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2014年02月08日

『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール ノーレットランダーシュ 著 柴田 裕之 訳)を読んで・・・そのB〜自由意思の問題〜

 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』のレビューの第3弾です
 これまでに1回目と2回目のレビュー記事も書きましたが、それぞれ独立した内容にしてあるんで、一応、前のレビューを読まなくても理解できると思います。

『『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール ノーレットランダーシュ 著 柴田 裕之 訳)を読んで・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/386933746.html

『『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール ノーレットランダーシュ 著 柴田 裕之 訳)を読んで・・・そのA〜世界を認識する方法〜』http://achichiachi.seesaa.net/article/387079996.html

 今回は、自由意思の問題について、この著者のトール ノーレットランダーシュ氏がどのように考えているかについて解説してみたいと思います。

 一連の単純な法則を完全に実行させてみると、法則そのもののなかには見つからない属性を示すことがありうる。私たちが法則のなかにそうした属性を見つけられない原因は、ゲーデルの定理とチャイティンがそれを発展させたもののなかに記述されている、世界の一般状況にある。チューリングが証明したように、私たちは、計算が停止するかどうかをなんとしても決定できないからこそ、法則から何が導き出されるのか前もって知ることは絶対に不可能なのだ。
 ある意味では、人間が自由意思を持っているかどうかなど、どうでもいいことだ。単純な法則があって、それがけっきょく、私たちの行動を決定しているのかもしれない。私たちに知りうる法則があり、その初期条件もわかっているので、原理のうえでは、ある特定の状況で私たちが何をするかをけいさんできるのかもしれない。しかし、そのような法則は計算上還元不可能である可能性が非常に高いので、私たちは、その法則が扱う情報をすべて手に入れることによってのみ、結果を計算できる。言い換えれば、私たちはある人が学んだことすべてを知り、さらにその人が経験したこともすべて経験してからでなければ、その人がこれから何をするのかを計算するための十分な情報を手に入れたことにはならない、ということだ。その人が行った所にはすべて私たちも行っていなくてはならないし、その人が行動した状況すべてで私たちも行動していなくてはならないのだ。しかし、その場合、私たち自らが必然的にその人にならざるをえなくなる。(P 449)


 ここだけ読むと、なかなか意味は理解できないのですが、つまりは、仮に人間の運命がいくつかの単純な法則に支配されていたとしても、人間がこの世界で生きていくということは、圧倒的な情報量を持ってしまうため、いくつかの単純な法則(例えばニュートン力学等)に支配されていたとしても、元の単純な法則とは似ても似つかぬ複雑かつ予測困難な振る舞いを示すことになる(これを著者は「量の増加は質の変化を生む」という言葉で説明してます)ため、人間の行動や運命は事実上完全に予測することはほとんど不可能であり、そのような状況では自由意思が存在するのかどうかなどと問うこと自体が無意味であるということです。

 うーむ、一面においては、なるほどと納得させられますが、やはり他方でどうしても納得のいかない気持ちも生まれてきます。確かに、客体的な予測という観点からすると、確かに、そもそも予測不可能な対象について、それが自由意思を持って動いているのか否かという問題は、ほとんど意味を成さないかもしれませんが、一方で自分自身が行動を起こす主体であると考えたとき、果たして自分は自由意思によって自分の行動や振る舞い、あるいは運命を変更することが可能なのか?という疑問を持たずにはいられません。

 私たちは、誰も経験的に、やる気や、強靭な意思が現実の行動や結果に大きな影響を与えることを知っています。このような事実から、どうしても実感としてはやはり自由意思を肯定したい気持ちになるのですが、すこし考えてみると、やはりこのようなやる気や意志も、果たしてそれが自発的な自由意思による結果発生したものであるのか、あるいはその人間の内外に存在するいくつかの単純な法則の結果生じたものなのか(たとえば、友人や恋人からの応援や励まし、あるいは何らかの外的要因から生じた使命感等と、自身の内的資質との反応の結果等々)、どちらであるかと考えてみたところで、結局、「もし、自由意思が存在しなかったらどうなっていたのか?」について測定する手段が存在しない以上、やはり無意味な問いであるのかもしれません。

 脳や肉体を持った人間の思考には、どうしても物質的な基礎付けが必要であることを考えれば、やはり人間の思考すら一定の法則に支配されており、仮に自由意思が存在したとしてもそれの及ぼす影響は非常に限定的であると考えるのが自然かもしれません。しかし、一方で、友人や恋人からの励まし、あるいは社会的な使命感等々から生じるやる気なども含めた自発的なやる気や意志の発生をも含めて(反応ではなく)自由意思であると考えるのであれば、自由意思の問題とは、事実の問題であるというよりも、個々人の解釈の問題であるという側面が強くなりますし、そうなると、やはり、あまり原則論として、「自由意思は存在するのか?」ということを問うことはほとんど無意味であるという著者の主張は、やはり正しいのかな?というようにも思えてきます。


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2014年02月05日

『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール ノーレットランダーシュ 著 柴田 裕之 訳)を読んで・・・そのA〜世界を認識する方法〜

 今回も、前回の記事(『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール ノーレットランダーシュ 著 柴田 裕之 訳)を読んで・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/386933746.html)に引き続き、『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』の解説です。

 前回の記事では、現実世界が有する(あるいは有しない)属性に関する記述を紹介しました。

 私たちが見たり、注意したり、感じたり、経験したりする世界は、錯覚なのだ。私たちの周りの世界には色も音も匂いもない。それらは私たちが経験するものだ。だからといって、世界がないということではない。実際にある。だが、世界はただ存在するのみなのだ。
 人が経験しないかぎり、世界には何の属性もない。少なくとも、色や匂いや音のような属性はない。
(前掲書 P 358)


 私たちは、普段世界の有する属性を当たり前のものであると認識しています。光があり、色があり、カタチがあり、匂いがあり、温度があり、音もある、常に世界をそのようなものとして認識するのです。しかし、現実には、世界はこのような属性を有していません。ただ、私たちが、「世界はこのようなものだ」と認識、あるいは錯覚しているに過ぎないのです。人間以外の動物は色というものを視覚的に認識出来ない生物が多く、私たちはそのような動物と比較して自分たちを「より正確に世界を視覚的に認識しているのだ」と素朴に考えがちです。確かに、人間は視覚によって色を認識しますが、これは何も世界には色という属性が存在していて、私たち人間が、その色を認識出来ない動物とは違って正確に認識しているわけではありません。ただ、単純に光の特性を区別するために、脳が色という属性を作り出してそれを区別しているに過ぎないのです。

 これは、説明されれば納得できるのですが、実感としてはなんとも納得し難い事実でしょう。例えば、音であればもっと納得しやすいのです。音とは空気の振動であり、この空気の振動は聴覚以外に触覚しても認識することが可能です。ですから、「そもそも世界に音という属性は存在しない。」と言われれば、「ああ、確かに、人間はこの空気の振動を音として認識しているのだな」ということが理解できるのです、現実に音を伝えるための空気の存在しない真空空間では音は発生しません(空気の振動以外の方法で鼓膜を振動させない限りはですが)。しかし、一方で色という属性は触覚以外で認識すること、体験することが不可能ですので、たとえ「そもそも世界に色という属性は存在しない。」と言われても、「じゃあ、一体私たちが認識しているこの色とはそもそも何なのだ?なぜ、色は存在しないはずなのに私たちはそれを体験できるのだ?」と疑問に思うわけです。

 これは、なんというか考えれば考えるほど不気味な話です。もし仮に、「色の存在しない世界を想像してみください」と言われると、おそらく多くの人は全てが白や黒や灰色になった世界を想像するでしょうが、それすら白や黒や灰色という色が存在しています。おそらく唯一生まれついての盲目の人のみがその世界について正確なイメージを想像しやすいのではないでしょうか。ただし、この場合でも生まれついて盲目の人は、そもそも色を知らないので、私たちのように目の見える人が想像するようなカタチで色のない世界を想像することは不可能です。

 もちろん、人間は、人間の認識の仕方をもってしか世界を認識、体験できないため、様々な属性を持たないありのままの世界というものを体験できません。しかし、多くの人にとって、それでもどうしてもありのままの世界というものがどういったものなのか想像せずにはいられないのではないでしょうか?

 このようなことを言えば、一発で頭のおかしい人間だと思われそうですが、私たちが「これこそが世界だ」と思って信じている世界は、すべてことごとく幻想であり、さらに言えば、根本的に幻想でしかありえないのです。


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2014年02月04日

『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』(トール ノーレットランダーシュ 著 柴田 裕之 訳)を読んで・・・

 今回は、レビュー記事で、バキファンの間では有名な1冊『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』という本について取り上げてみたいと思います。この本は500P以上の大著で内容も多義にわたっているので、複数回に分けてレビュー記事を書いてみたいと思います。

 この本の帯では、「意識は0.5秒遅れてやってくる。」とありますが、今回は、一体この意識の0.5秒の遅れとは何かという問題について簡単に解説してみたいと思います。

 人間の認識は、

感覚器官からの情報のインプット⇒インプットされた情報の圧縮・編集⇒意識化

というプロセスを辿ります。すなわち、人間の意識は五感から情報を取り入れてからそのままその情報を意識化するのではなく、脳内で0.5秒の情報の編集を経て意識化を行います。では、なぜ感覚器官からの情報入力の後に0.5秒の情報の編集が必要なのでしょうか?

 理由は複数ありますが、まず第一には、人間が入力可能な情報量と比較して、意識下可能な情報の量が格段に少ないので、意識下がされる前に不要な情報を切り捨てる必要があるためです。人間は感覚器官から毎秒1000万ビット以上の情報を受け取ることが可能ですが、一方なんと意識は毎秒40ビット以下、おそらくは16ビット以下の情報しか受け取ることができないというのです(ただし、この意識下されない情報は完全に切り捨てられるわけではなく、意識化はされなくとも、無意識の領域において情報が処理されます)。このため、膨大な量の情報を入力しても、その情報をすべて意識化することは不可能であるため、ほとんどの情報は無意識の領域で処分し、非常に重要で優先度の高い情報のみが情報の選別を経て意識化される必要があるのです。

 私は知らなかったのですが、どうやら人間の精神に存在する無意識の領域というものは何も19世紀にフロイトが発見したわけではなく、さまざまな実験により、人間が意識化可能な情報量は非常に限定的であり、膨大な量の情報は意識化されないままに処理される(この意識化されない情報を処理する脳、あるいは精神の領域こそが無意識です)ということはフロイトが無意識の概念を提唱する以前から認識されていたようです。

 次に、情報の意味付けです。現在では、人間以外の動物が、人間とは違った様々な方法で世界を認識していることが分かっています。意外に思われますが、この世界は、私たちが「これこそだ世界だ」と認識するようなあり方においては存在していません。

 私たちが見たり、注意したり、感じたり、経験したりする世界は、錯覚なのだ。私たちの周りの世界には色も音も匂いもない。それらは私たちが経験するものだ。だからといって、世界がないということではない。実際にある。だが、世界はただ存在するのみなのだ。
 人が経験しないかぎり、世界には何の属性もない。少なくとも、色や匂いや音のような属性はない。
(前掲書 P 358)


 音のことを考えてみれば理解しやすいでしょう。音とは現実には空気の振動に過ぎません。これを音として認識するのは、人間がその音の振動を鼓膜で感じ取ることによって認識するのであって、音というものは世界に存在する属性そのものではありません、ただ人間が空気の振動を音という属性として情報処理しているだけなのです。同様にあらゆる人間の認識は、世界をありのままに体験しているのではなく、世界の人間固有の認識の仕方によって認識しているに過ぎません。このように、世界の認識を、人間固有の、あるいは私たちひとりひとりの固有の認識に転換するためにも情報を編集する時間が必要となります。

 そして、最後にそれぞれの感覚の同期化という問題があります。もし仮に、意識が情報の編集を経ずに、そのまま情報の入力をダイレクトに意識化する場合、例えば視覚から得られる情報が脳に到達するのに0.1秒かかり、触覚から得られる情報が脳に到達するまでに0.2秒かかるとしましょう。そうすると、もし自分が何か熱いものに触ってしまった時に、先に、目で何かに触ったことを認識し、その後遅れて触覚で暑いものに触れてしまったことを認識することになります。これは、非常に気持ち悪いでしょう。ピカっと光ってから音が鳴る落雷のような現象を想像すると理解しやすいかもしれません。あるいは転倒することを考えてみても良いのですが、視覚と平衡感覚からの情報がバラバラだったとすると、まず先に自分の体が倒れていくのを感じ、その後に、目で自分が倒れていくのを確認するというようなことにもなります。このような感覚の時差を調整するために脳はそれぞれの感覚の同期化を行います。これによって、タイムラグを調整し、平衡感覚で自分が倒れていっていることを認識すると同時に視覚でも自分が倒れていることを認識できるようにするのです。このような同期化にも時間はかかるでしょう。

 もちろん、この3つだけの情報処理に限られませんが、ともかくも脳は、感覚器官から情報を入力された後に、これらを含んだ情報の編集を経て意識化を行います。

 おそらくは、ここで一つの疑問が思い浮かぶでしょう。仮に、意識に0.5秒の遅れが存在するなら、私たちは皆、0.5秒前の過去の世界を体験しているのでしょうか?

 この疑問の答えは、イエスでもあり、ノーでもあると言えるでしょう。確かに、意識は0.5秒の遅れが発生するのですが、実は、意識は現実には0.5秒遅れて意識した体験を、ちゃんと意識が発生する0.5秒前の情報の編集によって意識化される0.5秒前に体験したように認識するのです、ですから人間はこの0.5秒の遅れを認識できません。

 頭が、こんがらがってきそうになりますが、脳は経験を意識化するために0.5秒の遅れを発生させますが、その0.5秒のタイムラグを修正するために、何かが起こったときにその出来事を、あたかもその出来事が起こった時に合わせて体験し、認識したように再調整するのです。

 この時間と認識の調整機能のために、人間は、常に0.5秒前の世界を認識し続けるという、なんとも間抜けな事態を回避することが可能なのです。ただし、現実には、その時の世界をありのままに体験しているのではなく、その時の世界を同期的に体験しているような錯覚を抱き続けているだけなのではありますが・・・


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2014年02月02日

仏教は危険思想?そのA

 前回の記事(『仏教は危険思想?』http://achichiachi.seesaa.net/article/386463005.html)で、私は現世の一般的な価値観から過度に乖離した、あるいは一般的な価値観を過度に否定するような宗教の教義は危険であると説明しました。それでは、宗教というものはかなり厳しく規制すべきなのでしょか?この点に関しては私の答えはイエスでもありノーでもあります。

 例えば、オウムのようなテロ行為を行った宗教団体に対して破防法を適用せず、その後の活動を継続させているのは異常な事態でしょう。この件に関しては、政治家や警察の内部にオウムから金を受け取っている人間が沢山いるために、適正な取締りが不可能だったという噂もありますが、そういった事情とは別に、過剰に表現の自由や信仰の自由を重視しすぎる社会風土も影響しているように思います。

 一方、宗教における教義そのものに対する規制はやはり難しいかもしれません、国家によって、信仰の自由、表現の自由が保証されている以上、宗教団体の信じる教義自体を取り締まるのは困難であり、やはりどうしても事後的に社会的問題を起こした団体を事後的に取り締まらざるをえないのではないでしょうか。しかし、そのような場合でも、出家やお布施、あるいは知人への勧誘を煽り、個人の実生活に多大な影響を及ぼすようなような教義に対してなんらかの規制に対する検討の余地は存在するでしょう。

 しかし、それでもやはり私は、宗教に対する全般的な規制は、不可能であり、それをすべきでもないと考えます。このあたりの考え方は、元オウム幹部で現ひかりの輪の代表である上祐史浩氏の考えに近いのですが、危険であるからという理由は、それだけで全面的にそれを禁じる理由にはなりません。上祐氏は宗教家にしては珍しいかもしれませんが日本が原発を使用し続けることを肯定し、危険な宗教を原発にたとえて次のように述べています。つまり、「原発はたとえ危険であっても、それが必要となる様々な条件が存在した以上それを使うことは仕方がなかった。そして、現在においても経済の効率性、エネルギー資源の自立性などを考慮すると危険であるからといってそう簡単にやめることは出来ない。さらに、仮に、日本が原発を止めたとしても、中国や韓国といった隣国で危険な原発が稼働し続ける以上、日本が原発を停止しても原発によるリスクは存在し続ける。であるならば、日本のような技術的な先進国はむしろ最先端の安全性強化の技術を高めていき、必要に応じてそのような安全性強化の技術を他国に技術提供すべきである。仏教も同じで、たとえそれが危険性を持っていたとしても、それを放棄して逃げ出すことは何の解決にもならない。」と。

 さらに宗教について、全く無知であることには別の危険性も伴います。以前書いた記事(『宗教家が一般公開の場で話をする意義と危険性』http://achichiachi.seesaa.net/article/386383584.html)でも説明しましたが、全く宗教についての知識を持たないことは、危険なカルト的宗教に対しての免疫を全く持たないということに等しいわけです。

 さらに、現在のように地域コミュニティーが崩壊していき、人間関係が希薄になっていくような状況において、人々が特定の教義を共有するコミュニティーである宗教団体に居心地の良さを感じ取れば、一気のそのような教団が信者を拡大するような可能性もあります。もちろん、それが健全な団体である場合には問題ないですが、カルト的な宗教団体が信者を大量に獲得するならそれはほとんど第2のオウムと変わらないでしょう。実際に、創価学会などは、身寄りのない在日の人びとの互助的なネットワーク組織として成長してきたという側面があり、やはり、地域コミュニティーの結束や人間関係が希薄になっている社会は、カルト宗教が流行しやすい土壌を作り出しているように思います。

 このような状況では、当然コミュニティーの再生、あるいは形成が急務であると同時に、基本的な宗教の知識や、カルト団体の勧誘に対する注意喚起なども同時に行っていく必要性が高まっているでしょう。


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2014年02月01日

西部邁先生にASREADに記事を寄稿していただきました!!

【特別寄稿 西部邁 】言葉は過去からやってくる
http://asread.info/archives/428

 西部邁先生に、ASREADに記事を寄稿していただきました。

 この記事では今回の都知事選についても触れられています。

 「知ること」といえば、これを書いているさなか、都知事選の候補者が次々と名乗りを上げています。私は、随分前から、民主主義の時代に政治家になりたがる者には変態者が多いくらいに考えておりますので、都知事選にさして関心がありません。ここで指摘したいのは、都道府県の長が「知事」と呼ばれるのはなぜなのか、この知事選候補者たちは(たぶん)知ることがないだろうという点です。
 「知事」とは、六、七世紀の日本でも、国を天皇が治めることを「知ろしめす」ということからもわかるように、政治を行うことです。そして、なぜ政治が「知る事」なのかというと「天命を知り、それを民人に知らせること」が政治だからとなります。天命とは、今で言えば「揺るがせに出来ぬ真実(に近い価値や規範)」といったようなことです。一体全体、これら候補者たちはそんな凄いものを知るための努力をどこでどれくらい払ったというのでしょう。そんな努力はおおよそゼロだ。と候補者の顔相からしてすぐわかるのです。私のいいたいのは、知事のことについて喋々するのなら、知事の由来についてせめて一分間くらいは思いを巡らせたらどうか、ということに過ぎません。


 twitterでは、「この記事を是非都知事選の立候補者に読んで欲しい」という書き込みもされていたのですが、どうでしょう、なんとなくですが家入一真あたりの支持者などは、「こんな古臭い考えを持ったじじいの説教など聞きたくもない!!」といった反応をするような気がしなくもありません。

「皆で、選挙に行きましょう!!」
「私が、知事になれば、こんな素晴らしいことをたくさん実現します!!」
そして、中には、
「選挙って楽しいですね!!皆も楽しく政治に関心を持ちましょう!!」
などというワクワクマインドで選挙に立候補する人間まで出る始末です。「天命を知り、それを民人に知らせること」が政治なのだと考え、政治について深い洞察を得られるよう真剣に考えてみてほしいなどという贅沢を言うつもりもありません。せめて、政治に関われば、「自分の判断一つで、どんな大量殺人犯よりも圧倒的に多くの人びとを死なせたり、不幸にさせる可能性がある」あるいは、どれだけ最善の判断を下しても、誰かが圧倒的な不利益を被るのだという程度の自覚はして欲しいと思います。

 そして、まあ西部先生も書いているように、おそらく、ほとんどの候補者にとって、そのような自覚は皆無であろうと、その呑気な面構えを見ればおおよそ推測可能なわけです。

 最後に、今回の西部先生の特別寄稿をはじめとして、ASREADでは今後も数々の大物評論家や知識人への執筆を予定しておりますので、今後とも是非応援よろしくお願いします。


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