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2013年11月08日

ネット社会における個人とコミュニティーとの新しい関係性

 ええ、前回の記事(『ASREADさんというサイトに政治記事を寄稿させていただくことになりました!!』http://achichiachi.seesaa.net/article/379325662.html)で、ASEREADさんという新しい政治メディアに政治記事を投稿させていただくことになったと説明したのですが、今回の記事は、ASREADさんのサイトに投稿した記事の補足のような内容として書いてみようかなと思います。もちろん、ASREADさんに寄稿した記事を読まなくても内容が理解できるように書きますが、できればASREADさんの方の記事も合わせて読んでもらえればなーなどと思いながら書いてみたいと思います(笑)

『インターネットでの言論活動について』 http://asread.info/archives/16
『インターネットが招く現代の危機』 http://asread.info/archives/18
『現代人はインターネットメディアと如何に付き合って行くべきか?』 http://asread.info/archives/20


 ASREADさんに最初に投稿したのが、上の3つの記事であり主な内容としては、最初の二つの記事では実社会におけるリアルなコミュニケーションから断絶されたネット上のコミュニケーションにどっぷりと浸かることの危険性とその弊害について説明し、第三回でネット上のコミュニケーションを補足するカタチで出来るだけ顔を付き合わせてリアルなコミュニケーションの機会を出来るだけ増やす必要があるだろうということを説明しました。

 具体的には、例えばTwitterで政治的な内容のツイートをたくさんしている人であれば、ネット上で議論を行っている友人たちと出来る限り実際に食べ物屋や飲み屋で顔を合わせて議論をしてみたり、どこかの勉強会に参加する時などは積極的に一緒に参加してみないかと呼びかけてみる、あるいはダンスや音楽が好きな人であれば、一緒にライブに行きませんかと声をかけてみたり、ダンスなら練習会などを積極的に企画してみるのも良いでしょう。

 上記の記事では触れませんでしたが、じつは、これらの試みは1対1のコミュニケーションやあるいは、複数間のコミュニケーションを密にするというだけが目的ではなく、最終的には、現代的なコミュニケーションの形成を模索するものであったりもします。

 保守的な論客の方の中には土着的なコミュニティーの価値を重視し、近隣コミュニティーでのコミュニケーションやネットワークを非常に重要視する方がいます。現実にそれは非常に重要であり、現在論壇の一部ではコミュニティーの再生が叫ばれていますが、このような伝統的な地域コミュニティーの再生という観点無しには決して、そのコミュニティーの再生という目的は達成されないでしょう。

 しかし一方で、現代人が、良く言えば伝統的な、悪く言えば旧態依然とした固定的なカタチのコミュニティーのあり方に疑問を抱いているのは事実です。実際に、どれだけ一部の政治家や評論家が
「地域コミュニティーの再生を!!」
などと叫んだところで、インターネットでいつでもどこでも誰とでも繋がれるようなツールに幼い頃から慣れ親しんできた若者たちの耳には所詮紋切り型の空虚なお題目としか聴こえないのではないでしょうか?

 確かに、東北の震災で、地域の人々が皆協力して助け合っていく姿を見せられそこに、伝統的な地域コミュニティーのもつ価値や可能性を感じつつも、一方で、政治家や評論家や外資を受け入れるための復興特区構想や被災地の復興エコタウンなどといったあまりにもチープで安易で、まるで被災地住民を小バカにしたような復興プランを聴かさせて、「震災直後に日本中で叫ばれた絆や連帯感といった言葉は一体なんだったんだろうか?」と失望させられた人も数多くいるのではないかと思います。

 やはり、伝統的な地域コミュニティーの復活の重要性、必要性を予感しつつも、また同時に中世よりはるかにフレキシブルな構造を持った社会における新しいコミュニティーのあり方を模索していく必要があるように思えるのです。

 そこで、インターネットというツールが、その新しいコミュニティーのあり方を見つけるための重要なツールとなりうるのではないかというのが今回のテーマなのですが、やはりネット上のコミュニケーションにも問題は存在し、その最大の問題の一つがネットのコミュニケーションのフレキシビリティー(柔軟性 融通性)の過剰という問題です。インターネットを他者とのコミュニケーションのツールとして活用している人はたくさんいるかと思いますが、一方で一般にインターネット上で知り合った人との関係は多くの場合3年以内に途切れるというとも言われています。

 つまり、伝統的な地域コミュニティーの抱える柔軟性の過小(いわゆるムラ社会的な問題)という問題に対し、インターネット上でのコミュニケーションは柔軟性の過剰という問題が発生するわけです。現実の利害関係が希薄なネット上でのコミュニケーションは泥沼のような関係性に陥ることを避ける代わりに、あまりにも容易に関係性が途切れ、持続的な深みのある関係性を他者と構築することが困難なわけです。

 そこで、このような問題を考えるときに重要になるのが、個人のあり方という問題です。例えば土着的な伝統的なコミュニティーにおいては、良く言えば継続的な関係性、悪く言えば硬直的な関係をある種構造的に発生させるものであり、現代人の多くが、そのような硬直的で、かつ個人のプライベートな領域にも深く関わってくるような関係性のあり方を厭う中で伝統的なコミュニティーの破壊が進んできました。つまり、伝統的なコミュニティーの硬直的な関係性を個人が忌避する過程が伝統的な地域コミュニティーの崩壊の過程なのだと言えるでしょう。そのような過程の中で、非常に柔軟性の高いインターネットを通した人々の関係性というものが生まれてきたのですが、この状況の中で、人々はむしろあえて硬直的、持続的な関係性を自ら求めるような姿勢が要求されるのではないでしょうか。

 例えば、先ほどの最初に挙げた、ネットを通したコミュニケーションの例でいえば、ある時期にはロックバンドの追っかけをやり、次の月には突然アニメにはまりだし、かと思えばその次にはボーリングをやって、その次には株の取引について勉強を始めるなどという人は、やはり他者との継続的な関係を築くのが困難なのではないかと思うのです。そこで、やはり他者との関係に継続性を求めるのであれば、同時に自身にも個人のあり方の一貫性が求められるのです。

 現代人の多くは、非常に自由度の高い社会にあり、なおかつお題目のように自由の重要性を聞かされながらも、あるいは独裁国家の硬直した社会制度に対する危険性を耳にタコができるほど聞かされながらも、一方ではやりあまりにも過剰な自由にうんざりしているのではないでしょうか?何をしても良いけど、何もしたくないそんな思いを抱えながら自室に引きこもる若者もたくさん存在するのではないかと思えます。

 社会の拘束性を厭い、皆で伝統や慣習を徹底的に破壊していく、そして破壊し尽くした末に伝統と慣習が破壊し尽くされた荒野の空虚を感じ取り、あるいは恐怖し、むしろ自らを律する規範、つまり不自由をを求めて、あえて自由を手放そうとする、そのような光景に滑稽さを感じつつも、そういった種類の人間の持つ最低限度の賢明さ、バランス感覚といったものに期待するほか社会や国家の価値の再生はありえないのではないでしょうかなどと、ちょっと西部邁さんっぽいことを言って終わりにしようかなと思います(笑)



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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 07:57 | 神奈川 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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