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2014年04月02日

藤井聡さん×佐藤健志さん×西部邁さんの鼎談を見て・・・

 先日、西部ゼミナールで行っていた藤井聡さんと佐藤健志さんと西部邁さんの鼎談を見て非常に面白かったので、感想を書いてみようかと思います。

 特に、2回目の鼎談で面白いと感じたのですが、佐藤健志さんが自分の欠点を冷静に見つめることの重要性を説いていたところです。藤井聡さんは、『大衆社会の処方箋――実学としての社会哲学』という本の中で、大衆的人間の重要な特徴として、「傲慢性」と「自己閉塞性」という2つの特徴を挙げているのですが、この二つが大衆的人間の特徴であるとすると、「自分の欠点を冷静に見つめられること」は大衆的人間の最も困難とするところであると言えるかもしれません。

 ちなみに、この『大衆社会の処方箋――実学としての社会哲学』という本を書く上で参考にしたというスペインの哲学者であるオルテガは、『大衆の反逆』という本の中で「バカな人間は邪悪な人間より性質が悪い」と書いているのですが、その理由はまさに、「邪悪な人間はたまに邪悪でなくなる時もあるが、バカは自分がバカであることに気づかないために死ぬまでバカであることを止めないからだ」と述べているのですが、これはまさに先の佐藤健志さんと、藤井聡さんの発言とリンクしていると思います。つまり大衆的人間(要はバカ)は傲慢性と自己閉塞性を兼ね備えているために、自分が馬鹿であることに気づくことが出来ない。よって、そのような大衆的人間は死ぬまで自分の考えや能力に疑問を持つことなく大衆的人間として死んでいくというわけです。

 また、私は、佐藤健志さんが自分の欠点を冷静に見つめることの重要性について述べた時、即座に、坂口安吾がエッセイで書いていた、とある勇猛な女性の雑誌編集者から執筆依頼を受けたときのエピソードを思い出しました。

 この女性編集者からの以来の前に、安吾は文芸批評の仕事を請け、普段はあまり雑誌を読まないものの、この時は心中決して日本中の雑誌をみんな読んでやれという気分になり、みな読んだ後に、様々な大物作家の文章を徹底的にこき下ろすような批評を行っており、それがこの女性編集者の目にとまったためか、彼女から、「インチキ文学撲滅論」という50枚の原稿の依頼の手紙を頂いたというのです。

 その時に、書いた安吾の文章が実に面白い。

 不幸にして、僕にはインチキ文学ボクメツの勇壮遠大な雄図はないので、まして「ボクメツ」の自信はない。のみならず、困ったことに僕自身がインチキ文学の作者であって、正真正銘の文学に縁の遠い筋素性の悪さを自覚している次第である。
 荷風先生浩二先生孝作先生をヤッツケたとて「ボクメツ」しているわけではないので、いわば自戒の一法であり、先生方をボクメツするよりも自らのインチキ性を憎み呪い常にボクメツを念じているため、はからずも思いがこもって人をボクメツするかのようなアラレもない結末となる。なんじょう諸先生方をボクメツし得んや。因果はめぐり、自らをボクメツするのみ、僕のインチキ・ボクメツはただの自戒自戦自闘です。とても何々女史のように一刀両断、バッタバッタと右に左に藁人形を斬り倒すように行かない。僕はただ自分を斬っているだけ、自分のインチキ文学を憎み呪い、悪戦苦闘、あげくの果の狂態、僕はダメです、男の子だから。そして僕はともかく作家だから。僕は自分を知っています。自分のことが全部です。
 女史達はサッソウと、勇ましく、前進、ああ、スバラシイなア!インチキ文学ボクメツと仰有る。そう考えていらっしゃる。ボクメツの自信も手腕もおありに相違ない。
(『堕落論・日本文化私観』)


 この文章自体も面白いですが、さらに面白いのが、なんと、この女性編集者から依頼された「インチキ文学撲滅論」の文章の代わりに、このような文章を送り返したということです。なんとも人を喰ったというか、「私もアナタが撲滅しようとしているインチキ文学者の一人ですが、それを自覚してる分だけ貴方よりはマシでしょう」と遠まわしに言っているようで愉快な思いがします。まるで「私は自分が無知であることを知っている分だけ、アナタ方より少しばかり知恵があるようだ」と言って当時のすべてのソフィスト達に喧嘩を売り、結果として牢屋に入れられ処刑されたソクラテスを彷彿とさせます。

 また、似たような話として、ある人物に軽喜劇の脚本を書きたいから世話してくれと頼まれた時のエピソードも書かれています。

 全然素人で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万で話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、恐れを知らない。自分を知らない。
 夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我身のことに思い至って、まことに暗澹とした。まったく、人を笑うわけにはいかないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品に学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人はそういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したか、ときくと、まだ感心したものはないという。モリエールや、ボルマルシェや、マルセル、アシャアルを読んだかときくと、読んだことがないという。名前すら知らない。無茶な人だ。


 また、やはりこのような人たちに心底呆れている安吾は、先程の女性編集者と会った時に、自分の身の程を知ることの重要性を説こうかと考えますが、なんとなく思いとどまります。

 この人は、この日記をつけはじめた前日、即ち7月6日に、速達をよこして、インチキ文学ボクメツ論をやれ、という。先方が女だから、インチキ文学というのと、ボクメツというのが、なんとも、時世的に勇ましく、私は笑いがとまらなかった。女のほうが勇猛カッパツ、凄すぎるよ。私はジャーナリズムの厭らしさにウンザリして、拒絶の代わりに、勇敢無敵御婦人ジャーナリストをひやかす一文を草して、そくざに送ったのだ。
 おとなしそうな娘さんなのだ。けれども、時にチクチク皮肉めき、なにか、素直ということが悪さを意味するとでも思っている様子で、どうも苦しい。痛々しい。インチキ文学ボクメツどころか、坂口安吾などというのが、本当はインチキそのものなので、私が偉そうに、諸先輩先生をヤッツケ放題にヤッツケているのなど、自分自身のインチキ性に対する自戒の意味、その悪戦苦闘だということをご存知ない。誰しも御自身のインチキ性を重々知ることがどんなに大切か、この人に語りたかったが、素直に受けてくれず皮肉られそうだったから、言わなかった。


 坂口安吾といえば、『堕落論』というエッセイが最も有名ですが、このような文章を読んだとき、もしかしたら、安吾は堕落を愛するが故に、『堕落論』を書いたのではなく、むしろ、自らの堕落に無自覚な取り澄ました連中への憎しみから書かれたのかもしれないなどとも思えてきます。それも、安吾の一流のセンスによって、あくまで挑戦的ではなく、そのようなどこまでも立派そうな面をして取り澄ました連中をひやかすかのように書いたのかのかもしれません。


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ASREADに寄稿しました!!昔から書きたいと思ってた自己啓発批判の文章です。少々難解かもしれませんけど読んでもらえれば幸いです⇒ポジティブシンキングは人を幸福にするのか?その1〜ポジティブシンキングの問題点に関する考察〜 http://asread.info/archives/533




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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 00:30 | 神奈川 | Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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