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2014年02月28日

不幸論

 最近、鬱っぽいエントリーが多くて申し訳ないですが今回も欝エントリーで・・・。

 最近、妙に、昔のことを思い出したり、なぜか昔のことを振り返ったりしたくなるのですが、「なんでだろうか?」と考えると、例の好きだった子に彼氏ができて、なんとなく昔よく感じていた不幸感というものを思い出したからだと思うんです。

 考えてみれば、自分は、昔はずっと不幸感を抱いていたなあと思います。以前書いた記事(『小説家 滝本竜彦について・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/389590610.html)で、高校を中退して引きこもってた時期を暗黒時代と呼びましたが、実は、俺が「自分は不幸だなぁ・・・」と感じていたのは、それ以前からで、中学生の時から、ずーっと自分は不幸なのだと感じていました。別に、勉強はそこそこ出来たほうだと思うし、友達もいたのですが、何故か「自分は不幸だ」という感覚を抱き続けていました。

 実際のところ、私の読書歴は、「この不幸感をどう克服するか?」という一点を目的にさまざまな書物を読みあさることから始まりました。「なぜ、自分はこんなに不幸なのか?」「どうすれば、この不幸から抜け出せるのか?」今思うと、ほとんど何の根拠もない強迫観念に近いものだったのではないだろうか?とも思えるのですが、当時は真剣でした。しかし、人間の思いというものは思いのほか強い影響を及ぼすもので、結局その後「自分は不幸なのだ」と強く思い続けた結果、高校を中退して、友達もほとんどいなくなり(もちろん、恋人などもってのほかです)本当に、周囲の人から客観的に見ても十分納得いくほどに不幸な状況になりました・・・。

 その後、大検を取得して、大学に入学し、友達も出来て、空手の試合でも活躍できるようになって、ネットビジネスを始めたり、時には女の子と付き合ったりもして、まあ、色々と楽しいことをしたり、集中できることを見つけたりしてハイになって9年ほど過ごしたのですが、なにかこう、先日例の女の子に振られたことで、妙にテンションを上げてハイになってた何年間かが一区切りついたように感じられました。

 結局、ハイになって過ごしていた数年間は、自分の不幸感から目を逸らし続けた期間に過ぎなかったのではないだろうか?やはり、中学〜高校を中退していたあの時期に抱き続けていた不幸感、あれこそが俺自身の本質なのではないか?とまあ、今となってはそのように感じられるわけです。

 結局、今の状況を眺めてみれば、空手も、仕事も、あるいは友人や恋人との付き合いも何一つものになってはいないではないか。いろんなことに手を出してみたものの、はっきりと満足のいく成果はなにも出してないではないか?と、まあそんなふうにも思えるわけです。

 もちろん、まあ、新しく集中できることを見つければ、また再びハイになって、活動的になることも出来るのかもしれませんが、一方で、この不幸感というものが、善きにせよ、悪しきにせよ、自分にとって重要な感情、あるいは実感であるならば、そこから目をそらすような気晴らしを見つけて楽しく過ごすことよりも、この何年間か、無視してきたその感情をしっかりと直視し、それとどう付き合うか?如何に折り合いをつけるか?ということについて、少しの間じっくり考えてみるのも良いかなとも思うのです(もちろん、それは恐ろしく辛く苦しいのですが・・・)。先日、キルケゴールの『死にいたる病』を本屋で購入し、今読んでいるのですが、それもやはりそのようなことを潜在的に感じ取っていたのではないかと思います。

 それから、この不幸感を表現する方法としては小説は優れた方法なのではないかとも思っています。もし仮に、この自分の今の不幸感、絶望感を、自分の体験した事細かなエピソードを添えて書いてみたところで、ほとんど自慰行為のような虚しさ、不毛さのみが残りますが、小説というカタチで表現することでひとつの作品としてそれを表現できるのではないかと思います。

『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』では、私たちが現実だと思っているものについて、それは、現実に存在に紐付けられた我々の想像であると述べていますが、そのように考えるなら、創作と現実の考察というものは私たちが感じているほどの決定的な差異はないのではないかと思います。この本の著者は、現実とは存在に紐付けられた想像であると述べていますが、想像や創作においても、それが完全に現実と遊離することはできず、人間が行う創作は、やはりどこかで現実と紐付けられているのです。そういう意味では、現実と、創作の違いは、現実の存在からの距離、あるいは結びつきの強さの違いでしかないではないか?このように考えるのは、少々妄想的過ぎるでしょうか?


ASREADに寄稿しました。都知事選の論評ですが、あえて田母神さんではなく、左派の家入氏に焦点を当てて分析を行いました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『なぜ、都知事選で家入一真は惨敗したのか?〜ネットリベラルと左翼の共通の陥穽について〜』http://asread.info/archives/482




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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 01:37 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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