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2014年01月30日

仏教は危険思想?

 前回の記事(『宗教家が一般公開の場で話をする意義と危険性』http://achichiachi.seesaa.net/article/386383584.html)に引き続き仏教の話題で、今回は仏教思想の危険性について少し書いてみようかと思います。

 先日、とある宗教学者の先生の動画を見ていたら、仏教に関して非常に奇妙な、というか一般人にとっては非常に奇妙に感じる教えの話がされていました。それはおおよそこのような内容です。

 ある日、釈尊は森の中で休んでいました、すると1匹の猿がやってきて、ハチミツを釈尊に食べさせてあげようと思い蜂の巣のついた枝を渡します。しかし、釈尊はそれを猿に受け取りませんでした、猿が「何故、受け取ってくれないのだろう?」と思って、ふたたび蜂の巣を見ると沢山の幼虫が蜂の巣に入っていてハチミツを食べれないのだということに気づきます。そこで、猿がその幼虫を取り除いて、もう一度蜂の巣を釈尊に渡すと、釈尊はそれを受け取って食べました。すると猿は大喜びして、木をつたいながらどこかへ去っていこうとしたのですが、猿が掴んだ木も、足をかけた枝もどちらも折れて猿は即死します。

 普通の一般的な感覚からすると、この教えが何を意味するのかさっぱりわからないでしょう。通常、寓話や逸話ではなにか良いことをしたら何か良い出来事が起こって、その善行が報われることがほとんどです。しかし、この話では、釈尊にハチミツを食べさせるという善い行いをした猿がその直後に即死します。一体、これは何を意味しているのでしょうか?この話の意味を理解するためには、仏教思想の基本の一つである輪廻転生について理解する必要があります。

 仏教では、輪廻転生という考え方が存在し、基本的に生き物はすべて死んだらまた別の姿として生まれ変わります。この輪廻転生という考えについても仏教は一種の独特の考え方を持っていて、現在流行しているスピリチュアルのような考え方では、輪廻転生や生まれ変わりは基本的に死んでもなお人生は続くのだ、ということでポジティブな意味で捉えられることが多いのですが、仏教は違います。仏教では、基本的に人生は苦しいものだという発想に立っているので、輪廻転生や生まれ変わりは、死んでもふたたびまたこの苦しい現世の世界に戻ってきてしまう(あるいは、天国や地獄で神や餓鬼として生まれ変わる)ということであり、何度でも永遠に苦しみを繰り返すことを意味します。なので、仏教では、修行を積み、悟りを開くことにより、この苦しみの連続である輪廻転生の輪から抜け出すことを最終的な目標としています(もちろん、違う考え方もあるのですが、一応基本的な考えはこのようなものだと理解してください)。

 輪廻転生では、基本的に前世の過ごし方によって、次の生、つまり来世にどのような姿に生まれてくるのかが決定します。前世で善い行いをした者は人間に生まれ変わり(もっと善い行いをした者は天界に神として生まれ変わることもあります)、その中でも善い行いをした者はより上位のカーストとして生まれ変わり、逆に、前世で悪い行いをした者はより下等な動物畜生として生まれ変わると考えられています。

 このような基本的な事項を押さえた上で、先ほどのハチミツを渡した猿の話に戻りますが、何故、この猿が釈尊にハチミツを食べさせた後に即死したのかというと、猿は釈尊にハチミツを食べさせるという善行を積んだことにより、魂のレベルが向上し、その畜生の姿のままでいられなくなったために死んだのです。

 ここまでの話を読んで、「ふーん」としか思わなかった人も多いかもしれませんが、少し考えるとこれは凄く怖い思想であるように思います。つまり、現在の一般的な生命尊重の価値観に反して、この仏教の輪廻転生の思想では、低レベルな魂の生き物は、レベルの低い肉体しか持つことが出来ず、仮に魂のレベルを向上させることが出来るのであれば(あるいは出来たのであれば)現世ではさっさと死んで、早く来世に生まれ変わった方が幸せだという価値観なのです。

 この考え方をさらに飛躍させたのが、オウムのポアでしょう。最終解脱者である麻原は、相手の魂のレベルを正確に見抜けることになっているため、麻原は穢れた魂の持ち主を正確に見抜くことが出来ると、オウムの教団内では信じられていました。そして、そのような穢れた魂の持ち主の肉体を滅し、最終解脱者の麻原の力でより高い魂のステージを引き上げてやるのだという考えのもとで、ポアと呼ばれる殺人は、オウムの教団内で正当化されていたのでした。

 私は、仏教思想やその教えの中には非常に優れたエッセンスが含まれていることは認めますが、しかし、このような考え方を完全に肯定するような気は全くありません。特に、仏教は2500年前のインドで発祥しましたが、現代の日本と、飢えや貧困、あるいはカースト制度による抑圧に常に苦しめられていた当時のインドやインドの人民とではあまりにも状況や境遇が違いすぎるため、あまり原理主義的な仏教思想をそのまま現代の日本に適用させようとするのは多少無理があるでしょう。それから、現代のようにやる気と学習意欲さえあれば、誰でも非常に高度な情報や学問的知識にアクセスできるような環境にあっては、浄土真宗の教えにあるような「絶対他力」「絶対帰依」というような、絶対的な無謬の信仰心を抱こうとする試みも困難でしょう。

 それが、望ましいかどうかということは抜きにして、とりあえず、現代において宗教や思想を学ぼうとする人は、どうしても、自分に合った思想、あるいは信仰というものを自分から能動的に求めていくような姿勢は一定程度必要になるのではないかと思います。


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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 01:37 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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