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2014年03月05日

なぜ京都大学の哲学科は自殺者数が多いのか?〜人生の生きる意味について考察してみる〜

 最近滝本竜彦作品を読みあさっているのですが、なんとなくこの人の作品を読み続けていると、妙に鬱っぽい気分になります。欝気分のついでになんとなく「死にたい」でネット検索をしてたら(って、おい、大丈夫か俺?/(^o^)\)、京都大学の哲学科の人は異常に自殺率が高いという情報を目にしました。そこでは、「頭が良すぎて『生きてる意味なんてない』っていう結論にいきついちゃうんだってさ...」と書かれていたので、「本当にそうなのか?」と疑問に思ったので、少し考察してみたいと思います。ただ、今回は「生きていることに意味はあるのか?」という根本的な問題については考察しません。あくまで、本当に京都大学の哲学科の人たちが「頭が良すぎて『生きてる意味なんてない』という結論にいきついたから」自殺したのか?という問題について考えます。

 結論から言うと、俺の考えではこれは間違いですね。だって、普通に常識的な感覚で考えてみてください。仮にノーベル賞の中にノーベル哲学賞なるものがあったとして、世界で最高の哲学者にその賞が贈られるとします。そうなれば、おそらくは、人間の生きる意味についてもっとも深く学術的に、論理的に考察しているのは、おそらくその賞の受賞者になりますよね?

 では、例えば、このノーベル哲学賞を受賞した世界で最高の哲学者が、「人生には全く生きている意味が存在しないことが、論理的、数式的に証明されました」という声明を発表し、さらにその論理を誰でも理解できるレベルまで噛み砕いて説明し、世界中で、その論理が発表され、全世界の人間が、「そうだ人生には全く生きている意味はないのだ」という結論に達したとしましょう。果たして、その時、世界中の人間が同時に自殺することなんて有りえますか?それは絶対にありえないでしょう。

 人間は、仮に「論理的人生の生きる意味が全く存在しない」という結論に達したとしても、それが理由ですぐさま自殺することなんてありえないのです。だって、人生に生きている意味がないということと、自殺するということには、実は直接的な論理的な繋がりはないのですから。

 そうなると、京大の哲学科の人が自殺する理由は、他のところにありそうな気がします。まあ、私の考えた結論を簡単に言ってしまうと、「答えの出ない問いについてずっと考えすぎることによって気が狂って自殺した」と、まあそういうことになります。

 2ちゃんねるの有名なコピペで、ナポリタンのコピペというものがあります。内容は次のようなものです

ある日、私は森に迷ってしまった。
夜になりお腹も減ってきた。
そんな中、一軒のお店を見つけた。
「ここはとあるレストラン」
変な名前の店だ。
私は人気メニューの「ナポリタン」を注文する。
数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。
……なんか変だ。しょっぱい。変にしょっぱい。頭が痛い。
私は苦情を言った。
店長:「すいません作り直します。御代も結構です。」
数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。今度は平気みたいだ。
私は店をでる。
しばらくして、私は気づいてしまった……
ここはとあるレストラン……
人気メニューは……ナポリタン……


 いわゆる意味が分かると怖いコピペと呼ばれているもののうちの一つなのですが、実はこれ、なにも意味がないんです(一応、検索すると色々と解説も出てきますが、基本的には全てこじつけであって、本当は意味はありません)。それで、まあこのコピペは、この全く意味のない正解のない問題の答えについて延々と考え続けると気が狂うというということが言われているんですね(これが元ネタで、以後、答えのないナンセンスなのになにか意味ありげなコピペのことはナポリタンと呼ばれています)。

 それで、まあ、要は私が言いたいのは、「人生の生きる意味とはなんなのか?」と延々と考えることは、このナポリタンの答えのないコピペに対して延々謎解きをするようなものなんじゃないかと、そして、ほとんどの人はその問いを前にしたときには、このナポリタンのコピペを目にした時と同じような態度、つまり「もういや、分からないから考えるのはやめよう」と思うのですが、結局、京都大学の哲学科の人たちは、本来どこかで「もういいや」と思うべきであった問いについて止むことなく考えた結果として気が狂ってしまったのではないかと、そのように思うんですね。

 でも、やっぱり人生の生きる意味ってのは、論理的には絶対に導き出せないんですよね。そのあたりは神の存在証明に近い気がします。誰か、昔の哲学者が神の存在について言っていたのは、
「神は理性によって、その存在を証明することは出来ない。しかし、我々は信仰によってその存在を感じ取ることができる」
と。結局、生きる意味というものも、この神の存在証明に近いのではないでしょうか?それは理性によっては証明できないけれど、困難なやりがいのある目標に到達しようと努力しているとき、あるいは愛する仲間やパートナーと素晴らしいひと時を過ごしたとき、あるいは広大な自然や、素晴らしい芸術に触れて思わず感動してしまったとき。このような時に、人は理性ではなく、感性として人生の生きる意味を感じ取るのではないでしょうか?そこで、じゃあ、自然と触れ合うことに意味が有るってどう論理的に証明するのですか?などと問うのはどう考えても野暮な行いでしょう。

 また、世界的な名著である『夜と霧』を書いたフランクルは、『人間とは何かー実存的精神療法』という本の中で、人生の意義について次のように例えています。つまり、豚や牛のような家畜は、自分が何のために生きているのか理解ができない(実際には、人間に食されるために生きている)、そして殺される時にも何のために殺されるのかを理解できない。しかし、家畜を飼う人間との信頼関係によって、牛や豚は自分たちの生と死に意義があるのだと感じ取ると。フランクルは人間も同じようなものだと言うのです。つまり、人間は自分自身では自分の人生の生きる意義を理解することは出来ない。しかし、自分より大きな存在(おそらくは神のことでしょう)は、その存在意義を理解しているし、その大きな存在との信頼関係を構築することによって、人間は自分の人生に意義があるのだと感じ取ることが出来るのだと。

 また、特殊性と普遍性という問題もありますし、多様性の問題もあります。例えば、特殊性と普遍性の問題では、教師の仕事をしているAさんにとっては、教え子たちを立派な大人にするために教育するのが人生の意義目標あり、政治家であるBさんにとっては国民や国家を導いていくという意義目標があり、また宗教家であるCさんにとっては、宗教的な教えを人々に説くことが意義目標であったりするでしょう。しかし、このAさんBさんCさんに共通の普遍的な人生の意義というものを考えるのは困難なのです。もちろん、抽象的にはそれは説明しうるかもしれませんが、具他的な人生の意義は個別的にしか存在しないのです。そして、多様性で言えば、教師であったAさんは家庭に帰れば妻に対しての夫であり、子供に対しては父親であるかもしれません。また友人の中に入ってみれば、そこでの立場というものが存在するでしょう。そして、それぞれの立場において、それぞれの存在意義があるわけです。

 しかし、科学の分野でよくありがちな現象ではありますが、このような具体性、個別性の認識を欠いた状態における、普遍的な生の意義「人生の生きる意味はなんなのか?」という問いは、ほとんど確実にどこかで袋小路に陥ります。それでも、頑張って解答を見つけようとするなら、やはりその人はナポリタンのコピペについて延々考え続ける人と同じで、どこかでどうしても気が狂わざるを得ないのではないでしょうか?私にはそのように思えるのです。


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小説『笑わないセールスマン』第三話〜ニーチェかく語りき〜

 第二話⇒http://achichiachi.seesaa.net/article/389532483.html

「ねーねー、しんちゃん!!何、ずっと本読んでるの?」
「ん?何って?ああ、ニーチェの『善悪の彼岸』だけど・・・」
「もー!!そういうことじゃなくってさ!!せっかくこんなに小動物みたいにキュートでプリティーで愛らしい彼女が部屋に来てあげてるんだからちゃんと構ってよ!!」

 こいつの名前は、紗南由紀、SNSのオフ会コミュニティーでの飲み会で知り合って、その後、2回目のデートで付き合うことになった。

「ねー、しんちゃん。あのさ、私たちって付き合ってるんだよね?」
「?!」

 出会ったオフ会も入れて、まだ3回しか会っていなかったし、それまで、どちらも付き合おうと切り出したことはなかったのだが、どうやら、いつのまにか俺たちは付き合っていたらしい。「付き合ってください」ではなく「付き合ってるんだよね?」って、新しい告白?

「うん、突然何言い出すんだよ?俺たちラブラブカップルじゃないか!!」

 結構顔も可愛くてスタイルも良かったし、なによりちょっとバカっぽい言葉遣いが俺のツボだった。断る理由は何一つなかったので、俺は付き合うことにした。いや、付き合ってることにした・・・か?

「ごめんな、ちょっとどうしても、仕事の関係で今日中に読んでおかなきゃいけないんだ。読み終わったら・・・な、ずっと構ってあげるから、ちょっと待っててな」

 俺は、現在小説の執筆の他にも、いくつかの雑誌とWEBサイトでもコラムの連載を持っている。というよりも、小説を書いても大した金にはならないので、むしろ仕事としてはそちらがメインである・・・

「もー、ところでさ、そんな本を読んで面白いの?」
「ああ、面白いよ。ニーチェは、この善悪の彼岸でさ、過去の哲学者たちが道徳性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあること、特にカントとかルターとかの哲学者や宗教家たちがキリスト教の諸前提を盲目的に受け入れていたことについて批判してるんだ。うーん、難しいかな?もっとわかりやすく言うと・・・」
「いやっ!!もういい!!聞きたくない!!」

 あーっと、またやってしまうところだった・・・。中高一貫の男子校に通っていた俺は、女の子と、いわゆる恋人らしい会話をするのが苦手なのだ。悩みを相談されると、つい哲学的観点、や実存的問題を踏まえつつ精神分析をしてアドバイスをしたり。あるいは、由紀の「世の中おかしいよね?」という一言に反応して、現代の社会の問題と政治の行き詰まりについて解説してみたり。そういえば、ある時は、仲が良かった女子高生の女の子(名前は里沙ちゃんといった。ちょっと大人びた感じだったので、年上の俺とデートすることで同級生の友達たちに対してちょっとした優越感を感じたかったのかもしれない。ちょっとしたアイドル並に可愛い顔で、そして何より高校2年生にしてGカップのバストの持ち主というのが素晴らしかった。俺はこの子にメロメロだった)とデート中の食事の席で、「今の日本経済って大変なんだよね。デフレスパイラルって、怖いんだよね。」という一言に反応し、俺の経済及び、経済学の知識をフル動員し2時間に渡る「日本経済が如何にして現在のデフレ不況を脱却するべきか?」につての講義をしてしまったことがあった。講義中、何度も「ふーん」と言っていた彼女は、2時間に及ぶ講義が終わったとき、今まで見たこともなかったような満面の笑みで「へー新一君って何でも知ってるんだね!!すごいね!!」と言っていた。

 異常なまでに鈍感な俺でも、この今まで彼女の見たこともない、何とも言えない満面の笑みによる一言で、この上ない皮肉を言われたことに気づいた・・・そして、同時に「しまった!!」と思ったが、もう遅かった。

 その後、プラネタリウムに行き、別れた後、メールで「今日は、楽しかったよ!!また、今度暇なとき遊びに行こうね」と送ったが・・・
「私ってさ、馬鹿であんまり難しいこととか分からないからさ、新一君みたいに頭良い人とは合わないのかもしれない。新一君はさ、もっと頭の良い、難しい話も理解できるような女の子と一緒にいたほうがいいよ」
という返事が来た・・・文章の最後に、その日あの子が見せた満面の笑みそっくりの顔文字が付けられていたのがなんとも印象的であった。

 うーん、やはり、この対応は明らかにまずかったな・・・と、しかし、「あれはダメだった!!」とただ嘆くだけの愚か者ではない俺は、さまざまな参考資料(『モテる技術』『モテる話術』『LOVE理論』etc・・・)を読みあさった俺は、あの子が「今の日本経済って大変なんだよね。デフレスパイラルって、怖いんだよね。」と言った時、どのような対応を取るのが正解だったのか、どう反応するのがベストの対応だったのかについての完璧な解答を導き出した!!そう、彼女が「今の日本経済って大変なんだよね。デフレスパイラルって、怖いんだよね。」と言ったとき、俺はただ一言・・・
「うーん、そうだよね。けど、里沙ちゃんはすごいね!!そんな難しいことまで考えてるんだね!!」
と言ってあげれば良かったんだ。いや、むしろ、それ以上のことは全く期待していなかったし、里沙ちゃんはそれ以上細かいことをごちゃごちゃ言われたくはなかったのだ!!

 こうして、俺はひとつの真理を学んだ。女の子は、論理的な会話などしたくないのだ。女の子にとって会話とは知的刺激を受けるための娯楽や作法ではなく、感情の交流なのだと、ありていに言ってしまえば、「そうだね、そうだね、○○ちゃんは大変なんだね!!でも、そんな大変なのに頑張ってる○○ちゃんは凄いね!!偉いね!!天使みたいだね!!」と言ってやれば良いのだ。もちろん、誠実な男は、真剣に好きな相手にそんな適当なおべんちゃらをペラペラと言ってやることなどデキはしない、だからこそこの世の中では不真面目で、適当で、チャラついた男がモテるのだ!!

 まったくもって世の中間違っている!!そんな女の子に適当におべんちゃらを並べ立てて、適当に良い気分にさせておいてあわよくばワンチャンセックスを狙ってるようなふざけた男どもより、俺のように、ニーチェやキルケゴールやウィトゲンシュタイン等のさまざまな思想家、哲学者の書いた難解な書物を愛読し、人生についての深い真理を得ようと欲する俺のような男のほうが、ずっと真面目で誠実で、魅力的で、精神的にも、そして人間のランクとしてもずっとずっと格上のはずなのに!!そんあ俺のほうが、もっとずっとたくさんの女の子から「きゃー新一さんって知的で素敵でインテリジェントでワンダフォーで魅力的です!!今すぐ私とセックスしてください!!馬鹿で無知で無教養な私のマン○に、新一さんの知的で教養ある思慮深い肉棒をズボズボと突き刺してください!!」と言い寄られてしかるべきなのに!!何故?!何故、里沙ちゃんはあの日から、俺に会ってくれなくなったのだ?!何故、俺は、あのはち切れんばかりの魅力的なGカップの乳房に手を触れることすら叶わなかったのか?!人生とは、なんと不条理であることか?おお神よ!!なぜ、あなたはこのような苦難を私に授けたもうたのか?!ああ無情・・・

「ねー、ところで、ニーチェってそんなに面白いの?」

 由紀の一言が、完全に過去にタイムスリップしていた俺の精神と魂と現在に引き戻した。

「うん、まあ面白いよ」
「ふーん、ところでさ、その本を読んだら、なにか人生で役に立つの?」
「うーん、どうだろうなぁ・・・」

 非常にありふれた問いではあるが、その時、何故か俺には、その問いが非常に本質的な問題のように思えた。俺の読書歴の始まりは中学二年生の時に、父親の本棚に置いてあった『日常で使える心理学』という本であった。何気なく、手に取った本であったが、読み進めるうちにどんどんハマっていき、読み終わったあとにはすっかり心理学の虜になって、近くの市立図書館で心理学関係の本を片っ端から借りて読んだ。最初は、あまり難しい本は理解できないので、実用書的な内容の本が多く、常に、この本に書かれている内容は、日常生活にどう役に立つのだろうか?あるいは、どうすれば役に立つように応用できるのだろうか?という視点から読んでいた。

 しかし、最近はどうであろうか?たしかに、昔よりも難しい本の内容を理解できるようになって、もっとずっとレベルの高い内容の書物を読むようにはなった・・・しかし、これらの難解な書物は、果たして俺の日常に役に立っているのだろうか?もしかしたら、俺が現在行っている読書は、哲学書ならば、哲学のための哲学、あるいは思想の本であれば、思想のための思想として読んでいるのではないか?つまり・・・現実の日常生活から読書というものが乖離しているのではないだろうか?という不安に苛まれた。

 ある偉い哲学者が言っていた「知識が生の原理、つまり日中の営みから乖離していったとき、人はホモデメンス、つまり気が狂った狂人となる。知と生の乖離が人間を狂気に誘い込むのだ」と。では、果たして、哲学のための哲学的思索を行い、思想のための思想的思索を行う俺は、すでに極めてホモデメンス・・・すなわち狂人に近い存在なのではないか?

「なあ、由紀。由紀は、俺のことをどこかオカシイと思ったことってあるか?」

 俺はおそるおそる由紀に尋ねてみた。すると、「え、何をいっているの?」といった表情で由紀はこう答えた

「えー、しんちゃんは、初めて会った時から、変わった人だなーって思ってたよー。多分、しんちゃんくらい挙動不審な人ってネットでもなかなかいないよ、一発でこの人やばそうだなーって思った(笑)」

 そうか・・・やはり俺はすでにホモデメンスと化していたのだ。まさに、知と生の乖離こそが俺を狂気へと誘ったのである。ニーチェは、言った「大地と繋がれ!!」と・・・人間が人間らしく生きるためには、大地とのつながり、自然とのふれあいこそが重要なのだ。そう、俺のように一日中アパートの一室で、読書と文章の執筆に励む生活は、容易に人間を狂気に追い込むのである。こんな不健全な生活をすでに二年以上も続けている俺は、今こそ生活を改めるべきなのだ!!そうだ、今から農家に転職しよう!!そうだな、やはり人間性を取り戻すには、広大なあの北の大地こそがふさわしい、そこで農作業にたずさわり自然と触れ合うことで、俺は喪失しかかった人間性、生の原理を取り戻すのだ!!

「なあ、由紀」
「ん?」
「あのさ、もし、俺が今から北海道に行って、農業を始めると言ったら、お前もついて来てくれるか?」
「えー、嫌だよ。だって、寒いもん」
「そうか、たしかに北海道は寒いもんな・・・」

 その後、寒いけど、冬にはスキーもスノボーの出来るよ!!夏は涼しくて快適だよ!!と様々説得を試みるも、「えー、やだよ。第一北海道とかダサいし」という一言ですべてが終わった・・・こうして、俺の人間性を取り戻す試みは早々に挫折した。


 久しぶりに、小説の続き書きました!!滝本竜彦作品を何冊か読んで刺激を受けたので、今後はバリバリ書いていきたいんですけど、やっぱり慣れないとちょっと大変ですねー。まあ、今後もマイペースで書いていくんでよろしくお願いします( ̄▽ ̄;)


↓久しぶりに、ニコニコ動画にダンス動画投稿しました!!良かった再生&コメント&マイリスしてもらえると嬉しいです!!




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