新ブログ作成しました⇒当分期間当ブログと同時更新を続けますが、一定期間経過後、新ブログをメインで使用します

http://ameblo.jp/kattann2525

現在、評論家古谷経衡氏 倉山満氏等を中心とする言論人グループと係争中です。
横浜銀行 横浜若葉台支店 
店番号 387 普通預金口座番号 1258646
タカギカツトシ



多額の弁護士費用とかかりますので、どうか、もしよろしければご支援の方よろしくお願いしますm(_ _)m

2014年02月19日

宮台真司の愚民社会論批判・・・そのA

 前回の記事(『宮台真司の愚民社会論批判・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/388977016.html)では、宮台真司の日本の愚民社会論の基本を、現代の日本の問題を近代への努力を怠った、前近代的な日本人に原因を求める考えにあると説明し、その考えは間違っているのではないかということについて、中野剛志さんの言葉を引用し、その思想の根本にあるのは、丸山眞男的な、日本の農村共同体や大家族主義といった前近代的なシステムが戦前戦後の様々な問題を引き起こしたという典型的な戦後左翼的な考え方にあるのではないかということについて解説しました。

 前回は、このような考え方を典型的な戦後左翼的思想であると説明しましたが、今回は、現在このような「日本的な共同体システムを破壊すべきだ!!」という思想が右派の論客にも相当多く見られるということについて、再び中野剛志さんの言葉を引用しつつ解説してみたいと思います。

 最近の新自由主義的な保守派は「左翼はけしからん」と言っているけれども、新自由主義者の言っていることは「自立した個を作って、束縛から解放する」ということ。その意味で左翼が言っていることと同じで、「束縛」の中身も、農村共同体がどうの、日本的なしがらみがどうの、日本的な慣習がどうのと言っている。結局彼らが言っていることは「保守」を名乗っているけれども、丸山眞男の手の平の上で飛び回っているだけ。丸山眞男が望んでいたことと同じことをやっているにすぎないのです。「現在の日本は、左翼はいなくて総保守化、右傾化している」などと言われているけれども、ぜんぜんそんなことはなくて、みんなが左傾化している。日本的なものを壊そうとしている左翼ばかりになっている。
(『まともな日本再生会議』P135)


 このような指摘を受けてみると、前回も紹介した、「1990年代はリベラルを名乗っていたが、2000年代になると天皇主義に基づく思想を展開する。解放的関心の強烈な「左」と条理によって条理の限界を見極める「右」は論理的に両立可能、と主張する。」という宮台真司のプロフィールも相当に疑問に思えます。結局のところ、左に行ったり、右に行ったりしたところで、結局は丸山眞男の手の平の上で踊らされていたに過ぎないのでは?と。

大塚 本当は「空気」を読むのではない形での共同体と共同体の間の利害調整とか、共同体内の合理的な利害調整が、近代依然の社会になかったのかといったら、あったはずなんです。ぼくの専門ではありませんが、民俗学では例えば水利権とかですね。ムラの中でどうやって水を再配分していくのか、村落共同体の中と、更に対立する村との間でどうやって利害調整していくのかについてはかなり合理的なシステムや、協議の具体的な痕跡が残っているので、そういうノウハウはあったわけです。
ただ、そうしたノウハウを「近代」の中で、近代的個人や新しい公共性としてつくり変えていうことしないで、村落共同体が経済共同体として崩壊していくとともにその課題が持ち越されなかったということですね。
(『愚民社会』)


 一見、正しい批判に思えますが、この点に関しても私は疑問を覚えずにいられません。たしかに、集団内あるいは集団間の利害関係の調整システムは、共同体の崩壊と共に潰えていくに任せることは許されず、共同体の倫理、あるいは論理としての調整システムとは一定程度切り離されたカタチでより設計主義的なシステマチックなシステムが必要とされることは当然でしょう。しかし、結局、日本はそのようなことを実際にやってきたと思います。国民皆保険のシステムなどは典型的ですし、より緩やかなカタチでは慣習的な終身雇用や年功序列といった雇用形態もそうでしょう。つまり、やはり80年代までは、実際にはいろいろな問題があったけれども、なんとか色々と工夫してきた。私は、必ずしもバブルの時代がそれほど素晴らしかったとも思いませんが、それでもやはりあれほどの反映した時代を築いたことにはそれなりの理由があるわけです(実際に、80年代は世界中が日本型の経営を礼賛し、そして熱心に研究していました)。

 近代的個人というものが何を意味しているかは定かではありませんが、少なくとも、個人間の利害関係の調整システムの形成には成功したわけであり、一方で、農村共同体から、企業の共同体的経営への転換という世界でも希に見るシステムの転換すらも成功させたわけです。このように考えるなら、やはり、日本の主要な問題点は、古い集団の共同体的なしがらみへの執着ではなく、そういった共同体への破壊的傾向にあったのではないでしょうか?

 昔のドラゴンボールのアニメで、人造人間が街を徹底的に破壊しながら「この街や建物も作るのは大変だったんだろうけど、壊すのは一瞬だな」と言うシーンがあったのですが、結局、共同体のあり方も同じで、旧来の日本的な共同体を破壊しつつ、新しい公共などというスローガンを掲げてみたところで、そんなものが一瞬で新たに作れるわけがありません。

 人間は機械ではなく、社会はそのロボットならざる人間があつまって形成されているのです。人間には、それぞれ、人付き合いや集団形成のスタイルというものがあり、そのスタイルを無視し、どこかの大学教授が、「日本はこれからこいうったカタチの人間関係と共同体の形式を取るべきだ!!」などと言ったところでそれは無理な話なのです。社会の状況があって、それぞれの人びとの慣習が存在する、その中で落ち着くべきところに落ち着くのが所詮人間なのであって、どこぞの学者が「こういった共同体がどうして作れないんだ?!」などと叫んだところで、無理なものは無理なのです。しかし、ここでもやはり作るのは難しくても破壊するのは案外簡単で、「日本的な共同体のあり方は間違っているのだ!!」と散々に喚き散らし、現実にそれを破壊していくような実際の政策が取られたことによって、日本の共同体の破壊は相当に深刻化しました。

 結局、こうなった責任は誰が取るのでしょうか?学者や知識人は、言論の自由を行使しただけです、政治家や官僚も学者や言論人の言っていることを、民主的なプロセスに則って行ったに過ぎません。有権者?有権者は、ただなんとなく、「この政治家が良さそうだ」あるいは「この党が良さそうだ」と思って投票しただけでしょう。さて、もう2度と再生できないであろう共同体を破壊した責任の所在は、一体どこにあるのでしょうか?


ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『橋下大阪市長出直し選挙に見る議会制民主主義の劣化』http://asread.info/archives/468




↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σ


posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 03:14 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿が無いブログに表示されております。