仏教は、解脱して、再びこの世とあの世に生を受けることのない状態を理想とし、そのために、この世のあらゆる欲望と煩悩と苦悩とを消し去ることを目指すのですが、よくよく考えると、このブログでも何度も紹介しているミダス王の神話に出てくる妖精シレーノスの知恵もほとんど同様のことを言っているんですよね。
ミダスはシレーノスを捕まえて、古代の知恵を聞き出そうと強く迫った。「人間にとって最もよいこととは何か」とミダス王は問う。シレーノスはミダス王を一目見て、浅はかで欲深い暴君であることを見抜いた。そこで、いかにも酔っ払いらしく、王の老い先の短さをあざ笑い、「人間にとって最も良いことは、この世に生まれてこないこと、そして次によいことはできるだけ早く死んでしまうことだ」と、哲学的な答えを返した。
欲深き煩悩を抱えた凡夫を軽蔑し、この世に生まれてこないことを理想とするって、まんま仏教の考え方じゃないですか。さらに、神話でミダス王は、シレーノスから触れるもの全てを金に変える力を授かるのですが、それによって、パンも葡萄酒も、そして最愛の娘までもを金に変えてしまったところで、ミダス王は自らが犯した愚かな過ちを呪います。「金持ちであることは惨めでもある。富を逃れようとし、先ほどまでの願いを憎悪する」。そして最後に、ミダス王はこの恐ろしい贈り物を取り上げてほしいとディオニソスに嘆願し、この呪いを解いてもらいます。
今まで、散々このエピソードを紹介しながら、気付かなかったのですが、先のシレーノスの言葉と、ミダス王の過ちって思いっきりリンクしてたんですね。要は、どちらも欲深き人間の愚かさを伝えようとしているわけです。
それから、仏教では、例えば林で一人座って瞑想することに幸福を覚えるような境地も理想的な人のあり方としているのですが、これなども西洋の賢人たちの考えとさほど乖離しているとも思えません。
キケロは「君に庭と書斎があるなら、もう何もいらない」と書きました。また、西洋ではないですが、ペルシアの詩人ウマル・ハイヤームはこのような詩を残しています。
必要なのは一壜の葡萄酒と詩の本、
そしてほんの少しの肉。
そうして誰もいないところで二人座っている私たちは、
スルタンの国王よりゆたかだ。
もっとも、このように庭と書斎や葡萄酒と詩の本とほんの少しの肉だけで幸福になるには精神の成熟度が求められると思うのですが、残念ながら西洋の思想にはそのような観点が抜け落ちているような気がします。
また、このような欲望を抑え、無駄な活動や浪費を抑制し、心の豊かさを求めるような姿勢というのは案外現在の若者には受け入れやすい思想なのではないかと思っています。何か、物凄いストイックな修行者とか、おしゃれなファッションとしての東洋思想ではなく、より自然で生活に馴染んだカタチでこのような東西の賢人の知恵を活かすようなことも現代には求められているのではないでしょうか?
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