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2014年01月22日

『国民の道徳』(著 西部邁)を読んで・・・

 以前、この『国民の道徳』という本の前半部分を読んだ時点で、ASREADの方に『「命が一番大事」という価値観は人間をニヒリストにする』(http://asread.info/archives/299)という文章を寄稿したのですが、この本の最終章「生死観が道徳を鍛える」では、もろにこの問題が主題となっていました。

 生き延びること以上に大事なことはないと構えたとたんに、生命は一切の価値を打ち砕く石臼に変じたのである。それもそのはず、延命のために卑劣も狡猾も、横柄も野蛮も、臆病も怯懦も、裏切りも背信も、卑屈も服従も必要になることが多い。自分がそのような人間にすぎないと内心で思っているものが、どうして明朗闊達に振る舞えるであろうか。(中略)
 自己の存在意義が軽信されてしまえば、自己が生命として存在しつづけること、それが価値の最高峰に立つことになる。だから、この生命至上主義をどう始末するかは、現代日本の思想的混迷を解く鍵となりうる。もちろん、生命という手段がなければ人間の生の目的もまた意味をなさない。しかし生命はあくまで手段価値を持つにすぎず、生命に目的価値はないのである。(P 651)


 本来、生命はあくまで手段価値であり、生命に目的価値はないにも関わらず、現代日本においては生命を至上の価値としてしまった(例えば、「人命は地球より重い」等の倒錯した表現がそれを端的に表しています)ところに、もしかしたら現代の思想における最初のボタンのかけ違えがあったのかもしれません。

 しかし、これは当然でしょう。仮に、誰かに「あなたは何のために生きるのですか?」と問うた時に、生命至上主義的な価値観においては、「生きるため」としか答えようがありません。生きていくことの最高の価値、目的が「ただ生きるため」であるとするなら、おそらくはこれほど虚しい生はほとんど他に考えられないのではないでしょうか?西部さんは、生命至上主義的な価値観は、どこかの時点で必ず生命軽視の価値観へと転じざるを得ないと書いていますが、上記のような思考プロセスにより、生命至上主義の価値観が生をこれほどまでに虚しいものとするのであれば、やはりこのような価値観が、結果的に生命軽視の価値観へと転倒することはやはり私には必然であるように思えます。


ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『どうして日本の行政改革は進まないのか?』http://asread.info/archives/395




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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 23:23 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間の精神の本質の玉ねぎ仮説

 先日、西部ゼミナールを見ていたら、佐伯啓思さんがゲストで出演し、西田哲学について語っていました。

 そこで佐伯啓思さんは、西田哲学では、自分の選択について、「自分自身で選び取っているのではなく、現実にはほとんどの場合、環境によって選ばされているのだ」ということを説明していました。

 私は、この教えを聞いて「あー、なるほどなぁ」と妙に納得しました。現在の心理学においても、「人間に自由意思は存在するのか?」という問題は代表的な論争の一つですし、そのような小難しい議論を持ち出さなくとも、人間の選択は、ほとんどの場合、自分の自発的な選択の結果ではなく、むしろ、外部の環境から強制(あるいは矯正?)された選択であることがほとんどであります。

 たとえば、分かりやすい例でいえば、若者の車離れという現象が挙げられるでしょう。現在の若者が車を欲しがらない理由は数多く挙げられます。「都市部では公共の交通網が発達しているため自家用車が必要ではなくなった」「車を持ってても女の子にモテるような時代ではなくなった」「正規雇用が減り、若者がローンを組みにくくなった」「雇用が不安定化し、ローンを組んで車を買うことに若者が不安を抱くようになった」等々、実に様々な理由が挙げられます。しかし、少し考えてみれば、これらは全て外的な要因であり、自己の本質とはなんら無関係であると考えられないでしょうか?

 さらに分かりやすくなるよう、もっと簡単な例を挙げてみましょう、例えば、あなたの後ろで何かが爆発したような爆音が聞こえてきたとします。その時、あなたはきっととっさに後ろをふり返るでしょう、さてその時、あなたは自発的な意志によって後ろを振り返っているのでしょうか?それとも、後方から聞こえてきた爆音という外的な条件付けによって後ろを振り向かされたのでしょうか?ここまでくれば、おそらくは、ほとんどの人が後者であると考えるのではないでしょうか?

 確かに、これは極端な例かもしれませんが、すくなくとも、確かに人間の行動の選択は、自発的な意思によって、つまり自己の本質に根ざすものではなく、むしろ、外的な要因によって行動させられているかもしれないと仮定できるでしょう。

 そこからさらに遡って考えると、人間は、「ある行動を行いたい」という欲求から行動します。しかし、この行動が外的要因であり、自己の本質ではないとするならば、その行動を取りたいと思った欲求もまた外的要因によって喚起された、これまた自己の本質とは無関係な事象であると考えられます。つまり、自身の行動に直結する自己の欲求というものもまた本質ではない、一種のまやかしなのです。

 ならば、ある(自己の本質とは無関係な)欲求が叶えられないことからくる苦しみはどうでしょう?自己の本質とは無関係なまやかしの欲求を土台とする苦しみ、これもまた、やはり自己の本質とはかけ離れたまやかしであると考えられるでしょう。お金が欲しい、恋人が欲しい、社会的地位や名誉を獲得したい、しかし獲得できないといった現実からくる悩みもまた、自己の本質とはかけ離れた外的要因によって引き起こされた幻想に過ぎないわけです。

 しかし、そうなるとまた同時に厄介な問題も発生します。ある欲求が叶えられない苦しみがまやかしであるなら、同時に、そういった欲求が叶えられた時の喜びや幸福もまた幻想であるのです。それは、そうでしょう、自己の本質と無関係な欲求にもとづいた悩みや苦しみが幻想であるなら、同時にそれにもとづいた喜びや幸福もまた幻想でないなどという理屈はありません。

 確かに、あまりにも論理が飛躍し過ぎているようにも思えまし、幸福屋喜びが幻想だとするなら、一体この人生には何の価値がるのだ?と疑問に思えるでしょう。しかし、例えば原始仏教では、愛といった通常非常にポジティブな意味づけが与えられる概念に関して、「愛は執着を生み、執着こそが煩悩や苦しみを生むのだ」と、非常にネガティブな意味づけがされており、さらには「愛する者に出会ってはいけない」という教えすら存在します。

 ここまで聞いて、愛や、幸福すらが、目標でも、本質でもないとするなら、「一体、人間の本質とはなんなのだ?」と多くの人は疑問に思うでしょう。そこで、私が考えたのが人間の精神の本質の玉ねぎ仮説です。

 ここまで説明してきたように、ほとんどの人々は、自分自身の本質とは無関係なものを自己の本質であると錯覚しています。行動、欲求、苦痛、苦悩、執着、幸福、喜び、愛等々・・・しかし、先に説明したようにこれらの一切は本質ではありません。そこで、仮に、真に自己の本質を追及したいと願う人間は、これらの幻想を振り落とします、たまねぎの皮を1枚1枚むいて剥していくように、幻想の皮をそぎ落としていったときに何が残るかといえば、そこには何も残りません。つまりは無です。

 無という概念には様々な解釈が存在しますが、数多くの宗教的な偉人たちが、無こそが精神の最高の境地であると述べていることを考えると、不純物、あるいは非本質的な精神の作用を全て削ぎ落そし、徹底的に本質を追及する先に無が待っていると考える思想は、さほど的外れではないのではないか?あまりにも、論理の飛躍が過ぎることは認めるものの、私自身の直感としては、妙にしっくりとくる納得のいく考えではあります。


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