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2013年04月18日

民主主義といじめの構造の類似性について・・・



中野剛志「で、彼(トクヴィル)が言ったのが、多数派が何でも決めて、少数派を弾圧するというような、つまり大勢の意見がワーッと国を支配しちゃって、少数がいくら「コレはヤバい」と言っても聞かなくなる。これは一種の専制だと、「そんな馬鹿な意見オカシイじゃないか」と言っても、皆空気で流される(中略)

 (これを)多数者の専制という。で、この専制というのはトクヴィルはこうも言ってるんですよ。昔の独裁者の専制というのは、少数派とか反対派を黙らせるために、火あぶりにしたり弾圧したり、暴力を行使したワケですね。ところが、民主主義における多数者の専制というのは、そういう武力、暴力はいらないって言うんですよ。じゃあ、どうやって少数派を黙らせるか?皆で無視すりゃいいって言ってたんですよ。

 皆で無視して、いくら少数派がワーワーワーワー言ってもシカトすればいい。そうすれば少数派は、そのうち自分の意見を言うのに疲れて嫌になって勝手に黙るだろうって言ったんですね。これが、社会学に応用されてって沈黙の螺旋って理論があるんですよね。」


 先日、ニコニコ生放送で、My日本の会員の梅園さん(現在 野田総理BKDという名前でニコニコ生放送をやっている)とスカイプで雑談放送をやっていて、俺が
「いやー、日本のある種のコミュニティーっていうのには、すごく嫌な側面がありますよね。大体において、何かはみ出し者が出てきた時には、それを皆で一斉に叩く。その時に、そのはみ出し者とみなされた人間がどんなに頑張って何を言おうとしても、結局、数の論理で押し切られて、その主張はほとんど実質的に無視される。それでいて、多数の側に付きながら、そのはみ出し者をバッシングする事で、お手軽に、自分は正義の側に立つ事が出来る。これぞ、多数派の意見こそが正しいという民主主義教育の素晴らしい成果だと思いますよ。」
と言ったら、梅園さんは
「うん、結局、この民主主義的な考え方とイジメってのは同じ構造なんだよね」
と答えた。

 確かに、この二つの構造はそっくりである。ただ、それが多数派の意見、あるいは選択であるという事実のみに基づいて、どれだけトチ狂った選択をも受け入れるという点などは全く同様の病理と言って良いだろう。

 かつて、俺が小学生や、中学生だった頃には、よく先生たちが
「イジメを無くしましょう!!イジメを見て見ぬふりをするのも同罪です!!」
などと言っていたものだが、一方では、普段から、民主主義が大事だの、皆の意見を集めてそれに従う事が大事だのと、要は、長いモノには巻かれろ的な処世術しか教えてこなかったくせに、このようなハードな状況(イジメられっ子を助けると、今度は逆に自分がイジメられるかもしれない)において、唐突に
「見て見ぬふりも同罪です!!弱いものを助けましょう」
などと言ったところで、何の説得力も影響力も持つ事はない。ただただ、子供ながらに(明確な論理構造は分からなくとも)なんとなく「胡散臭いなぁ」「綺麗事を言っているなぁ」という印象を植え付けるだけであろう。

 結局のところ、イジメ問題が浮上するたびに、毎度毎度「イジメを止めよう!!」とか、あるいは「イジメに打ち勝とう!!」みたいな事が言われたりするものの、多数派の意見こそが正しいという(低劣な意味における)民主主義的な考えが理想だとされてる教え込まれている限り、あるいはそれが社会的なコンセンサスとなっている限りそのどちらも実現しないだろう。

 多数派の意見が正しいなら、何故、「みんなが苛めてるのに」自分がそれに加担するのが悪い事なのかを理解しようもないし、苛められてる側も、「多数派が正義」という発想から抜け出せない限り、それに打ち勝つなんて事は到底不可能。まして、自分が不利になることを覚悟してでも苛められている子供を助けるようなことなど出来るはずもない。

 日本では、もともといじめられっ子だった子が、いじめっ子に変わるってパターンが多いと聞くが、1度このような構造が思考のベースになってしまえば、少数派になって苛められるか、多数派になって、少数派を苛めるかという二者択一しか(頭の中の)選択肢がなくなるというのは、全く自然な現象であると思える。

 結局、イジメに打ち勝つための思考というものがあり得るとするならば、それは唯一、自分が圧倒的に少数派であり、同時に多数派からどれほど否定され、どのような仕打ちを受けたとしても、自分こそが正しく、多数派の連中こそが愚かであり得るのだという自意識。あるいはそのような状況において、自分一人でも真実を貫き通すのだという強烈な意志こそが求められるのである。

 結局のところ、穏便な方法で、皆仲良くハッピーな生活で、イジメの無い社会などは実現できない。ある種の強烈な意志の対立的な構造においてのみ、それは克服可能であると俺は信じる。

 もっとも、現在のぬるま湯のような社会や教育の構造において、それぞれ個々人にそれほど強烈な意志力、自意識の強さなど求めるべくもないかもしれないが。

 しかし、それでも、少しずつでも、このぬるま湯のような教育や社会の構造を改善するよう努力する必要はあるのだと思う。


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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 13:15 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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