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2014年08月04日

生と決断のパラドクス

 先日、チャンネル桜で行われた討論『【討論!】安倍政権への進言・諫言・提言[桜H26/8/2]』(http://www.nicovideo.jp/watch/1406879885)の中で、西部邁さんが、イギリスの哲学者が述べたという「勇気とは何か?」という問題に関する非常に面白い言葉を紹介していました。

 その哲学者曰く
「勇気とは、生きるために決断すること」
であり、また
「もっとも偉大な勇気とは死を覚悟することである」
と言ったそうです。

 一見、完全に矛盾してますよね?西部さんは「生き抜くために、死をも覚悟するという逆説」と述べていましたが、私としては、次のように解釈することで矛盾なくこの言葉の意味が読み取れるのではないかと思います。どういうことかというと、つまり、この哲学者の述べる「生きる」とは、生理的、生物学的な生存という意味で述べているのではなく、「活き活きとした活力ある生」をもって「生きる」と称しているのではないでしょうか?このように、解釈するならば、「勇気とは、生きるために決断すること」であり、同時に「もっとも偉大な勇気とは死を覚悟することである」と述べたとしても、全く矛盾なく解釈できます。

 そして、それはつまり同時に、人生や生に意味や意義を求める動物非ざる人間にとって、ただ生物学的に生存しているだけの状態は、とても「生きて」いるとは言えない、つまり「死んでいる」もしくは「生きた屍」のような状態(このような生のあり方をオルテガは「最悪の生の形態」として描いています)であり、つまりは、生の尊厳を求める人間にとって、「この一線を越えてしまったら、もはや生きている意味はないのだ」という道義的、あるいは倫理的なデッドラインの存在を暗示しているように思います。

 このような、デッドラインというものが、一体どこに引かれているのか?現代のようなぼんやりとした生の時代には、それはあまりにも曖昧模糊ではっきりしないラインに思えるのですが、おそらくそれは生死の間、ある種の極限状態において、クッキリと浮かび上がってくるのではないかと思います。例えば、政治学者の佐藤誠三郎氏(故人)は特攻隊の任務に関して次のように述べています。

しかし私は、(丸山眞男との)この論争に関する限り、中野の態度の方が優れていると信ずる。個人として当時の政府の戦争政策にいかに反対であろうと、いったん戦争が始まったら、「国民としての義務の限り」では戦争に協力するというのは、まさに健全なナショナリズムではないか・・・。ある国の国民であるということは、その国と運命をともにするということであり、したがって政府のやったことに否応なく連帯責任を負わざるをえないということを意味するのである。それは政策決定がどの程度民主的であったかどうかとは、とりあえず関係ない。・・・
私はもし10年自分が早く生まれ、学徒出陣という事態に直面したら、どのような選択をしたであろうかと考えることがある。臆病な私のことだから、喜び勇んで出陣することはなかったであろう。しかし仮に出陣を避ける方法があったとしても、それを利用して兵役を免れることには強いためらいを感じ、最終的には出陣したに違いない。そして特攻隊のような、きわめて危険な任務に応募するようにいわれたならば、第一番に応ずることはないにせよ、三番目ぐらいには志願したに違いない。・・・そして私はこのような態度が、官僚的国家主義に毒された間違ったナショナリズムとは考えない


 一体、なぜここで佐藤が特攻隊の任務に「三番目ぐらいには志願したに違いない」と考えたのか?その理由は、多面的かつ複合的であって、一言で「これが理由だ!!」と論じることは不可能です。しかし、こと個人の生の問題、あるいは心理的側面から考えるのであれば、やはり一つには、先に述べたような生のデッドライン、つまり、ここで卑怯にも特攻隊の任務から逃げ出してしまったら、もはや、自分は一体何のために生きているのかわからない。そこまでして、生き延びることになんの意味があるのか?という本質的な悩みや負い目を背負い続けることになることを理解していたのではないでしょうか?通りの良い言葉で言うなら「そこまでして生き延びようとした自分とは、一体何者なのか?」というようなアイデンティティクライシスに直面するのではないかと思うのです。

 実際に、三島由紀夫は戦中兵役を逃れたことについて終生負い目を抱き続け、また、戦後生き延びた圧倒的多数の戦後日本人の多くは、そのような負い目から逃れ、自らを正当化するために、意識的か無意識的か(おそらくはその両方でしょうが)「我々、戦前の日本人の多くは悪い軍部に騙されて、勝ち目のない無謀な戦いに協力させられた。特に特攻隊は非人道的な任務であり、軍部によって洗脳され強制的に死に追い込まれた彼らは本当に可愛そうな青年たちであった」という、あまりにも(彼らにとって)都合の良い歴史観を築き上げてきました。

 まあ、こう言うと、「一体お前は何様なのだ?」と批判されそうですが、はっきり言ってしまえば、私たちは、このようなほとんど自己の存在意義を根底から喪失して、ほとんど生きる屍となりながら、同時に、それを正当化させるために、過去の歴史をねつ造し、自分たちのために戦って死んでいった人々を徹底的に貶めながら、自分たちの存在意義を正当化した、極めて無気力かつ偽善的な民族の子孫なワケなんですね。

 別に、何も、「だからもっと自虐的になれ!!」とか「だから戦後日本はクソなんだ!!」とか言うつもりもないのですが、なんというか、こういった戦後の日本近代の一側面を全く無視して、「日本人には底力がある!!」とか「日本人は、唯物論を超越した目に見えない霊性を感じ取る感性を残している!!」などと言われると、「うーん・・・」と思ってしまうのです。

「もしかすると、自分たちは日本人としての底力を発揮するための精神の底が全く抜けてしまっているのではないか?」というような疑問や恐怖を感じつつ、「それでもなお・・・」という精神を持つのであれば、また話は違ってくるのですが、一応武家社会であり、曲がりなりにも武勇の国であった江戸時代〜明治初期の時代を持ち出して、「こんなに日本人は、凄い民族なんだ!!だから、きっと私たちも危機になったら目覚めるんだ!!」というのはあまりにも楽観的過ぎる希望的観測なのではないかと感じてしまいます。


↓新作動画です





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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 17:49 | 神奈川 ☁ | Comment(4) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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