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2014年10月09日

何故リフレ派はリフレ理論が正しいと考えるのか?〜確証バイアスとリフレ理論〜

 今回の記事は、以前書いた二つの記事(『供給制約があるから公共事業は増やせない!!の嘘〜上念先生がまたしても論破されてしまった件〜』http://achichiachi.seesaa.net/article/406654613.html 『非実在供給制約〜上念信者って、なんでこんなに馬鹿なんでしょうか?〜』http://achichiachi.seesaa.net/article/406770844.html)の続編であり、完結編でもあります。

 まあ、今回までの流れをざっと説明すると、
『供給制約があるから公共事業は増やせない!!の嘘〜上念先生がまたしても論破されてしまった件〜』
http://achichiachi.seesaa.net/article/406654613.html

では、リフレ派経済評論家の上念司氏の主張する「供給制約があるから、これ以上公共事業をやっても経済に良い効果を及ぼせない」ということが如何に間違っているかを説明し、次の
『非実在供給制約〜上念信者って、なんでこんなに馬鹿なんでしょうか?〜』
http://achichiachi.seesaa.net/article/406770844.html

では、最初の記事に書き込まれていた上念信者のメチャクチャな反論コメントを紹介し、如何にリフレ派の考えがおかしいかについて説明しました。そして、今回は完結篇で、何故リフレ派はこれほど破綻しきっている理論を未だに信奉し続けることが出来るのか?という問題について確証バイアスという概念を用いて説明します。

 というわけで、まず初めに確証バイアスとは何か?ということについての説明を引用したいと思います。

認知バイアス【都合の良い事実しか見ない (確証バイアス)】 意味と例

(Wikipediaより引用)
確証バイアス(かくしょうバイアス)とは社会心理学における用語で、個人の先入観に基づいて他者を観察し、自分に都合のいい情報だけを集めて、それにより自己の先入観を補強するという現象である。

例えばグループに一人だけAという女性がいた場合(他は全員男性)、Aが様々な行動を示していたにもかかわらず、自分(男性)が持つ女性への固定観念に合致する行動だけを特別に認識して、「やはり女性は○○である」という結論を導くといった行為を指す。

(『リスク認知のバイアス』より引用)
 人は、自分が本当だと思っていることを確かめるための情報は探しますが、反証となるような証拠を無視したり、探す努力を怠ったりします。このため、最初の判断を補強する情報だけで調整が行われ、自分の判断は「間違っていない」と思い込んでしまいます。
http://ronri2.web.fc2.com/shinri07.html


 要は、人間は自分の先入観に基づいてあらゆる物事を評価する傾向があるということですね。藤井聡さんの好む言い方を用いるなら、先入観=ドミナントストーリーと読み替えても問題ありません。

 先の引用文を用いて、リフレ派の人間の心理を説明するとこうなります。

 リフレ脳とはネット保守界におけるリフレ派の連中を揶揄するための用語で、リフレ派の連中がリフレ理論に基づいて社会を観察し、リフレ理論にとって都合のいい情報だけを集めて、それにより「リフレ理論は正しく藤井聡と中野剛志と三橋貴明は間違っている!!」という信念を補強するという脳の病気である。

 例えば内閣に一人だけHというリフレ派の権威がいた場合(他の参与は全員非リフレ派)、Hが様々な行動や政策案を示していたにもかかわらず、自分(男性)が持つHへの固定観念(Hはリフレ派だからHの経済問題に関する主張は全て正しい)に合致する行動だけを特別に認識して、「やはりH教授は正いし、リフレ理論も正しい!!それに比べて藤井参与はデータは捏造するし、論点のすり替えは行うし、そもそも考え方が根本的に間違っている」という結論を導くといった行為を指す。

 リフレ派は、リフレ理論が正しいことを確かめるための情報はデータをねつ造してでも探し出そうとしますが、反証となるような証拠を無視したり、探す努力を怠ったりします。このため、リフレ理論は正しいという判断を補強する情報だけで調整が行われ、リフレ理論は「間違っていない」と思い込んでしまいます。


 まあ、ちょっと長くなってしまったので簡潔に説明すると、要は人間は自分自身の基本的な信念(ドミナントストーリー)に合致する情報は、ほとんど無批判に正しいと思い込み、その信念に反するような情報は徹底的に無視するか、過小評価するかして、最初の信念をますます強化するという傾向があるわけですね。

 今回、問題にした供給制約などは典型的な例で、要は、朝日新聞やリフレ派のような「公共事業は悪だ!!」というドミナントストーリーを持っている人間は、そのドミナントストーリーに沿った下位ストーリーを信じたがる(というか実際に信じる)傾向があるわけです。

 「日本の公共事業は多すぎる!!」「日本は借金大国だから公共事業は増やせない!!」から始まり、「公共事業で経済状況を改善させようとする考え方は古い!!」「公共事業は利権の温床になっている!!」等々、様々な理由を持ち出しては論破され続け、その挙句に出してきたのが今回の供給制約なわけです。それで、今回、またしても供給制約の理屈が論破されたので、ここで先に予言しておきますけど、おそらく、公共事業反対派の連中は、もう一度「日本は借金大国だから公共事業は増やせない!!」「公共事業で経済状況を改善させようとする考え方は古い!!」「公共事業は利権の温床になっている!!」という過去に論破された理屈を持ち出してきて、公共事業反対を唱え続けますよ。以前「ゾンビ経済学」なんて本が日本でも翻訳されましたけど、本当に彼らは不死身です。A理論、B理論、C理論と論破されるごとに新しい理屈を考えては論点のすり替えを行い、全部論破されつくされると、また忘れたころに過去に論破されたA理論を持ち出してくるというのが彼らの特徴です。「もう、それ以前論破したじゃん・・・」とウンザリさせればもう勝負は完全に彼らのものです。「一見もっともらしい理屈を持ち出して来て、一方的に勝利宣言を行う」というのも彼らの常套手段の一つですが、「もうこいつらには付き合いきれない・・・」と思って無視した瞬間に試合終了です。「ほら見ろ!!あいつ等反論できないじゃないか!!やっぱり俺たちが正しかったんだ!!」と声高らかに(いや、もう本当にうざいほどに高らかに)勝利宣言を行うことでしょう。

 彼らを見ると、なんとなく、『サイレン』というゲームを思い出します。『サイレン』を一言で説明すると、日本版ゾンビゲームなのですが(ゲーム中の敵キャラはゾンビではなく屍人と呼びます)、ゲームの後半で、何故屍人が人間に襲い掛かってくるのかが判明します。屍人の目から見ると、世界はキラキラと優しい光に包まれた世界であり、屍人同士では、お互いが化け物ではなく、普通の生物に見えています、が、しかし、逆に普通の人間が怪物のように見えているのです、だから屍人が人間を襲うのは、人間に敵意を持っていたり、人間を死の世界に引きづり込もうと思っているのではなく、むしろ、自分たちの住む素晴らしい世界に引き入れてあげようとしているんですね。これって、なんとなく、リフレ派の人たちに似てませんか?(笑)リフレ派の連中から見ると国土強靭化派は日本や日本国民を陥れる悪魔の化身のように見えていて、何とかして多くの人たちを麗しきリフレ界に引き込もうと必死にネット等で情報拡散している。おお!!まるで、『サイレン』の屍人たちそっくりじゃないですか!!ほとんど記憶力がなく、数秒前のことも忘れてしまうトリ頭なところや、まともな思考力をほとんど持たないところも屍人に似ているような気がします。

 というわけで、今回の結論として、最初の確証バイアスによる説明ではいまいち、リフレ脳という現象を理解しきれないという方は、是非ゲーム『サイレン』をプレイするか、『サイレン』のプレイ実況動画を視聴することをお勧めします(*′ω`)ノ゙


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続・愛の反対は?

 以前から何度か書いているように、最近仏教思想に興味を持って色々と仏教系の動画を漁っているため(何故、本を読むのではなく動画なのか?というと、単純に仕事で運転をする時間が長いのでその間ラジオ代わりに動画を流して聴いているからです)、少し仏教っぽい内容の記事をいくつか書いていて、以前書いた記事(『愛の反対は?』http://achichiachi.seesaa.net/article/406655014.html)もその一つなのですが、予想以上に反響というか書き込みのコメント数が多かったので、コメントに答えるというカタチで続編としたいと思います。

 先の記事では、マザーテレサが言ったとされる名言の一つである「愛の反対は無関心」(無韓心じゃないですよ?念のため(´・_・`))という言葉が、ある一定の真理を含みつつも、やはりおかしいのではないか?ということについて解説しています。一応、要点をかいつまんで理由を説明すると、

1 愛とは関心の一形態であり、有の概念であり、無関心は関心が無いという無の概念であるがゆえに、そのような意味において、確かに、対照的な概念であると言える

2 しかし、愛の反対は無関心であるということは出来ても、無関心の反対は愛とはなりえないため、愛と無関心が対概念であるとは定義しにくい

3 その上、このように、愛の反対は無関心という定義を真だとしてしまうと、あらゆる有の性質を持つ関心の追概念が無関心であることになってしまい議論が混乱する。つまり、愛の反対は無関心であると認めてしまうと、憎しみの反対も無関心、嫌悪感の反対も無関心、欲望の反対も無関心となんでも有りになってしまい。そもそも「〜の反対は無関心」という言葉や定義付け自体がほとんど意味を成さない空語となってしまいかねないため、やはり「愛の反対は無関心」という定義は適切ではないと思われる


といったところです(簡潔に説明したつもりが余計わかりにくくなったかも( ̄▽ ̄;))。

 以上を踏まえた上で、興味深い反論がいくつかあったので紹介します。まず、やはり、この「愛の反対は無関心」という言葉を理解する際には、特定の状況や視点、あるいは前後の文脈との関連性の理解が必要不可欠であろうという反論です。

私は、反対の対概念としてパースベクティブ(以下、「視点」の意味で用いる。)を、抜きにして成立しているものは、(今思い浮かぶ範囲では)“有”と“無”だけだと思っています。

よって、今回の御エントリーと絡ませると、愛の対概念は、

>一部真理関を含みつつ、と、仰られている様に、関心にパースベクティブを向けることにより、無関心でも問題ないと思います。

これにより、関心に“だけ”パースベクティブを向けると、論理的な間違いとは言えず、論破とはならないと思います。

何故なら、パースベクティブを何かに限定しなければならないというルールは、神で無い人間には存在しないと思います。
Posted by 愛知者(長いので一部抜粋)

愛の反対は無関心。愛の抽象度を広げて行けば、成立するのではないでしょうか?また、皆さんの抽象度を広げて下さいね!と言うマザーテレサなりのメタファのような気がします。
Posted by at 2014年10月07日 13:25

恋愛事に限って言えば「好き」の反対はね「好きじゃなくなった」ですよ。ええ。
なんか知らないけどあの人嫌い、と思っていたが、よくよく付き合ってみるといいとこあるじゃん。好きになっちゃった。ということはありますが、好きだったのに好きでほなくなってしまった、という場合、もうその気持ち回復することは100%ありません(笑)

Posted by リンクス at 2014年10月09日 00:36

格言とか名言って前後の文脈を把握してないと無意味になりますよね

スラムダンクの「諦めたら試合終了だよ」という言葉もその物語を知らない人にとってはなんのこっちゃって話になりますし

胡散臭さっていうのは、社会や個人の実体と乖離してるところからくると思うのですが、できるだけその言葉の前後の文脈を知ろうとすることの方が重要なのであって、言葉が標語やスローガンのように一般に流布してしまっている「だけ」の状況になれば単なる胡散臭いものになるのもしかたがないような気がします。

ということでマザーテレサの言葉を単に切り捨てるのではなくて、その言葉を発した人の置かれた状況を知ることの方が大事なような気がします(マザーテレサに限らず、ありとあらゆる陳腐化した言葉に対しても)。

話の本題とは少々ずれてしまいましたが。
Posted by セイタカアワダチソウ at 2014年10月09日 01:34


 つまり、仮に普遍的に「愛の反対は無関心」であると定義するのは、(先に挙げた複数の理由により)不適切であったとしても、特定の状況下において、たとえば、「特定の対象に対する関心の有無を問題にする場合」「恋人同士の恋愛感情における場合」等々、特定の具体的な状況を想定するなら、やはり「愛の反対は無関心」という言葉は十分に真になりうるということです。みなさんも、あるときには「この人と結婚したい!!」とか思ってても、時間が経つと、「あれ、なんでこんな人のことあんなに好きだったんだろう?」と疑問に思ったりすることがあるんじゃないかと思います、これなど典型的に愛が無関心に変わるような場面ですね(笑)

 また、一部の心理学では、子供にとっては親に怒られることよりも無視されることのほうが辛いことなのだと考え、一部の非行少年(別に少女でも構いませんが)が親を困らせるのは、(たとえ怒りという負の感情であっても)親から関心を持たれたいがためにやっているのかもしれないと考えることがあるそうです。このように、恋愛や親子関係といった具体的な状況を想定するなら、やはり、「愛の反対は無関心」という言葉は相当な具体性と説得力を持って真であると言えるかもしれません。

 えー、それから少々屁理屈っぽくなりますが、以下の反論はどうかな?と思ってので、最後に以下の書き込みについて再反論を・・・

U 仏教では対概念を設けるとの事ですが、以下の仮定の場合に、その対概念を設けるという思想が納得できません。

@ 仮定

1 初めて「熱い」を覚えた子供
2 その子が対概念「冷たい」を覚える前に死んだ場合

A設問 その子の「熱い」は、対概念なしに成立していたのか?

B私の回答 成立していた。何故なら母親が「熱いの?」と聞いた場合、その子は、「はいorいいえ」の意志を表示した時は、対概念なしで十分に対話が成立していた。
よって、温度と触覚(痛覚)の視点による対概念である「冷たい」は、この場合不必要である。と、私は思う。

Posted by 愛知者(一部抜粋)


 要は、子供が熱いものに触れて、そのまま、対概念である「冷たい」を知らずに死んだ場合、熱いは対概念を持つことなく成立したことになるのではないか?ということですが、これは、少々疑問です。この場合、たとえば子供が熱いモノを触って火傷して泣いているというな状況が発生した場合でも、このように認識するのはあくまでその状況を客観的に眺めている大人からの視点であり、おそらくそのような体験があったとしても、子供の主観からするならば、何かに触って痛かったとか酷い苦痛を味わったとかそのようにしか認識されず、やはりそれが「熱いものを触って火傷して痛かったのだ」と認識するためには、「冷たい」という経験と「冷たい」という概念の認識があって初めて成立することなのではないかと思います。


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