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2014年02月22日

三島由紀夫から考える現代自殺論

 リルケが書いていますが、現代人というのはドラマチックな死というものができなくなってしまった。病院の一室で細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかで書いていたことを記憶しますが、今現代の死は病気にしろ、交通事故にしろなんらのドラマがない。英雄的な死というようなものもないような時代に我々は生きています。
(三島由紀夫さんの貴重なインタビュー映像です。 http://www.youtube.com/watch?v=rTCiR7p_MCE より)


 現代の死というものには、なんらドラマチックなものがない。この後、三島は続けて葉隠の著者が、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
と説きながら、著者自身は長生きして畳の上で死んだことを例にとり、当時の時代においてすでに武士ですらも華々しい死というものがなくなっていたことを説明します。

 そして、それと比較した時、現代の若者というものは、スリルを求めることもあるが、生が死というものを前提とした緊張した状態にないとも述べています。

 言うまでもなく、人間の一切の生の活動というものは、刻一刻と死へと向かっていく過程なのです。ある哲学者は、人間のあらゆる活動は破局の先延ばしであると述べます。歩くということは、自分の体が前に倒れようとするのを支えることで成り立つ行為であり、同時に、呼吸というものは死のうとするのを先延ばしにする活動であるというのです。

 このように考えたとき、あらゆる一切の生は、「死ぬ前に何をするのか?」という問いであり、活動であり。同時にその生は「どのように死ぬのか?」という問いに包摂される問いへの返答なのです。

 つまり、「どのようにして生きるのか?」という問いは「どのように死ぬのか?」という問いと表裏一体であるどころか、むしろ「どのように死ぬのか?」という問いそのものであると言えるでしょう。

 なんとなく、死について考えることはネガティブで悪いことであり、生、つまり人生について考えることはポジティブであると一般には考えられていますが、よくよく考えてみると、そのような思い込みはあまりにも無邪気で短絡的な思考であることに気付かされます。つまり、生について考える人と、死について考える人の違いは、その人物の思考がポジティブか、ネガティブかという問題ではなく、単に死について自覚的かつ意識的であるか、もしくは逆に死について無自覚かつ非意識的であるかの違いでしかないのです。ただし、現代の精神医学では、一般人が普段気にも留めないような不安やネガティブな事柄に対して自覚的であることについて欝という診断を下すのではありますが。

 また、三島由紀夫は自決する前から、死、あるいは自殺というものに並々ならぬ関心を持っていたようで、自殺についてもさまざまな意見を述べています。

怠惰な新聞記者が、人が自殺すればノイローゼの一言で片付けることですむ現代社会と違って、昔の人々は生の深い問題性をいつも死の問題性と対置させることを知っていたのである。-革命哲学としての陽明学-

たとえば芥川みたいなスタティックな作家は、もし自殺しなければ、彼の文学的イメージに行動性は全然ない。死んだことによって「河童」など行動化され評価される。-人間と文学-

自殺すると文学全体が行動化される、それが魅力になるんだな。-人間と文学-


 三島由紀夫は、なぜこれほど自殺というものにこだわったのでしょうか?難しい問題ではありますが、一つには三島が死に方というものに非常に強くこだわっていたことがその理由の一つに挙げられるでしょう。現代の死は、病気にしろ、交通事故にしろ、全て成り行きにまかせた死、あるいは偶発的な死でありますが、自殺だけは唯一自らその死に方を選択する余地を残した死なのです。

 しかし、それほどまでに、死に方というものにこだわった三島ですから、当然自殺についても、ただ自殺すれば良いとは全く考えていなかったようです。

やっぱり自殺というものはある意味で芸術ですよ。その状況が整わないでやるとえらい失敗をする。-人間と文学-

 状況が整わないでやる自殺とはどういうことでしょうか?これは、つまり、おそらくは自ら自覚的に選び取った自殺以外のものを指しているのではないでしょうか?たとえば、中学生や、高校生のいじめを苦にした自殺などがそうです。彼らは、たしかに形式上自殺という死に方を選び取っているように見えますが、実際にはこれは自殺を選ばされたということであり、実質的には殺人と変わらないのです。いじめ抜くことで、精神を殺し、その後に身体を殺すのですから、ある意味では通常の殺人より、はるかに酷い殺人であり、そのようないじめを苦に自殺した少年少女たちはそのような極めて残酷なカタチにおける殺人の被害者なのです。

 生に関して、それを死を前提とした強い緊張関係を持たせること、そのによって生は死の一部であり、同時に死は生の一部であるという強烈な自覚が芽生えます。死は生の最後のクライマックスであります。序盤から中盤にかけてどれほど面白い物語も、クライマックスがチープで面白みを持たないものであればかならず精彩を描き、素晴らしかったはずの物語全体すらをも色褪せさせます。

 同様に、もしかするなら、無自覚で、成り行き任せになった現代の死の様式が、本来なら充実していたはずの生を、のんべんだらりとしたつまらないものにしているのかもしれない、と考えることが許されるならば、自殺した人間を惨めな人生の敗残者として切り捨て、あるいは憐れむばかりではなく、それについて積極的な意義を見出しうるのだということを心のどこか片隅にでも置いておく必要はあるのではないでしょうか?


ASREADの記事珍しく結構拡散されてました。こちらもよろしくお願いします!!⇒『橋下大阪市長出直し選挙に見る議会制民主主義の劣化』http://asread.info/archives/468




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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 11:19 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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