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2013年05月12日

『サイコパス 秘められた能力』(著 ケヴィン・ダットン 訳 小林由香里)を読んで・・・

 この本は、サイコパス(精神病質者)について解説した本である。無慈悲、大胆不敵、カリスマ的、道徳に無頓着、一点に集中できるといったいくつかの性質によって特徴づけられ、最悪の犯罪者(連続殺人鬼 等)のイメージと結びつけられることも多い一方で、社会的に非常に成功している一部の人間の中にもサイコパスが存在するという事実等、サイコパスの持つ多様な側面とその影響について説明しており、非常に面白い内容の本なのだが、今回はあえて、少しこの本のメインテーマ以外の箇所の記述について解説したい。

 一九五四年、社会学者のウィリアム・H・ホワイトは「集団思考」という言葉で、密接に結びついた集団が外部の影響から切り離され、規範的に「正しい」立場に急速に収斂し、集団全体が批判に対して鈍感になる仕組みを概念化した。集団の外の反対意見に無関心で、集団内部の意見の相違を嫌い、自分たちはまったくもって完璧だとかつてないほど自信満々になるのだ。集団思考の実証的分析の大部分を行った心理学者のアーヴィング・ジャニスは、集団思考のプロセスを「人が結束の強い仲間集団に深くかかわっている場合、成員が全員の合意を求めるあまり、とるべき行動の代替案を現実的に評価しようという気になれない思考様式」と説明している。それは必ずしもいい意志決定をうながすとはかぎらない。

 スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故がいい例だ。立ち止まることが許されない大きな政治的圧力のもとで(議会は当時、NASAの予算を大幅削減しようとしていた。問題が相次いでチャレンジャー号の発射が延期されていたことも、存在価値をアピールしたいNASAの焦りに拍車をかけた)、NASAの科学者や技術者は、同僚のひとりが発射のわずか二四時間前にブースターロケットのOリングについて懸念を示しても、そろって受けつけなかった。何度か電話会議まで開いてその問題を詳細に話し合ったものの、結論は、あとから振り返れば不可解だが、続行するというものだった。要はさっさと仕事にかかれというわけだ。
 結局は、それが惨事につながった。調査の結果、事故の元凶として浮かび上がったのは、Oリングだけでなく、より感染力があって、癌のように知らないうちに進行する「共犯者」の存在だった。かび臭く息の詰まるような心理状態だ。事故原因究明のためにロナルド・レーガン大統領が設置した特別委員会「ロジャーズ委員会」の発表は、世界じゅうの社会心理学者が口には出さないが抱え続けてきた懸念を裏づけた。それは、NASAの組織文化と意志決定プロセスが悲劇の発生に重要な役割を果たしたというものだ。周囲に同調すべきだという圧力、軽んじられた警告、自分たちは無敵だという感覚以上すべてが関係していたのは一目瞭然だった。(p114)


 これは、以前書いた記事(『民主主義といじめの構造の類似性について・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/355989066.html)とも非常に似た内容であると思う。一部の超人的な精神力の持ち主や、異常な思考の持ち主を除けば、人は皆多数派の意見に寄り添って生きていく。これが、酷くなれば、先の記事で書いたように、多数派が少数派を弾圧するというイジメの構造になるワケだが、それがなくとも、多数派に寄り添おうとする硬直的な思考は、往々にして行き詰る。特に、それが顕著になるのは危機の状況である。

 アインシュタインは、かつて「我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない」と言ったが、残念なことに、多くの平凡な人間は、往々にして危機的な状況に陥れば陥る程に、まさに「その問題を作ったときと同じ考えのレベル」にしがみつく。なぜなら、その考えのレベルを飛び越えて新しい考えを採用することそれ自体が不確実性を増すからである。新しい考えの妥当性を検討するには膨大な時間と労力がかかる上に、なによりその考え方は皆と違うからだ(ちなみに、この本の中では、このような不安に打ち克ち、皆と違った意見を堂々と主張する事が出来る能力の持ち主としてサイコパスの例を挙げている。サイコパスは、普通の人間と比較して不安やストレスに強いため、このような状況において他者と違った意見を述べる事が出来る)。

 ここに、俺がいわゆる民主主義的な政治的意思決定の欠陥や、議論の不毛さを感じるのである。民主主義的な考え方においては、出来るだけ多くの人間が議論を行い政治的意思決定に関わる事が最良の選択に近づく手段であると考える。しかし、現実には、このシステムはそう上手く作動してくれない。

 多様な意見を集約しながら、議論を行っているつもりが、(それが正しいか、間違っているかに関わらず)結局のところ多数派の意見に段々と集約していき、最終的に、それがどれだけトチ狂った意見であったとしても、一方向に議論は振れていき、皆で間違った方向へと突き進む。さらに、民主主義のような、多数決の人気投票で政治家が決定する制度においては、その傾向はますます顕著となる。なにしろ多数派の支持を得なければ、そもそも政治家になる事すら不可能になるのだから。

 「危機と発想の転換のパラドクス」とでも言うべきか、危機の時ほど、発想の転換が求められるにも関わらず、現実には危機による不安や恐怖が、多くの人々の考えを硬直化させ、ますます発想の転換を困難にする。それのような状況においては、少数の天才的な能力と精神力の持ち主が危機を打破する思想的大転換を果たすか、もしくは、その民族全体が衰退していくかの二択を迫られる。


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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 10:04 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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