと無意味になりますよね

スラムダンクの「諦めたら試合終了だよ」という言葉もその物語を知らない人にとってはなんのこっちゃって話になりますし

胡散臭さっていうのは、社会や個人の実体と乖離してるところからくると思うのですが、できるだけその言葉の前後の文脈を知ろうとすることの方が重要なのであって、言葉が標語やスローガンのように一般に流布してしまっている「だけ」の状況になれば単なる胡散臭いものになるのもしかたがないような気がします。

ということでマザーテレサの言葉を単に切り捨てるのではなくて、その言葉を発した人の置かれた状況を知ることの方が大事なような気がします(マザーテレサに限らず、ありとあらゆる陳腐化した言葉に対しても)。

話の本題とは少々ずれてしまいましたが。
Posted by セイタカアワダチソウ at 2014年10月09日 01:34
恋はその作用の大部分から判断すると、友情よりも憎悪に似ている。 by ラ・ロシュフコー
Posted by at 2014年10月09日 08:56
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