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2014年05月24日

雑記〜何のための政治言論か?〜

 えー、KAZUYA批判を開始して以降、「お前は一体何のために政治的なメッセージを発するブログ更新や動画作成をやっているのだ?!」というコメントと共に、「お前のやっていることは戦略的ではない!!」とか「KAZUYA信者にお前は馬鹿で自分でものを考えることが出来ないB層だ!!」と言ってみたところで奴らが考えを改めることはない!!」というようなコメントがやたら増えてきたので、今回は、なんで、政治動画の作成を始めたのかという珍しく私的な話題について書いてみようかと思います。

 えー、その前にそういったコメントを書いてくれた方々に一言言っておくと、「いや、そんなん知らんよ・・・」と。あの勘違いしてる人がいるかもしれないので、一言だけ言っておくと、別に俺は、「自分の言論で世の中を変えるんだ!!」とか「ブログや動画といったツールを使って政治活動を行うんだ!!」というような意図は全くありません。この政治ブログは、7年くらい前から、趣味で始めたブログで、上記のブログの説明に「政治理論、哲学、思想、宗教etc様々な文化的探求を目的とするブログです」と書いてあるように、単純な知的好奇心が原動力であって、別に、世の中を良くしようとしう特別な意図はありません。仮にそのような意図があるとするなら、他の政治ブログ等を管理しているブロガーなら誰でも持っているのとおおよそ同程度の情熱を俺も持っている程度だと思います。

 で、最近始めた動画作成の方はというと、趣味の延長の副収入のようなものです。知人で、YouTubeに動画投稿をして、月に数十万ほどのお金を稼ぐようになった人物がいるので、「へー、動画を投稿するとお金が稼げるのか、面白そうだし、俺もちょっとやってみるかな」と、まあ、その程度なんですね。

 まあ、田中なんかは本気で嫌いだし、政治について色々と考えるうえで、今の日本のガンはイカレタ左翼的革命思想の持ち主というより、むしろ、なんとなーく「この政治家面白そうだなー」とか「この評論家の人の話面白いよね」みたいな軽いノリで投票したり政治にコミットしていくような人間だ!!というような考えを持っていて、その限りにおいては、まあ、リフレ派叩き(なぜ、リフレ派をここまで叩くのかについては過去の記事でも何度か解説しているので省略します)やKAZUYA叩きなんかもそれなりに真剣にやっているのは事実なんですが、それでも別に「KAZUYA信者の目を覚まさせて、もっと正しい考えに導いてやろう!!」とか、そんな大層なことは一切考えてはいないです。むしろ、今の俺のように、空いてる時間全てを政治ブログ更新、政治動画の作成、政治や経済の情報収集に費やす生活の方がよほど不健全であると思っていますので・・・。

 なんというか、まあ、本当にただ単に、「俺はこう思う」とか「あいつは、ここが間違ってる!!」とか思ったことを書いたり喋ったりするっていう、ただそれだけなんですよね本当に。ついでに言うと、別にそれが何か悪いことだとも俺自身は思ってなくて、そういうのを踏み越えると、倉山みたいにネット上にコラを拡散して「増税を阻止する!!」とかKAZUYAみたいに2ちゃんねるの見出しを読み上げる動画をアップロードするだけで「これで日本を変えられると今では確信しています!!」とかそういう誇大妄想的になっちゃうわけで、まあ、以前からそうい誇大妄想的なバカを馬鹿にして笑ってやるみたいなことをやり続けてきたワケで、今更「俺もこれからはネットを使って情報発信して、日本を変えていきたい!!」とか言いだしたら、多分ものすごく気持ち悪いわけですよ。周りで見てる方も「アレ?なんかそれちがくね?」って思うだろうし、何より俺自身が気持ち悪いwなんというか、ムズ痒くなってきますよねw

 だから、まあなんというか、これからもそういう馬鹿どもを笑い飛ばしたり、嘘や詭弁ばかりってる連中の被ってる皮を引っペがして嘘を暴いてやったりとか、まあ、そんなことを続けていきたいワケです。お陰でいろんな人から嫌われるわけですけど・・・wまあ、そんな感じで、ブログを書いたり、動画を更新していって、たまに動画の再生数が伸びてポイントがたくさん入ったらラッキーみたいな、そんな感じのスタンスでやっていきたいなと、まあそんな感じです。


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↓ニコニコ版B層の研究




ASREADに寄稿しました!!左派批判のようで同時に結構痛烈な保守批判の文章⇒『憲法9条をノーベル賞にしようという運動について・・・』 http://asread.info/archives/640

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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 12:02 | 神奈川 ☀ | Comment(4) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
世界の大半を愚民が占めていると理解しながら、票取り合戦している政治家の詭弁を許さないのは何故ですか?
Posted by at 2014年05月24日 20:54
納得した。管理人さんのモチベーションが持続することを望んでいる。その上で、管理人さんの興味や関心と、なるべく多くの読者が面白いと思うことが合致することを期待したい。
私見では政権批判やインチキ経済屋批判は洗練されて鋭い指摘が随所に見られるが、カズヤ批判は今一つ笑いに昇華出来ていないように思う。カズヤ批判をより相対化してスマートに展開できれば、もっと思想的にレベルの高いレスポンスが増えてきそうな気がする。
Posted by 最近読者 at 2014年05月25日 01:42
やっぱり売名と金儲けにKAZUYA利用しただけじゃないか…
人間の屑がこの野郎…
Posted by at 2014年05月25日 03:19
学問のすすめ 十六編 より

http://www1.sphere.ne.jp/dia/gakumon/gs/GS16.HTM


心事と働きと相当すべきの論

 議論と実業と両ながらその宜しきを得ざるべからずとのことは普く人の言うところなれども、この言うところなるものもまたただ議論となるのみにして、これを実地に行う者甚だ少なし。そもそも議論とは心に思うところを言に発し書に記すものなり。或いは未だ言と書に発せざれば、これをその人の心事といいまたはその人の志という。故に議論は外物に縁なきものと言うも可なり。必竟内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。実業とは心に思うところを外に顕わし、外物に接して処置を施すことなり。故に実業には必ず制限なきを得ず、外物に制せられて自由なるを得ざるものなり。古人がこの両様を区別するには、或いは言と行といい、或いは志と功といえり。また今日俗間にて言うところの説と働きなるものも即ちこれなり。

 言行齟齬するとは議論に言うところと実地に行うところと一様ならずと言うことなり。功に食ましめて志に食ましめずとは、実地の仕事次第に由りてこそ物をも与うべけれ、その心に何と思うとも形もなき人の心事をば賞すべからずとの義なり。また俗間に、某の説は兎も角も元来働きのなき人物なりとてこれを軽蔑することあり。何れも議論と実業と相当せざるを咎めたるものならん。

 さればこの議論と実業とは、寸分も相齟齬せざるよう正しく平均せざるべからざるものなり。今初学の人の了解に便ならしめんがため、人の心事と働きという二語を用いて、その互いに相助けて平均をなしもって人間の益を致す所以と、この平均を失うよりして生ずるところの弊害を論ずること左の如し。

 第一 人の働きには大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽くも、蒸気船を運用するも、鍬を執りて農業するも、筆を揮って著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽の仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著者の業に従事するが如きは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然り而してそのこれを弁別せしむるものは何ぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物という。故に云く、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。

 第二 人の働きはその難易に拘わらずして用をなすの大なるものと小なるものとあり。 囲碁商議等の技芸も易き事に非ず、これらの技芸を研究して工風を運らすの難きは、天文、地理、器械、数学等の諸件に異ならずと雖ども、その用をなすの大小に至っては固より同日の論に非ず。今この有用無用を明察して有用の法に就かしむるものは、即ち心事の明らかなる人物なり。故に云く、心事明らかならざれば人の働きをして徒に労して功なからしむることあり。

 第三 人の働きには規則なかるべからず、その働きをなすに場所と時節とを察せざるべからず。譬えば道徳の説法は難有ものなれども、宴楽の最中に突然とこれを唱うれば徒に人の嘲りを取るに足るのみ。書生の激論も時には面白からざるに非ずと雖ども、親戚児女子団坐の席にこれを聞けば発狂人と言わざるを得ず。この場所柄と時節柄とを弁別して規則あらしむるは即ち心事の明らかなるものなり。人の働きのみ活溌にして明智なきは、蒸気に機関なきが如く、船に楫なきが如し。啻に益をなさざるのみならず却って害を致すこと多し。

 第四 前の条々は人に働きありて心事の不行届なる弊害なれども、今これに反して心事のみ高尚遠大にして事実の働きなきもまた甚だ不都合なるものなり。心事高大にして働きに乏しき者は常に不平を抱かざるを得ず。世間の有様を通覧して仕事を求むるに当り、己が手に叶う事は悉皆己が心事より以下の事なればこれに従事するを好まず、去迚己が心事を逞しうせんとするには実の働きに乏しくして事に当るべからず、是においてかその罪を己に責めずして他を咎め、或いは時に遇わずといい或いは天命至らずといい、あたかも天地の間になすべき仕事なきものの如くに思い込み、ただ退きて、私に煩悶するのみ。口に怨言を発し面に不平を顕わし、身外皆敵の如く天下皆不深切なるが如し。その心中を形容すれば、嘗て人に金を貸さずして返金の遅きを怨む者と言うも可なり。

 儒者は己を知る者なきを憂い、書生は己を助くる者なきを憂い、役人は立身の手掛りなきを憂い、町人は商売の繁昌せざるを憂い、廃藩の士族は活計の路なきを憂い、非役の華族は己を敬する者なきを憂い、朝々暮々憂いありて楽しみあることなし。今日世間にこの類の不平甚だ多きを覚う。その証を得んと欲せば、日常交際の間によく人の顔色を窺い見て知るべし。言語容貌活溌にして胸中の快楽外に溢るるが如き者は、世上にその人甚だ稀なるべし。余輩の実験にては、常に人の憂うるを見て悦ぶを見ず、その面を借用したらば不幸の見舞などに至極宜しからんと思わるるものこそ多けれ、気の毒千万なる有様ならずや。もしこれらの人をしておのおのその働きの分限に従って勤むることあらしめなば、自ずから活溌為事の楽地を得て次第に事業の進歩をなし、遂に心事と働きと相平均するの場合にも至るべき筈なるに、嘗て爰に心附かず、働きの位は一に居り、心事の位は十に止まり、一に居て十を望み、十に居て百を求め、これを求めて得ずして徒らに憂いを買う者と言うべし。これを譬えば石の地蔵に飛脚の魂を入れたるが如く、中風の患者に神経の穎敏を増したるが如し。その不平不如意は推して知るべきなり。

 また心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すれば固より及ぶべきに非ざれども、己が心事をもって他の働きを見ればこれに満足すべからずして自ら私に軽蔑の念なきを得ず。妄に人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免かるべからず。互いに相不平を抱き互に相蔑視して、遂には変人奇物の嘲りを取り、世間に歯すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るに、或いは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、或いは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、或いは人に多きを求めて人に厭わるる者あり、或いは人を誹謗して人に厭わるる者あり。何れも皆、人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、遂に自ら人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。試みに告ぐ、後進の少年輩、人の仕事を見て心に不満足なりと思わば、自らその事を執ってこれを試むべし、人の商売を見て拙なりと思わば、自らその商売に当ってこれを試むべし。隣家の世帯を見て不取締と思わば、自らこれを自家に試むべし。人の著書を評せんと欲せば、自ら筆を執って書を著わすべし。学者を評せんと欲せば学者たるべし。医者を評せんと欲せば医者たるべし。至大の事より至細の事に至るまで、他人の働きに喙を入れんと欲せば、試みに身をその働きの地位に置きて躬自から顧みざるべからず。或いは職業の全く相異なるものあらば、よくその働きの難易軽重を計り、異類の仕事にてもただ働きと働きとをもって自他の比較をなさば大なる謬なかるべし。

 (明治九年八月出版)
Posted by at 2014年05月25日 07:46
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