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2015年01月20日

物々交換経済のウソと貨幣発生理論のオルタナティブ〜『21世紀の貨幣論』フェリックス マーティン 著 を読んで〜

 『21世紀の貨幣論』は、何カ月か前に読んで、かなりの衝撃を受けて、是非ともレビューを書きたいと思っていたのですが、なかなか読んで衝撃を受けたものの、この内容をどう整理すべきなのか考えてしまい中々レビューが書けずにいました。しかし、とりあえず、この本の主題に関して最近パッと思いついたことがあったので書いてみることにします。

 この本の最重要のテーマの一つは、そもそも物々交換経済は存在しなかった可能性が高いということです。一般的に、貨幣の発生は、もともと物々交換で成り立っていた経済活動を効率化、円滑化させるために貨幣のシステムが生み出されたと考えられていますが、実は、未だかつて、物々交換経済の社会が存在したという形跡や証拠は一切ないそうです。

 それじゃあ、どうやって貨幣は発生したのか?この本では、かなり詳しく解説しているのですが、すごく単純に説明するとこうです。

 まず最初に会計制度、つまり帳簿が発生しました。つまり取引の履歴です。牛を一頭相手に渡した時に、「牛を一頭渡しました」という記録を残しておけば、債権と債務が発生します。つまり牛を渡した側には、牛一頭分債権が残り、逆に牛を貰い受けた側には牛一頭分の債務が発生します。この時に、仮に債権を証券化したとしましょう。つまり、Aさんが牛一頭をBさんに渡し、Aさんは牛一頭分の債権を獲得し、Bさんは牛一頭分の債務を負います。この時に、この牛一頭分の債権を証券化すれば、このAさんの債権は譲渡が可能になります。すると何が起こるか、今度は、Aさんが別のCさんから一頭牛を貰いたいと思った時に、Bさんとの取引で発生した債権をCさんに譲渡すれば、Cさんの牛とAさんの債権を交換することでAさんは牛を一頭獲得することが出来ます。そして、CさんはAさんに牛を一頭渡す代わりに、Bさんに対する牛一頭分の債権を獲得することが出来るのです。こうして、この牛一頭分の債権は流通可能な債権として市場に出回ることになります。そして、この譲渡可能な債権こそが貨幣なわけです。

 しかし、このままでは、この貨幣は牛の取引にしか使えないことになります。そこで貨幣価値という共通尺度の概念が必要となります。その貨幣価値という尺度においては、牛一頭分の価値と、鶏の価値や、牛の価値と机やタンスの価値が同じ価値尺度の中で測定されます。つまり、先の譲渡可能な債権と、貨幣価値というあらゆる財を金銭的価値という共通の価値尺度において測定する基準を合わせることで現在の貨幣とほぼ同様のものが発生します。

 これだけ書いても、( ゚д゚)ポカーンといった感じで、これの何が重要なのか分かりにくいと思いますが、物々交換経済からの貨幣発生論とこのようなオルタナティブの認識の違いが、人々の経済認識に関する重大な誤謬の原因になっているかもしれない、ということについて今後解説していきたいと思います。





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ドグマティズムとリフレ派超理論

 今回も『リベラリズムの再生―可謬主義による政治理論』から、色々アレコレ考察します。

 ところで、この本なんかも読んでて思うのは、やっぱり才能ある言論人ってのは、30くらいになればかなり凄い文章とか書いちゃうんだなぁということです。この『リベラリズムの再生―可謬主義による政治理論』という本は、2003年に出版されていて、大体施光恒さんが30くらいの時に書いたものなのですが(筆者の2001年に書いた博士論文を元にしているので、もとの文章自体は2001年)、かなり本格的な政治理論の本を書いているんですね。『反官反民』に収められている中野剛志さんの30代前半に書いた評論集なんかも凄い文章を書いていますし、藤井聡さんが自身の著作の中で最高の出来だったと言っている最初の著作『社会的ジレンマの処方箋―都市・交通・環境問題のための心理学』も35歳の時に書いています。

 まあ、もちろん、年齢を重ねるごとに深みが増していく著述家なんかもいくらでもいると思うんで、必ずしも、若くして良作を残せない奴は見込みがゼロだと言い切ることは出来ないんですけど、「この若さにしては鋭い見識の持ち主だ!!」とか「この年齢でこれほどの文章を書けるのは凄い!!」というのは、少なくとも30を超えてる人間には当てはまらないと思うんですね。私が中学〜高校時代に大量に読んでた加藤諦三なんかもおそらく20代の時に書いてた本の方が売れてたでしょうし、西部さんがソシオエコノミクスを書いたのも36歳です。

 だから、まあ何が言いたいのかというと、要は、30を超えたような人間が書いたゴミエッセイやら駄文やらと称して「新進気鋭のなんちゃらの労作!!」やら、「若き評論家のうんちゃら!!」とか、それこそちゃんちゃらオカシイって話なんですよね(俺の好きな滝本竜彦なんて20代前半で書いた『NHKにようこそ!』と『超人計画』で完全に才能枯渇させちゃってましたからw)。

 中川淳一郎さんなんかは、「若き○○!!」とか「新進気鋭の××!!」みたいなのをプロ若者と呼んで揶揄してたワケですけど、なんつーか、確かに教養の衰退とか、何でもお気軽お手軽にサラッと読めちゃうライトでポップな文体がもてはやされるブログ文化、ケータイ小説文化以降、若い連中がゴミみたいな文章やらエッセイしか書けなくなってる現状でも、なんとか、若いスターを出したいって気持ちは分からなくもないんですけど、もうちょっとしっかり探して地力のある実力派の若手を見いだせないもんかね?とか思ったりします。

 まあ、ちょっと前置きが長くなったんですが、本題はサラッと済ませます(笑)

 最近のリフレ派は、ほとんど金融政策に言及していないクルーグマンの著作をリフレ派の教科書的な位置づけで解説したり、「ピケティの主張は日本のリフレ派とほとんど一緒」みたいなことを言ったりして、本当に頭が禿げて・・・ではなくて、頭がイカレてるんじゃないか?と思う発言が本当に多いのですが、このような、全くリフレ政策やリフレ理論とは無関係であったり、場合によっては全く相反する見解を無理やりリフレ的に解釈するこの怪奇現象について、『リベラリズムの再生―可謬主義による政治理論』のなかで、関係する記述があって面白いと感じたので紹介したいと思います。

 ミルトン・ロキーチも権威主義の研究から明らかにされた権威主義的パーソナリティの認知的特性に注目した。ロキーチは、この認知構造のあり方を研究するために、反動的保守主義や反ユダヤ主義などの権威主義者のイデオロギーのあり方からは独立した、認知スタイルのみを測定することを目的とした「ドグマティズム」という社会心理学的変数を開発した。ロキーチは、「ドグマティズム」は、「外界から受け取った有意味の情報をどの程度、その人の内部あるいは外部に起因する無意味なものに妨げられずに受け取り、その真価を問い、それによって行動できるか」を測定するものであると規定している。「ドグマティズム」の値の高い者は、自己の既存の認識を防衛的に保持するために、その修正を迫るような新しい情報を既存の認識に沿うように歪めて受容すると考えられるのである。実際、「ドグマティズム」の値の高い者は、経験や情報を受け取る際に、自己の既存の信念や認識に影響されやすく、それらに沿うような形に新しい経験や事実を歪曲してしまうということを示した実証的な研究結果が多数報告されている。

 ここで、反動的保守主義や反ユダヤ主義などの特定の政治的イデオロギーから分離したカタチの権威主義的な認知傾向を「ドグマティズム」と呼んでいるのですが、これを読めば、何故リフレ派などが、様々な状況的、理論的データから、金融政策万能主義的な論理が否定され、財政政策の有効性が示唆されるような根拠が示されても、彼らが頑なに考えを改めず、データを歪曲したり、曲解してまで自己の既存の見解に固執するのかが理解できるのではないかと思います。

 不安の経験と曖昧さに耐えられない認知スタイルとの間の因果関係は、ほぼ次のように説明することが可能であるといわれている。人間の心理には、自分の能力によって対処できないようなあまりに脅威的な事実や経験に直面した場合、それらの脅威的な事実や経験を意識化せず認識しないことによって、あるいは、より脅威的ではないものとしてそれらの事実や経験を歪曲して受容することによって、主観的な安定感を維持し、自己を防衛するメカニズムが存在している。(中略)彼らは、自分にとって否定的なものと感じられる、自己の既存の認識や信念に矛盾し対立する経験や事実が現れた場合、それらの事実や経験から絶えず自己を防衛していくために、それらとの接触を回避するような、あるいは既存の認識や信念に適合するようにそれらを歪曲して受容するような認知スタイルを発達させ身に付けてしまうのである。したがって、認知的柔軟性を欠いた硬い認知スタイルを持つ人は、脅威的で不安な事実や経験に対処する自己の能力に対して不信感を有し、自己自身について否定的な評価を行っている人々であると推測される。硬い、曖昧さに耐えられない、ドグマティックな認知スタイルは、自分を一時的にでも否定するように感じられる脅威的で不安に思われる事実や経験から、自己を主観的に防衛するための機能を果たすために発達したものと考えられるのである。

 なるほど、彼らがむやみやたらと自己の見解に否定的な他者を手当たり次第に非難罵倒する様子も、普通に考えれば全く不可解であると言わざるを得ませんが、彼らが、自己の見解に否定的な意見を、自分自身に対する重大な脅威であると感じ、それに対する防衛的な反応として、あのようなヒステリックな非難罵倒や誹謗中傷を繰り返しているのだと考えれば、あのような不可解な言動にも納得がいくのではないでしょうか?




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