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2014年01月15日

経済はビジョンで動く

 先日、小学校時代からの友人で東大と東工大の大学院を主席で卒業したO君と久しぶりに飲みに行ってきました。なんとなくお互いの近況を話し合ってから、なんとなく今の世界の経済状況の話に・・・小学校時代からの友人と久しぶりに会ったのに経済の話なんてするのも野暮だなぁと思いつつも、まあ、政治経済オタクの話なんてそんなもんだよなと・・・。

 私が
「現在アメリカやユーロ圏では、失業率も高いままで実体経済が良くなっていないにも関わらず、株高の状態が続いているから、アメリカもヨーロッパもバブルが起こっている。90年代までは、景気が加熱した状態の時にバブルが発生することが多かったが、現在のように不況の時に大規模な金融緩和を行うと、実体経済に投資先のない行き場を失った投資マネーが一気に株や土地などの投機に周り、実体経済の不況と、金融経済のバブルが同時発生するという異様な状態が発生する。」
ということを説明すると、Oは、
「なるほど、今世界に投資先がないのはわかったが、それじゃあ、どうすればいいと思う?」
と聞いてきました。池上彰よろしく「いい質問ですねえ」とでも言いたくなるのをこらえて、私はこう答えました、
「そうだなあ、今のように民間企業が投資先を見い出せない状況では、やっぱり、政府が計画、あるいは計画という言葉が強すぎるなら、政府が具体性を持ったビジョンを提示することが不可欠だと思う。」
と。

 民間の経済主体である、企業も家計も、どちらも国家の中に組み込まれた存在であり、国家の進むべきビジョンがなければ、企業や個人はその中で方向性を定めることが不可能になります。投資や消費の方向性の定まらない経済主体が、お金を溜め込もうとするのは至極当然の現象であるように私には思えます。

 言われてみれば、至極まっとうな話で、現在民間企業が思い切った投資ができないのは、一つには確かにデフレ不況で、投資しても損する可能性が高いからということもありますが、もう一つには、今後日本経済、さらに言えば日本国家の将来がどのように進んでいくのかが見えてこないという問題があります。しかし、これは、実際には今に始まった問題ではないでしょう。

 日本は戦後、欧米に追いつけ追い越せで、欧米並みの生活水準にキャッチアップすることを目的とした経済体制を敷いていました。ビジョンは明確で欧米人(というよりアメリカ)のような生活というものをモデルとして分かりやすいビジョンが存在していました。そのような状況では、家電メーカーや自動車メーカーにとって非常に投資しやすい環境であったでしょう、何しろ、消費者が求めているものが明確であり、企業はその求める製品を懸命に作っていれば良かったのですから、しかしその後1968年には早くも、GNPが西ドイツを抜いて世界2位の経済大国となり、さらには70年代には少なくとも経済的には欧米に追いついていることに気づき、80年代にはジャパンアズナンバーワンなどと言われ、欧米にキャッチアップするなどという目標は完全に達成しました。

 80年代に発生したバブルの原因は様々な要因が言われていますが、実は、明確なビジョンを失った社会の中で、企業が実体経済の投資先を失ったためにそれが過剰な投機マネーに回ったという側面も多少は存在するのではないでしょうか?その後、バブルは崩壊し、97年からはデフレ不況に突入し、未だそのデフレからの脱却はなされていません。

 97年以降は、新自由主義的な改革が押し進められ、市場原理主義的な経済思想の導入とともに、政府主導の投資計画は徹底的に忌避され、公共投資は徹底的に削られてきました。このような状況において、「企業に頑張って投資してくれ」などとお願いしてみたところで、企業が投資を増やせるわけがありません。企業も家計も、国家に組み込まれた存在である以上、国家のビジョンに従って動きます。つまり、企業や家計の投資計画、消費計画は、いわば国家のビジョンという上位計画に従属する下位計画と言えるのです。下位計画は、ほとんどの場合上位計画という目標に奉仕する手段であるため、目標である上位計画が消失すれば、手段である下位計画は方向性を失います。

 おそらくは、このように国家的ビジョンの重要性を無視した経済学こそが、日本国家の10年以上の停滞の重大な原因の一つなのではないでしょうか。つまり、企業や家計の投資や消費は、国家のビジョンや計画と無関係にマーケットによって動かされるのではなく、むしろ逆にマーケットそのものは、国家の(あるいは、さらに国民に広く共有される)ビジョンによっておおよそ定められる家計や企業の活動に一定の影響力を与える変動要因に過ぎないのではなかということです。

 以前、ASREADに寄稿した記事(『アベノミクスで所得が増えない理由とは』http://asread.info/archives/338)では、労働の価値はマーケットメカニズムによっては決定されないのではないかということに言及しましたが、また同時に、現在の日本の長期不況から脱却しきれない状況を見るに、企業や家計の投資意欲、消費意欲もまたマーケットメカニズムのみによって決定されるのではないのではないかと、そのように思います。

 逆に言えば、国民の多くが共有しうる、現実的な将来のビジョンを政府が提示することが可能であれば、それ自体が現在の長期不況から脱却するための重要な手段となりうるでしょう。


ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『アベノミクスで所得が増えない理由とは』http://asread.info/archives/338




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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 21:06 | 神奈川 ☁ | Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

言論人の芸人化現象・・・

 先日、とある保守的な政治思想を持っている人たちの飲み会の席でライターや雑誌の編集をやっているOさんという方とお話する機会があったので、今回は、その時の話について少し書いてみようかと。

 Oさんとお話をしていて、非常に印象に残った話の一つが、「言論人というのは所詮芸人であって、言論人にとっての言論とは、芸人にとっての芸に過ぎない」という話です。佐伯啓思さんの『学問の力』という本によれば、日本で初めに「言論人は芸人だ」ということを言いだしたのはニュー・アカデミズムの浅田彰らしいのですが、いよいよ、こういった感覚が保守の言論にまで共有されつつあり、おまけにそれが当然のこととして語られていることにある種の恐怖を感じました。

 と、同時に、私はこのブログやASREADの記事で、散々に言論人の言論の間違いや、おかしさについて指摘してきましたが、私はある程度真剣に批判しているつもりでも、そもそも批判される側としてはただのネタとしてやっているのかと思うと、一体自分は何をやっていたのだろうかと虚しくなります。

 しかし、それでは、じゃあ、「あいつらどうせふざけてやってるだけだから無視すればいい」というふうに構えればいいのかといえばそんなことはなく、言論人がどれだけふざけて言論活動を行ったとしても、それを受け取る側は、彼らがどれだけふざけているかなど知る由もなく、現実にそのふざけた言論によって政治や行政が動かされているという現実を直視するなら、それを放置しても良いということにはまったくならないでしょう。さらに、一つ付け加えるなら、言論人の言論は、芸人にとっての芸だと言いましたが、芸人はその芸を磨くために真剣に努力するように、言論人もその言論を磨くため、あるいは流行させるために必死の努力を行っています。

 オルテガは、「意見を述べるための努力をしないのに、意見を述べる権利を自分は持っていると考えるのが大衆である」と述べ、さらにそのような大衆が社会の中枢にまで影響を及ぼすようになる現象を「大衆の反逆」と名付けましたが、現代の時代はまさにどこを眺めてもこの「大衆の反逆」と呼ばれるような現象が見られます。

 あらゆる人々が、何の努力もすることなしに、投票権という政治を現実に動かす能力を持った権利を持ち、「多数参加の多数決で決定する民主主義は素晴らしい」というまさに根拠の定かならぬ神話をもとに、「皆で選挙に行きましょう!!」「皆で投票して、投票率が上がれば世の中が良くなります!!」と呑気に喧伝する人々、自分の半径数メートル以上のことにはほとんど一切の真剣な関心を抱くことのない大衆と、そのような大衆の雰囲気や願望を上手く汲み取る大衆的言論人、そして、そのような大衆的言論人の言説を受けてますます大衆的になっていく大衆人。さらには、情報技術の発達により、現在ではそのような大衆の中の大衆とでも呼ぶべき人間が、「自分の意見を自由に発信できるインターネットは素晴らしい!!」などと言いながら下らない妄言を撒き散らしているわけです(ああ、現実の知り合いたちとの小さなコミュニティーでのみひっそりとやり取りするのが主目的であったmixiの時代がどれだけ良かったことか・・・)。

 添田くんは、ASREADの『世の中がどうしようもないのは「わかりやすさ」のせい』(http://asread.info/archives/375)という記事の中で、青木大和という人物の「言うってことが大事だし、言いたい人は言えばいいのに、なんでタブー視されるんだろう。」というセリフを取り上げて批判していますが、仮にオルテガがこの疑問に答えるとしたらこのように述べるでしょう。なぜ、彼らは発言してはいけないのか?それは、「彼らには、そもそも発言する資格も権利もない上に、その権利を得るための努力もしないから」です。

 そもそも、私は表現の自由そのものに疑問を覚えずにはいられません、もちろん現代社会において、言論の自由を政治的、法律的に抑圧することは実際上不可能に近いですが、そういった事実とその理念そのものが素晴らしいかという話は別問題でしょう、果たして、「自分には何かしらの意見を主張する権利を生まれながらに有している」と考えている人間が、自分が何かしらの意見を主張するに足るだけの人間になるというそれだけのために真剣な努力を行うことがありうるでしょうか?

 なにか、こういうとあまりにもルサンチマン丸出しな言論になってしまって、申し訳ないのですが、正直言って、私はこのような現象の何もかもが気持ち悪いし、不愉快なのです。なんの努力もなしに「アナタは素晴らしい個人としての尊厳を持った人間だ!!文化的な生活を享受する権利、世界でたった一人の自分の考えを自由に表現する権利を生まれながらに持っているのです!!」などと言われて育ったガキどもも(そのガキの中には30代のガキも40代のガキも、中には50代60代もいるのですが・・・)、そんなガキどもの妄言をなにか素晴らしい個性の表現であるなどともてはやす連中も、そんなものをもてはやす大衆の精神や願望を汲み取りそれに迎合していく言論人の言論の姿勢も何もかもです。

 世の中の多数派が、本当に、こんなものを素晴らしいと感じているなら、あまりにも知性や感性の程度が低すぎるように私には思えますし、仮に、心の中では「こんなもの下らない」と感じているにも関わらず、そのような思いを心に秘めながら、表面上では、「いやあ、○○さんの言論はなかなか斬新で面白いねぇ」などとうすら笑いを浮かべながら語っているとしたら、それもまたたまらなく不快なわけです。

 仮に私が、「言うってことが大事だし、言いたい人は言えばいいのに、なんでタブー視されるんだろう。」という青木大和の言葉に同意するとするなら、このような連中やこのような連中をもてはやし、「なかなかの人物だ!!」「新しい、これからの世の中を変えていく若者たちだ!!」などと評価する、知性も品性も劣化しきった社会に対して「クソッタレ!!」と言ってやるような意見に対してならば、唯一「言いたい人は言えばいい」と共感を覚えるのです。


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