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2012年04月25日

『宗教の秘密』 苫米地英人 著を読んで・・・A

 今回は、前回の記事(『『宗教の秘密』 苫米地英人 著を読んで・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/266108419.html)の続編。前回は藤井聡さんの「単なる評論家棋士」という例えを用いて、苫米地氏の思想・理論について批判し、

 つまり、苫米地は、人間が言語により、縛られているという現実を認知し、それを批判的に解説する事は出来ても、そこからさらに緻密な踏み込んだ論を展開し、解決策を提示するという段階において、どうにもしっかりと議論を突き詰めることができないという致命的な欠陥を有しているわけである

と説明した。そこで、今回は、苫米地氏が大局的あるいは、特定の戦局の「評論」「解説」という点に関しては、それなりの能力を有していながら、一つ一つの個別具体的な事象についての具体的な対応、解決策という段階において誤りを犯すという特徴から、どのような問題が引き起こされるのかを具体的に解説してみたい。ちなみに、この解説を通じて、苫米地氏がどのように具体的な解決策を間違っているかについても説明できるのではないかと思う。

 前回説明したように、苫米地氏は、人間の言語つまり、精神の働きや認識が現実の物理的世界を支配する(物理的世界は、情報空間にある「特定の情報場」の写像でしかない)という認識を有しており、俺はこの考え方について、精神が物理空間に先立つという意味で「先心論」と名付けた。

 このような先心論の立場に立つ苫米地氏の理論、もしくは認識において、言語や精神はもっとも重要な要素であり、その言語や精神の問題が、現実の物理的空間においてももっとも重要な問題を引き起こしていると考えても間違いではないだろう。

 そして、その苫米地氏が、現代人の精神・言語におけるもっとも決定的な問題が、精神や言語がお金という価値観に縛られているという事であると断言しているのである

 現代の欧米人、さらに言うとその影響を受けている世界中の人々は、(既存の伝統的な宗教とは違う)別の宗教を新たに信仰しています。
 それが「お金教」です。「資本主義教」と言ってもいいですし「経済教」と言ってもいいでしょう。
 2012年現在。もっとも強い「言語束縛」を行っている宗教は、お金教なのです。(前掲書)


 そして、特に苫米地氏が特に問題にしているのが、金本位制崩壊後の無秩序な金融経済の肥大化である。つまり、それまでゴールドという実態に対しお金という記号(言語とも言い換えられる)の変動乖離する現象。これこそが、物理現象(実体経済)に深刻なゆがみを発生させてしまっているという問題に対する言及である。

 確かに、これはまさに的を得た指摘であろう。近年の世界不況は、あきらかにアメリカの過度な金融技術の発達が主要な要因の一つであるし、資本(これもまた記号(言語)であると言えるだろう)の移動の自由化は、実体経済と金融経済の動きの乖離という現象を引き起こした。特に、モノを作らなくなった(作れなくなった)アメリカという国家の国民が、その発達した金融技術により、世界で最も物質的に贅沢な生活を享受し続けたという事実が、この実体経済(物理現象)と金融経済(記号現象)の乖離と、その結果発生した発生した物質現象の歪みを端的に表しているように思われる。

 つまり、ここでも苫米地氏の大局的なモノの見方自体は、そう間違えてはいないように思われる。しかし、そのような問題に対しての具体的な解決策の提示という場面においては、おおよそ考えられる中で最低と言ってかまわないような案を提示する。

 要は、何らかの物理的な基準に通貨発行量を連動させ、恣意の入り込む余地をなくせばいいのです。

 お金があたかも独立した価値があるかのように暴走するのを防ぎ、あくまでモノを手に入れるための手段
という健全なあり方でとどめるためには、経済が成長した分だけお金を増やしていけばいいということを理解してください。
 今それを実際にやろうとすれば、簡単です。GDPの伸びに連動させて、通貨発行量を増やせばいいだけです。
 それが、私が提唱している「GDP本位制」です。


このブログの読者なら、すぐに理解出来たのではないかと期待するが、現実にこのような手段を取ろうとすると、必ず合成の誤謬が発生する。

 例えば、デフレの場合であれば、

需要<供給能力

となり、このような状態においては、どれだけ生産性を高め、供給能力を拡大しても、実際のGDPは少ない方の需要に合わせられる。つまり、どれだけモノを生産出来る能力が高くとも、作ったものを売りさばける市場、つまり需要がなければ、その供給能力は全く無駄になってしまう。よって、GDPは需要に制約されてしまうのである(このあたりの話は、詳しくは過去の記事『全体最適化のために・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/204488420.htmlに書いてあるので参考にして欲しい)。

 では、このような状況で通貨の供給量をGDPに連動させたら、一体何が起こるのだろうか?もちろん、GDPはより少ない需要側に合わせられるので、せっかく余っている供給能力を生かすだけの資本のリソースが十分に与えられなくなる。これだけでも十分な損害なのだが、問題はそれだけにとどまらない。このような状況で一体何が起こるのかといえば、潜在的な生産能力よりも、需要が過小であるために、企業は無駄な人件費をカットするために従業員を解雇する。すると、余計に、需要が減るので、GDPはさらに減少する。ここからさらに、減った重要に合わせて企業が従業員を減らすというスパイラルが発生し、自己調整的な機能が発揮されず延々と失業率が増大し、GDPが減っていく現象をデフレスパイラル、あるいは恐慌と呼ぶわけだが、GDP本位制を採用すれば、このような現象をさらに加速させ、さらにはこの悪循環からの脱却をほとんど事実上不可能にしてしまう。

 つまり、お金、通貨発行量は、需要量を調節するための最重要要素の一つであるが、現実の生産能力に対してGDPが過小になってしまうデフレの状況において「GDP本位制」では、この過小なGDPに対して通貨の供給量が制限されてしまうため、消費者の使えるお金が減って、ますます需要が縮小し、先ほどの悪循環をさらに加速させてしまう結果になってしまうのだ。

 そして、この「GDP本位制」はデフレからの主要なな脱却手段の2つ、つまり金融緩和と政府支出の増大を不可能にしてしまう。前者の金融緩和はGDPの上昇以上の新たな通貨供給が制限されているのだから当然不可能であり、もう一つの手段である政府支出の拡大も最も有効な財源の一つある中央銀行からの通貨の調達という手段が事実上不可能になってしまうのだ。

 つまり、このような「GDP本位制」においては、金融経済の暴走や、実体経済から乖離したマネーの膨張を防ぐことは出来ても、経済における最悪な現象の一つであるデフレ不況、もしくは恐慌、大恐慌といった状況においては、全く機能しないばかりか、それからの脱却を不可能にしてしまう最悪なシステムなのである。

 ちなみに、80年前に起った世界大恐慌では、経済政策のみでは問題は完全には解決されず、第二次世界大戦突入という最悪な結末を迎えたワケであるが、当然ながら、仮に今後の歴史上どこかの時点で世界恐慌が発生し、さらに戦争へと突入した場合、この「GDP本位制」を採用している国家はその戦争に打ち勝つための戦費の調達すら不可能になってしまうのだ。逆に、もし世界中の国家がこの「GDP本位制」を採用していたとするなら、いち早くこのシステムからの離脱を決定した国家が、その戦争において圧倒的なアドバンテージを得ることになるだろう。

 今回の、デフレ時の対応が全く不可能であるという説明一つで、この苫米地氏が考案した問題解決の具体的手段の案である「GDP本位制」がどれだけ間違った提案であるかが理解出来たのではないかと思うが、これはなかなか面白い思考実験になり得るので、次回以降もいくつかこの制度の欠陥について指摘してみたいと思う。


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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 01:55 | 神奈川 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
途中で読むの疲れたw
読者を想ってもっとわかりやすくかいてちょ〜
あほでごめんちゃい


精神が物理空間に先立つという意味で「先心論」
↑おもろかたーよ♪
Posted by 幸せな小金持ち♪♪♪ at 2012年04月25日 16:40
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