結構、この本で印象的だったことの一つが翻訳した柴山桂太さんの巻末のあとがきです。この本は、非常に論点も多く、内容はそれほど難解でもないのですが、結構読むのが大変な本で、特にゆっくり時間をかけて読んでると、読み終わる頃には結構前半に書いてあった議論とか忘れてしまうのですが、柴山桂太さんが最後のあとがきで非常に簡潔にこの本の議論の要点をまとめているので、「おー、そういえば前半はそういう議論の展開だったな」とか「なるほど、この本の議論の全体と後半はこのような流れでまとめられていたのか」内容を思い出したり、全体の議論の理解が深まったりします。なので、もし最初の議論の全体像を把握してから読みたいという方は先にあとがきを読んでから本文を読み進めていくのも良いかもしれません。
本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。昨今の新自由主義的な風潮の中で、市場と政府は対立関係にあると考えられることも多いが、本書はそれが明確に間違いであると指摘している。市場がよりよく機能するには、金融、労働、社会保護などの分野で一連の制度が発達していなければならず、政府による再分配やマクロ経済管理が適切に行われていなければならない。(柴山桂太「訳者あとがき」より)
つまり、この本の議論で最も忌避され否定されているのは、「開国か鎖国か?!」とか、「自由民主主義か共産主義的統制経済か?!」というような過度に単純化された二極化の議論ではなく、国家主権とグローバリゼーションのバランスや、自由市場と社会的規制とのバランスといったものを具体的にどのように実現していくべきか?という問題もこの本の議論全体を貫くテーマの一つとなっています。
また、この本においても、巷に蔓延る「グローバリゼーションは歴史の必然だ!!」という、歴史を経るにつれ国境の壁が低くなり、より完全なグローバルな時代がやってくるというような俗論は否定され、歴史を眺めてみれば世界はグローバル化とより強い国家主権や民族の独立の歴史を繰り返しているということを説明しています。
そのようなグローバル化と国家主権の確立の間揺れ動く世界において、市場のグローバル化が優勢になった時代に、常に問題になるのは「市場と統治の乖離」という現象です。それは、つまりグローバル化の時代には、市場の範囲は国境を越えて広がっていくにも関わらず、統治、つまり主権や社会制度の範囲は国家単位にとどまっているという逆説のことです。
では、過去の世界の歴史において、この逆説は一体どのように解決されてきたのか?再び、柴山桂太さんのあとがきから引用します。
では、市場と統治の乖離を埋めるためには、どんな方法があり得るのだろうか。本書が面白いのは、この問題の解決が過去にどのように行われたのか、歴史をさかのぼって検討していくところにある。(中略)一七世紀の重商主義の時代には、ヨーロッパの商人がアメリカ、アフリカ、アジアに進出して盛んに貿易を行っていた。一九世紀には金本位制によって、各国の金融市場が一つに結びついていた。これらの時代に、市場と統治の乖離というグローバリゼーションの根本問題が、帝国主義によって半ば暴力的に解決されたという著者の指摘は鋭い。市場の拡大に合わせて統治の範囲を拡大するには、軍事力を背景に相手国の主権を奪ってしまうのが、一九世紀まではごく普通のやり方だった。
だが、二十世紀に入ると、各国で主権や国民意識が目覚める。国民生活を安定化させる政府の役割は、民主主義の高まりによってますます重要になる。市場と統治は、今度は統治の範囲に市場を縮小させるという形で一致に向かうようになった。市場が各国の政治や社会に「埋め込まれた」結果、金融システムや労働市場、社会保護のあり方は国によって多様な発展を見せるようになった。国内市場の安定のためには、グローバルな貿易や金融の拡大を抑制することも辞さない。これは戦後のブレトンウッズ体制の特徴であり、この「埋め込まれた自由主義」体制の下で資本主義はかつてない安定的な発展を享受することになった。
そして、現在は、ブレトンウッズ体制が崩壊し、冷戦が終結した状況において、再びグローバリゼーションが台頭し、結果、私たちはふたたび「市場と統治の乖離」という問題に直面することとなっています。以前の金本位制と帝国主義の時代にも、ブレトンウッズ体制にも戻れないという状況の中で筆者が提示するのは、いわば、グローバル化と国家主権との妥協的な折衷案であり、言い方を変えるなら節度を保った賢明なグローバル化の模索であり、具体的には、グローバリゼーションが各国の国家主権や民主主義を侵害しないという範囲において尊重するという姿勢です。
例えば、自動車の排ガス規制と関税を考えれば分かりやすいかもしれません。まず、民主主義と国家主権を重視する立場からするなら、排ガス規制は、各国において、「どれだけ環境を重視し、有害なガスの排出に関してどの程度の基準を守らせるか?」という基準を設定するのは各国の裁量に任されます。しかし、現代のハイパーグローバリゼーションの時代においては、排ガス規制という基準で各国バラバラな基準を設定してしまうことはある意味において市場の分断であり、最も極端なケースでは世界統一基準の設定が求められます。このような場面にグローバリゼーションと各国民主主義の対立がみられるのですが、民主主義と国家主権を重視する立場からするなら、出来る限り各国の民主的政治プロセスを経て決定された規制や基準を尊重することが求められます。が、当然、そうなれば、グローバリゼーションには一定の制限が課されます。一方、グローバリゼーションを重視する立場においては、関税は基本的には出来る限り低く抑えられることが望ましくはありますが、適正な関税をかけられなくなった結果、国内産業が大きな打撃を受けるケースや、あるいは、新規に育成しようとした産業が、外国からの輸出攻勢により打撃を受け、国内の望ましい産業的経済的戦略の達成を著しく困難にさせられるというようなケースにおいては、一定の条件や手続きや対外的説明を経て国内産業の保護が許されるというような選択の余地を残します。
つまり、行き過ぎたグローバリゼーションによる破滅的な影響や、各国の主権を脅かすような脅威を回避しつつ、グローバル化による経済的恩恵を最大限享受することが可能となる賢明な第3の道を模索すること、それこそが本書の最大の要点なのではないかと思います。
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