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2014年02月28日

佐藤健志の『僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された』から考える失恋論

 佐藤健志さんの『僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された』の話を聞いていたら、なんとなく思いついたので書いてみようと思います。普段、恋愛論とか、恋愛観とか書いたり語ったりするのって、あんまり好きじゃないんですけどね。まあ、情緒的というより少しロジカルな感じで説明してみようかなと。

 佐藤健志さんは、日本人の心理として、戦後大きな破局を迎えた時に、必ず日本人は敗戦時に心理的に回帰し、何度も敗戦を繰り返すということを説明しています。それを表す象徴的な言葉が「第2の敗戦」という言葉ですが、この「第2の敗戦」という言葉、実は、最初に使われたのはオイルショックが起こった1975年、これが日本人にとっての最初の「第2の敗戦」だったわけです。その後、震災とオウム事件が発生した1995年が2度目の「第2の敗戦」で、そして、2011年の東日本大震災が3度目の「第2の敗戦」と呼ばれました。

 この「第2の敗戦」という言葉は、まさに象徴的で、この戦後の敗戦は、決して何度も積み上がって、第2の敗戦から、第3の敗戦、第4の敗戦と回数が積み上がっていかないのです。つまり、日本は戦後大きな破局を迎えた時に、必ず敗戦時にまで精神的に回帰するという心理的特性を持っているのです(これは、なにか、日本が改革を行う際に、常に維新という言葉を持ち出し、変革期において、必ず幕末の維新期に精神的に回帰するということと非常に共通点があるように思えるので、佐藤さんには是非その辺についても分析して欲しいです)。

 そして、問題は、なぜ日本人が戦後、破局を迎えた時には必ず敗戦時に心理的に回帰するのか?ということなのですが、ひとつの要因として、佐藤さんは日本の戦争の負け方が悪かったということを指摘しています。

 つまり、「あとに続くを信ずる」と述べて敵の艦隊に特攻していった仲間たちの姿を見ながら、残された者達は、「彼らだけを死なせるわけにはいかない・・・」という想いを抱きながら、1億総玉砕となる本土決戦の覚悟を決めていたわけです。しかし、戦争は2度の原爆投下という悲劇の後、本土決戦を経ずして終結してしまうのです。

 さて、ここで、たしかに生き残った人々は、破滅的な結果でなったであろう本土決戦を回避することとなったのですが、当然、ここですぐさま「ああ、良かった自分たちは破滅的な結果になったであろう本土決戦を回避出来てラッキーだった」などと考えられるほどに人間は単純でも下劣でもないわけです。「あとに続くを信ずる」と述べて特攻した仲間たちの姿を見て、「彼らだけを死なせはしない」と自分も死ぬことを決意した彼らは、たとえその後本土決戦を回避し、自分たちが生き残ったのだと理解しても、もうすでにその時には肉体も感情も精神も死を覚悟していたわけです。精神的、感情的に死を覚悟した者達は、そう簡単に、「そうですか、私たちは幸運でしたね」と納得して、普通にその後の日常生活を営んでいくわけにはいかないのです。

 なんとなくですが、相当に話の次元が低下することを承知しつつも、個人の次元で言えば失恋体験に似ているのではないかと思います。一人の女性、あるいは男性が、あるパートナーに対して、「この人と一生を過ごそう」あるいは「この人のために私の一生を捧げよう」と決意したとします。その時、相手から捨てられた場合、個人の人生としては、ひとつの破局的体験となりうるのではないでしょうか?つまり、「自分の一生は、この人のためにある」と決意しながら、その人に捨てられるという体験は、単純に言って、自己の人生の意義の喪失であるわけです。そう考えると、失恋を期に自殺する人や、人生の(善きにせよ、悪きにせよ)転換点とする作家や芸術家が存在するということも理解できるのではないでしょうか?特に、作家や芸術家は、内面の大きな感情の変化を表現する手法に長けているため、それを大きな転機としうるのではないかと思います。

 まあ、この失恋体験の場合には、戦友との死別とは違い、多くの場合次の恋愛体験により、ショックを消したり、和らげたりすることが多いのですが、そのような体験を経ない場合、長い時間に渡ってショックが継続することが多いのです。

 実際、一部の際立った美男美女などを除けば、限られた青春時代において出会う真剣な恋愛感情を抱ける異性との出会いや恋愛体験というものも限られていますので、案外失恋による精神的ショックを長い期間引きずる人は多いのではないかと思います。ちなみに、私の好きな著述家のニーチェもキルケゴールも恋愛に対して強いトラウマを持っています。ニーチェは異性にモテなかったし、しかもショタホモの疑惑があり、キルケゴールは婚約者との婚約を破棄し、その体験を一生引きずることになります。ニーチェはルサンチマンを批判し、キルケゴールは絶望を批判するのですが、このような経緯を知りつつ彼らの作品を読んでみると、「お前らこそまさに、絶望とルサンチマンに支配されているではないか?!」と思わず突っ込みをいれたい衝動に駆られます。バキふうに言えば「アンタは違うのかい」といったところです。

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↓さすがに、敗戦と失恋体験を結びつけるのは無理やり過ぎですかね?まあ、せっかく思いついたので書いてみました。面白いと思っていただけた方はポチっとお願いします(σ≧∀≦)σ


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不幸論

 最近、鬱っぽいエントリーが多くて申し訳ないですが今回も欝エントリーで・・・。

 最近、妙に、昔のことを思い出したり、なぜか昔のことを振り返ったりしたくなるのですが、「なんでだろうか?」と考えると、例の好きだった子に彼氏ができて、なんとなく昔よく感じていた不幸感というものを思い出したからだと思うんです。

 考えてみれば、自分は、昔はずっと不幸感を抱いていたなあと思います。以前書いた記事(『小説家 滝本竜彦について・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/389590610.html)で、高校を中退して引きこもってた時期を暗黒時代と呼びましたが、実は、俺が「自分は不幸だなぁ・・・」と感じていたのは、それ以前からで、中学生の時から、ずーっと自分は不幸なのだと感じていました。別に、勉強はそこそこ出来たほうだと思うし、友達もいたのですが、何故か「自分は不幸だ」という感覚を抱き続けていました。

 実際のところ、私の読書歴は、「この不幸感をどう克服するか?」という一点を目的にさまざまな書物を読みあさることから始まりました。「なぜ、自分はこんなに不幸なのか?」「どうすれば、この不幸から抜け出せるのか?」今思うと、ほとんど何の根拠もない強迫観念に近いものだったのではないだろうか?とも思えるのですが、当時は真剣でした。しかし、人間の思いというものは思いのほか強い影響を及ぼすもので、結局その後「自分は不幸なのだ」と強く思い続けた結果、高校を中退して、友達もほとんどいなくなり(もちろん、恋人などもってのほかです)本当に、周囲の人から客観的に見ても十分納得いくほどに不幸な状況になりました・・・。

 その後、大検を取得して、大学に入学し、友達も出来て、空手の試合でも活躍できるようになって、ネットビジネスを始めたり、時には女の子と付き合ったりもして、まあ、色々と楽しいことをしたり、集中できることを見つけたりしてハイになって9年ほど過ごしたのですが、なにかこう、先日例の女の子に振られたことで、妙にテンションを上げてハイになってた何年間かが一区切りついたように感じられました。

 結局、ハイになって過ごしていた数年間は、自分の不幸感から目を逸らし続けた期間に過ぎなかったのではないだろうか?やはり、中学〜高校を中退していたあの時期に抱き続けていた不幸感、あれこそが俺自身の本質なのではないか?とまあ、今となってはそのように感じられるわけです。

 結局、今の状況を眺めてみれば、空手も、仕事も、あるいは友人や恋人との付き合いも何一つものになってはいないではないか。いろんなことに手を出してみたものの、はっきりと満足のいく成果はなにも出してないではないか?と、まあそんなふうにも思えるわけです。

 もちろん、まあ、新しく集中できることを見つければ、また再びハイになって、活動的になることも出来るのかもしれませんが、一方で、この不幸感というものが、善きにせよ、悪しきにせよ、自分にとって重要な感情、あるいは実感であるならば、そこから目をそらすような気晴らしを見つけて楽しく過ごすことよりも、この何年間か、無視してきたその感情をしっかりと直視し、それとどう付き合うか?如何に折り合いをつけるか?ということについて、少しの間じっくり考えてみるのも良いかなとも思うのです(もちろん、それは恐ろしく辛く苦しいのですが・・・)。先日、キルケゴールの『死にいたる病』を本屋で購入し、今読んでいるのですが、それもやはりそのようなことを潜在的に感じ取っていたのではないかと思います。

 それから、この不幸感を表現する方法としては小説は優れた方法なのではないかとも思っています。もし仮に、この自分の今の不幸感、絶望感を、自分の体験した事細かなエピソードを添えて書いてみたところで、ほとんど自慰行為のような虚しさ、不毛さのみが残りますが、小説というカタチで表現することでひとつの作品としてそれを表現できるのではないかと思います。

『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』では、私たちが現実だと思っているものについて、それは、現実に存在に紐付けられた我々の想像であると述べていますが、そのように考えるなら、創作と現実の考察というものは私たちが感じているほどの決定的な差異はないのではないかと思います。この本の著者は、現実とは存在に紐付けられた想像であると述べていますが、想像や創作においても、それが完全に現実と遊離することはできず、人間が行う創作は、やはりどこかで現実と紐付けられているのです。そういう意味では、現実と、創作の違いは、現実の存在からの距離、あるいは結びつきの強さの違いでしかないではないか?このように考えるのは、少々妄想的過ぎるでしょうか?


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