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2014年01月30日

仏教は危険思想?

 前回の記事(『宗教家が一般公開の場で話をする意義と危険性』http://achichiachi.seesaa.net/article/386383584.html)に引き続き仏教の話題で、今回は仏教思想の危険性について少し書いてみようかと思います。

 先日、とある宗教学者の先生の動画を見ていたら、仏教に関して非常に奇妙な、というか一般人にとっては非常に奇妙に感じる教えの話がされていました。それはおおよそこのような内容です。

 ある日、釈尊は森の中で休んでいました、すると1匹の猿がやってきて、ハチミツを釈尊に食べさせてあげようと思い蜂の巣のついた枝を渡します。しかし、釈尊はそれを猿に受け取りませんでした、猿が「何故、受け取ってくれないのだろう?」と思って、ふたたび蜂の巣を見ると沢山の幼虫が蜂の巣に入っていてハチミツを食べれないのだということに気づきます。そこで、猿がその幼虫を取り除いて、もう一度蜂の巣を釈尊に渡すと、釈尊はそれを受け取って食べました。すると猿は大喜びして、木をつたいながらどこかへ去っていこうとしたのですが、猿が掴んだ木も、足をかけた枝もどちらも折れて猿は即死します。

 普通の一般的な感覚からすると、この教えが何を意味するのかさっぱりわからないでしょう。通常、寓話や逸話ではなにか良いことをしたら何か良い出来事が起こって、その善行が報われることがほとんどです。しかし、この話では、釈尊にハチミツを食べさせるという善い行いをした猿がその直後に即死します。一体、これは何を意味しているのでしょうか?この話の意味を理解するためには、仏教思想の基本の一つである輪廻転生について理解する必要があります。

 仏教では、輪廻転生という考え方が存在し、基本的に生き物はすべて死んだらまた別の姿として生まれ変わります。この輪廻転生という考えについても仏教は一種の独特の考え方を持っていて、現在流行しているスピリチュアルのような考え方では、輪廻転生や生まれ変わりは基本的に死んでもなお人生は続くのだ、ということでポジティブな意味で捉えられることが多いのですが、仏教は違います。仏教では、基本的に人生は苦しいものだという発想に立っているので、輪廻転生や生まれ変わりは、死んでもふたたびまたこの苦しい現世の世界に戻ってきてしまう(あるいは、天国や地獄で神や餓鬼として生まれ変わる)ということであり、何度でも永遠に苦しみを繰り返すことを意味します。なので、仏教では、修行を積み、悟りを開くことにより、この苦しみの連続である輪廻転生の輪から抜け出すことを最終的な目標としています(もちろん、違う考え方もあるのですが、一応基本的な考えはこのようなものだと理解してください)。

 輪廻転生では、基本的に前世の過ごし方によって、次の生、つまり来世にどのような姿に生まれてくるのかが決定します。前世で善い行いをした者は人間に生まれ変わり(もっと善い行いをした者は天界に神として生まれ変わることもあります)、その中でも善い行いをした者はより上位のカーストとして生まれ変わり、逆に、前世で悪い行いをした者はより下等な動物畜生として生まれ変わると考えられています。

 このような基本的な事項を押さえた上で、先ほどのハチミツを渡した猿の話に戻りますが、何故、この猿が釈尊にハチミツを食べさせた後に即死したのかというと、猿は釈尊にハチミツを食べさせるという善行を積んだことにより、魂のレベルが向上し、その畜生の姿のままでいられなくなったために死んだのです。

 ここまでの話を読んで、「ふーん」としか思わなかった人も多いかもしれませんが、少し考えるとこれは凄く怖い思想であるように思います。つまり、現在の一般的な生命尊重の価値観に反して、この仏教の輪廻転生の思想では、低レベルな魂の生き物は、レベルの低い肉体しか持つことが出来ず、仮に魂のレベルを向上させることが出来るのであれば(あるいは出来たのであれば)現世ではさっさと死んで、早く来世に生まれ変わった方が幸せだという価値観なのです。

 この考え方をさらに飛躍させたのが、オウムのポアでしょう。最終解脱者である麻原は、相手の魂のレベルを正確に見抜けることになっているため、麻原は穢れた魂の持ち主を正確に見抜くことが出来ると、オウムの教団内では信じられていました。そして、そのような穢れた魂の持ち主の肉体を滅し、最終解脱者の麻原の力でより高い魂のステージを引き上げてやるのだという考えのもとで、ポアと呼ばれる殺人は、オウムの教団内で正当化されていたのでした。

 私は、仏教思想やその教えの中には非常に優れたエッセンスが含まれていることは認めますが、しかし、このような考え方を完全に肯定するような気は全くありません。特に、仏教は2500年前のインドで発祥しましたが、現代の日本と、飢えや貧困、あるいはカースト制度による抑圧に常に苦しめられていた当時のインドやインドの人民とではあまりにも状況や境遇が違いすぎるため、あまり原理主義的な仏教思想をそのまま現代の日本に適用させようとするのは多少無理があるでしょう。それから、現代のようにやる気と学習意欲さえあれば、誰でも非常に高度な情報や学問的知識にアクセスできるような環境にあっては、浄土真宗の教えにあるような「絶対他力」「絶対帰依」というような、絶対的な無謬の信仰心を抱こうとする試みも困難でしょう。

 それが、望ましいかどうかということは抜きにして、とりあえず、現代において宗教や思想を学ぼうとする人は、どうしても、自分に合った思想、あるいは信仰というものを自分から能動的に求めていくような姿勢は一定程度必要になるのではないかと思います。


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2014年01月29日

宗教家が一般公開の場で話をする意義と危険性

 最近、仏教に関心を持ったこともあり、苫米地英人や上祐史浩などの話をよくネットを聞くことがあります。しかし、どうしてもこの宗教的な話題について、一般人が気軽に聴けるような場で宗教家等が話をすることが果たしてそれほど良いことなのだろうか?と疑問に思ったので、今回はそのことについて私なりの考えを書いてみようかと思います。

 まず、最初に、宗教家、特に仏教者が一般人の前で話をすることの良い点を考えてみたいと思います。まず、第一には、仏教自体が非常に優れた宗教であるということ、特に、現在の西洋の合理主義や、主体的な意思を最大限尊重するマッチョな思想に対して、仏教は、東洋的な受容や悟りの宗教であります(これは、あくまで私自身の解釈ですが)。現代のグローバルな競争重視の時代においては、西洋的な合理主義的な思想や、自分自身の主体的な意思を尊重するマッチョな思想が優位になりがちではありますが、今後おこるであろう、あるいはすでに起こりつつある貧富や社会的地位における格差の拡大、あるいはそういった格差の固定化といった現象を前にして、おそらく、東洋的な需要や悟りの思想が再び見直されるような時代が来るでしょう。当然、敗北主義的な思想として、惨めな人間が自分を慰めるため、あるいは、強者が格差を正当化するための根拠としてそういった思想を持ち出すことは明確に悪であると思いますが、一方で社会の改善において、可能な限りを手立てを尽くすという前提のもとで、精神的なセーフティーネット、つまり社会的な敗者が、金銭面、生活面のみならず、精神的にもどん底の状態に陥らないための手立てとしてそれを持ち出すのはある種の必然性を持つのではないかと思います。

 それから、もう一つ宗教家が一般人の前で話をすることの意義として、宗教に関する話に慣れるという点が挙げられます。日本人はほとんど大多数の人が積極的な信仰を持たないため、多くの人は、宗教についてあまり真剣に考えることがありません。なので、そのような人の中には、巧みな話術を持った宗教家の話を聴いて簡単に信じてしまって不健全な、あるいはカルト的な宗教に引っかかってしまう人もいるでしょう。そうならないためにも、普段から宗教の話を耳にしておくことが、もしかしたら、そのような悪質な宗教のセールストークに対する耐性を付けるワクチンのような効果を持つ可能性もあります。経済学者のジョーン・ロビンソンは
「経済学を学ぶ目的は、経済問題に対する出来合いの対処法を得るためではなく、そのようなものを受け売りして経済を語る者にだまされないようにするためである」
といったセリフを残しています。要は、「経済学を学ぶのは、経済学者に騙されないためだ」ということでしょうが、これは、場合によっては宗教にも当てはまります、つまり、「宗教家に騙されないために」宗教について学んでおくことにはおそらく一定の意義があるでしょう。

 しかし、そうはいっても「ミイラ取りがミイラになる」などという言葉もあるように、もしかしたら、「自分は宗教家に騙されないために宗教を学ぶのだ」と思って宗教に触れているうちに、何かの怪しげなカルト宗教に嵌ってしまう可能性もあるでしょう。次に、宗教家が一般人の前で話をすることの危険性について考えたいのですが、やはり、あまりカジュアルな雰囲気の中で、宗教家が話をするのは場合によっては危険であるように思います。最近では、元オウムの幹部で、麻原彰晃の一番弟子であった上祐史浩が、ロフトプラスワン等の、非常にライトなサブカル系のイベント会場等でトークイベント等を開催しているそうです。しかし、あまりにもライトな、いわば宗教っぽくない場で、そのような人物が話をするのもどうなのでしょうか。例えば、かつては、オウム真理教の麻原彰晃が何度もTVに出演したり、多くの言論人が絶賛していることで、多くの人びとの信用を獲得し、たくさんの人が、「あんなにTVに出てるのだから」あるいは、「知識人の○○さんが絶賛しているのだから信用できるだろう」と思って入信しました。あるいは、幸福の科学は、一般的な自己啓発本やスピリチュアル本のようにみえるような本を大量に出版することで勧誘の手段にしました。

 このような、あまり怪しげな宗教色というものを薄めたカタチでの勧誘は、最初に気軽に関わっていって、だんだんと深く引き込まれていってしまったというような人を増やしてしまう危険があります。中には、それほど害のない宗教も多く存在するのでしょうが、例えば、出家制度を重視するオウム(現アーレフ)の分派であるひかりの輪の代表の上祐史浩のような人物が、あまりライトでカジュアルなトークイベントで積極的に著名な芸能人とトークライブ等を頻繁に行うのは、社会通念上あまり好ましい自体ではないのではないかという気がします。

 特に、出家制度は、その人の一生に大きな影響を与えますし、仏教のような現代の一般常識的な価値観から、ある意味でかけ離れた価値観を持つ宗教は、そうそう簡単に入れ込むべきではないかもしれません。現在は、オウム事件の記憶も薄れつつある時期でもあり、宗教の持つ危険性についても十分に注意喚起されているとは言い難い状況でしょう。このような状況において、あまりにも一見ポップでカジュアルなファッション的思想であるかのような装いで、上祐史浩のような人物が多くの人の前で話をするのは一定の危険性を持つのだという認識、あるいは注意喚起はやはり必要でしょう。


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2014年01月27日

舛添要一政党助成法違反?自民党は本当に桝添を支援すべきなのか?

【おわり】 舛添さん、政党助成金で借金返済、逮捕へ

東京都知事選(23日告示、2月9日投開票)への立候補を表明している舛添要一元厚生労働相が結成した「新党改革」が、
借金返済に使うことを禁じられている政党助成金や立法事務費で借金返済を行った疑いがあることが20日、本紙の調べで
分かりました。

舛添氏は、借金返済時の同党代表。猪瀬直樹前知事の「徳洲会」グループからの5000万円提供問題で「政治とカネ」の
問題が争点となっている都知事選で、舛添氏の資格が問われます。

■国民の税金が

新党改革の政治資金収支報告書(2010〜12年分)によると、2010年に銀行から2億5000万円を借り入れ、
10年に1億5000万円、11年に5200万円、12年に4800万円をそれぞれ返済し、完済しています。

同党の毎年の収入は平均1億5000万円ほど。この8割にあたる約1億2000万円が国民の税金である政党助成金です。

政党助成法では、政党助成金を借金の返済に使うことを禁じています。

(後略)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-21/2014012115_01_1.html

http://katsumoku.net/archives/7067854.html


 新聞赤旗からの情報ですが、舛添要一が政党助成法に違反している様子です。

 他にも調べれば色々ときな臭いというか、金に汚いことをしている様子で・・・

【舛添速報】舛添氏、政党助成金で絵画購入していたwwwwwwwwww なんと100万円超wwwwwwwww
http://www.hoshusokuhou.com/archives/35937749.html

【舛添速報】舛添要一氏、秘書に「グリーン車の切符を金券ショップに持っていけ!そしたら講演のたびに儲かるだろ」と命令していた
http://www.hoshusokuhou.com/archives/35892385.html

舛添の本、図書館で見てきた。 オモニってマジで書いてあった。
http://www.hoshusokuhou.com/archives/35912219.html


 なんというかどれもしょぼいというか、金に汚いというよりもむしろ物凄い貧乏性であるような・・・ただ、今回の猪瀬都知事の辞任も5000千万円の資金提供の問題で辞任に追い込まれたことを考えると、約1億2000万円の政党助成金を借金返済に充てていたという問題は結構ポイントになるんでしょうか?ただ、マスコミは大々的に報道する様子もないので、あまり問題にならないような気も・・・しかし、猪瀬は5000万の問題であれだけの大ニュースになって辞任に追い込まれたにも関わらず、今回の政党助成法の違反はまったく報道されず、選挙になんの影響も与えないのでしょうか?

 うーむ、マスコミにとっての公正な報道とは一体なんなのだろうか?とあらためて考えさせられます。


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2014年01月25日

『まともな日本再生会議』(中野剛志×柴山桂太×施光恒)を読んで そのB〜学術的考察と政治的決定の関係性について〜

 先日、山形浩生と飯田泰之の対談動画(山形浩生×飯田泰之 もう一度「一般理論」に挑戦する http://www.youtube.com/watch?v=lUoMcsZFxC0)を見たのですが、この対談以上に、この対談に関するある視聴者のコメントが面白かったので、今回はそのコメントについて紹介&解説してみようかと思います。

 ケインズの一般理論なんて、論証すべきことを数学使っていない時点でおわってんだよ。

 なんというか、私はこのコメントを見て「あー、やっぱりこういう人っているんだなー」と思いました。私にも、一応理系の友達はいるのですが、やはり理系の人と人と話をしてみると、彼らは(当たり前ですが)かなり数式化にこだわる傾向が強いことがわかります。おそらくは、数式化しないと論文が認められないからなのでしょうか、中には、「数学が使えない文系の学問って何のためにあるの?」というような発言をする人もいます。

 まあ、この質問対して、私なりに答えていうなら、「世の中には数式化出来ない問題だっていくらでもあるから」ということになります。ミルトン・フリードマンの弟子である経済学者のゲーリー・ベッカーは、結婚の問題をミクロ経済的側面から捉え、結婚の効用が最大の時点で結婚し、効用が一定以下の水準まで低下した時点で離婚するというような説を立てているようですが、これもはっきりいっておかしいのではないでしょうか?仮にベッカーの説明するように、公用や、満足の上下によって人が結婚や離婚を決定するとしましょう(私は、この前提自体が大いに疑わしいとは思いますが・・・)それでも、結局、それはそれを計測する男女の結婚の効用以外の様々な条件、例えば、その男女の住んでいる国が結婚を奨励しているか、一夫多妻制の制度か、一夫一婦制の制度であるか、あるいは、その男女が自分自身の年収や学歴や家柄を偽らずに正直に相手に伝えているのか、もしくは虚言癖があって平気でパートナーに嘘をつくような人間であるか、あるいは、男女のルックスはどうか、男女の生活している地域では男女の交際や結婚において容姿にどれだけ重きを置く風習があるか等々、本当に無数に存在するような条件が全て一定であるという前提のもとにしか成り立たないでしょう。

 もちろん、経済の問題や、効用や満足といった条件が男女の結婚において一定の役割を果たすであろうことに異論はありませんが、それでも、経済学では経済の問題、効用や満足の問題以前の前提条件プリセットのようなものは計測しえないという問題があります。

 そこで、先の
>ケインズの一般理論なんて、論証すべきことを数学使っていない時点でおわってんだよ。
というコメントについて話を戻しますが、私は、このような考え方は大変問題であると考えます、まず、第一には、数式化できないような問題はまともな学問として認めるべきではない、という考えは、先に述べたような現実に存在する様々な数式化不可能な複雑であり、かつ現実の問題解決において重要な要素を全て切り捨てることになるので、学問と一般の生活者の感覚の乖離、あるいは両者の断絶を深める結果になるのではないかという問題です。一度、この断絶が深まれば、一般人は学者を「わけのわからん空論を振りかざす人たち」であると感じて敬遠することになり、学者は学者で、「どうせ、あいつら一般人には俺の研究していることは理解できまい、だから彼らに理解してもらおうなどとは思わないことにしよう」と考えて、ますます一般の生活者の実感から離れた空理空論を打ち立てることになりかねません。もちろん、最新の物理学理論などは、私たち一般人にとっては到底理解し得ない世界であって、科学者がそれらの世界の理論について一般人の生活感覚と接近させようなどとする必要はあまりないかもしれませんが、文系の学問では問題でしょう。現実に社会が抱える問題について改善していくことを目標とする文系の学問において、あまりにも国民や生活者の一般感覚、常識感覚からかけ離れた理論を打ち立てて、悦に浸るのはあまり感心できる態度ではないように思えます。

 それから、次に、このような考えをとった場合、「まずは数式化が可能な問題から取り組んで、数式化が困難あるいは不可能な問題は後回しにしよう」と考える学者が増えてくるのではないかということです。特に、これは経済学者において問題だと思うのですが、たとえ、経済学者が数式化しやすい問題から優先的に取り組んでいたとしても、現実の世界で発生する問題は、数式化して計算できる問題ではないかもしれません。仮に、いつの日か、経済学がありとあらゆる現実に発生する経済の全ての問題を数式化して分析できるほど完璧な学問と化すことが出来たなら、それでも構わないかもしれませんが、残念ながら、現実の世界は学問の発達を待ってはくれません。ならば、とりあえずは、現在発生している問題に対して、現在手元にある使えそうな問題解決手段を用いて問題解決に取り組むしかないでしょう。そして、現在の問題の解決にケインズ経済学が役に立つのであれば、仮にそれが「論証すべきことを数学使っていない」としても、それが役に立ちうるという理由で活用すべきだと思います。

 おそらく、30〜40年前の政治家や官僚は、たとえはっきりと意識せずとも、直感的にそのようなことについて理解していたのでしょう『まともな日本再生会議』で、中野剛志さんはこのように述べています。

 空理空論を言いまわすような経済学者なんてものは、30〜40年前までは、「理論はわかっているかもしれないけど、現実には役に立っていない」というのが政治家、官僚、ビジネスマンのプラクティカルなセンスでした。このため、空理空論を言いくりまわすような経済学者は30〜40年前には表には出てこなかった。学者のセンスをバカにするようなプラクティカル、実践的なセンスが弱まってきたから、ダメになってきたのでしょうね。こういった経済学者はかつてのように無視するしかない。(P 98)

 現在においては、ほとんどの人間が一定の知識量を得て、それなりに理屈の部分を理解できるようになっています。このような状況は一方では、一定の知識がワクチンのように作用し、経済学者の空理空論に騙されないような論理的思考を可能にするかもしれませんが、一方で、ミイラ取りがミイラになるという言葉のように、実践的なセンスを養うことなく理論のみを学べば、今度は本来プラクティカルなセンスを必要とする分野の政治家や官僚までは、空理空論を振りかざすエセ知識人のような人間になってしまう危険を抱えています。あるいは、現在の空理空論を言いくりまわすような経済学者の台頭は、このようなエセ知識人的な官僚や政治家が彼らと結託した結果として生じているのかもしれません。


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2014年01月24日

東京都知事選│アンケート調査の結果、舛添要一43.3%、田母神俊雄24.4%、細川護熙17.5%=日経新聞読者アンケート

(1)今回の都知事選で最も重要な争点は何だと思いますか

A.原発の是非14.9%
B.東京五輪への準備体制づくり23.1%
C.大震災などに強い街づくり45.5%
D.独居老人など弱者へのケア
E.保育所などの待機児童対策
F.候補者がカネにきれいかどうか
G.その他5.7%

(2)争点をワン・イシュー(一点)に絞り込む選挙の戦い方をどう思いますか

A.1つの政治手法としてありだ21.6%
B.幅広い課題に目配りすべきだ78.4%

(3)誰に都知事になってほしいですか(敬称略)

A.宇都宮健児
B.田母神俊雄24.4%
C.ドクター・中松(中松義郎)
D.細川護熙17.5%
E.舛添要一47.3%

(4)安倍内閣を支持しますか、しませんか
支持する76.8%
維持しない23.2%

http://www.nikkei.com/news/survey/vote/result/?uah=DF170120147563

http://blog.livedoor.jp/doyasoku2ch/archives/36515382.html


 立候補の時点では、ほとんど泡沫候補のような扱いで、特に地上波TVでは、舛添VS細川の一騎打ちあるかのように報道されていましたが、現在、いくつかのアンケートの結果から、ネット上では、今回の都知事選は舛添VS田母神の一騎打ちになると予測されています。

 特に、これらのアンケート結果を見てか、田母神支持者は大変な盛り上がりを見せているようです。




 私は、東京都民ではありませんが、今回の都知事選では田母神さんを応援しています。私が田母神さんを支持する理由は、一つには、政策の問題、現在の東京の最大の問題として首都直下型地震の対策を挙げていること、現在の米国主導の改革案、特に東京の経済特区構想にはっきりと反対をしていること等がありますが、それだけではありません。

田母神俊雄氏「自民党は私を支持すべきだ」 都知事選前に会見【会見速報】

自分が得をして都民が損をすることがあってはならない。さらに何かやろうとすると必ず問題が生じる。目標達成までは熱く燃えろと。自己保身のための上司がいる。そんな上司ではいけないし、そうならないし、志を高く持って国家国民のためにがんばれ、という意味で「熱く燃えろ」と。私は結構圧力に強い。これ以上小さくなることはない。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/21/tamogami-tokyo-governer_n_4635662.html?utm_hp_ref=tw


 私は、田母神さんが都知事選の立候補を発表する直前の1月3日に九段下の靖国神社前で田母神さんの演説を聴きに行きました。

 そこで私は、功名心や政治的野心から、皆の熱狂的な支持を得ようと派手なパフォーマンスをするのではなく、ただ淡々と、今の日本に、今の東京の都政に必要なことはなんであるかを説く一人の男の姿を見ました。

 今の日本に、今の東京に必要なことは何かということを一通り説明し、もしかしたら、自分ならそれを実現できるかもしれないと語りました。

 今思えば、集まっていた聴衆が、「田母神都知事を誕生させるんだ!!」と盛り上がる中、田母神さんは、淡々と今の日本と東京に必要な政策を説き、その言葉に熱心に耳を傾ける聴衆の姿を眺めながら、静かに決心を固めていたのかもしれません。

 おそらくは、もう一定の割合の有権者は、もはや派手なパフォーマンスや、決して実現不可能な空理空論を説く夢想家のような政治家にうんざりしているのでしょう。彼らは、「あれもこれも世界でナンバーワンを目指します!!」とか「今すぐ原発をなくしてクリーナエネルギー社会を実現する新しいイノベーションを起こします!!」とか「日本の政治システムを抜本的に改革します!!」とか、もはやそんな虚言のようなホラを噴いてないで、しっかりと地道に今ここでできることをやってくれよと思っているのかもしれません。

 おかしな功名心に囚われ、派手なパフォーマンスに精を出すでもなく、歴史に名を残すような偉業を成し遂げようとするのでもなく、ただただ、必要なことを淡々とこなそうとする。私は、立候補を表明する直前の演説する姿からそのような決意を感じ取りました。


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2014年01月23日

『まともな日本再生会議』(中野剛志×柴山桂太×施光恒)を読んで そのA〜非効率部門の淘汰は国家にとって正しいのか?〜

中野剛志 政治のように利害関係を調整するような世界に比べると、ビジネスマンの世界って非常に単純なんですよね。自動車産業であれば、自動車のことだけを考えていればいい。しかし、本当は世界はもっと複雑なんですよ。でも、自分の単純な世界にいる人たちは、世の中がうまくいっていないのは自分のビジネスモデルを適用しないからだと思い込んでいる。緊縮財政もそうですよね。企業は借金経営をしない方が望ましい、政府は借金をしていいという違いがある。でも、企業と政府の違いがわからないから、政治も借金経営をしないようにさせたがる。また、国内は需要が低下するのだから外に打って出るべきだと。企業レベルではそうかもしれないが、国全体が外に打って出るなんていうのはあり得ない。
「非効率部門を淘汰せよ」というのも同じで、企業は非効率部門を淘汰することで株価が上がったりしますが、国というのは非効率な国民を淘汰できない。
(『まともな日本再生会議』中野剛志×柴山桂太×施光恒 P64)


 この文章で最後に出てくる「非効率部門を淘汰せよ!!」という言説は、実はTPPの議論においてTPP賛成派の論客が非常にしばしば用いる説明でした。私は、この説明について全くおかしいと昔から思っていましたが、中野剛志さんは、この問題について、
>企業は非効率部門を淘汰することで株価が上がったりしますが、国というのは非効率な国民を淘汰できない。
と論じています。

 どうやら、「非効率部門淘汰派」の人々もこのような反論は耳に入っているようで、そこで池田信夫のようなTPP賛成派の人々は次のような説明をします。
「競争に敗れて落ちこぼれた人々は生活保護などのセーフティーネットで救ってやればいい」
と。このような説明は、「仕事によって、社会との関わりを持ち、社会の中で一定の役割を果たすことで、自己の存在価値を感じ取るような人間」といった人間に心理的、社会的側面をまったくもって無視した低劣な言論であると思いますが、それ以前の問題として、そもそも、効率化のために非効率分野を淘汰したにも関わらず、再び落ちこぼれた人々を社会保障によって救うのであれば、国家全体としては確実に効率性は低下し、効率性を高めるために非効率部門を淘汰したにも関わらず、結果として、落ちこぼれた人々の社会保障のために足を引っ張られて全体の効率が低下するというなんとも本末転倒な話にしかなりえないように思えます。

 こんなもの別に真面目に政治や経済について勉強せずとも簡単に理解できる理屈でしょう。国家全体でより多くの財やサービスを生産供給しなければならない状況で、失業率が5%であれば、残りの95%の労働者で財を生産すればいいのですが、非効率部門を淘汰し失業率が20%に達したとするなら、たとえ生産的な分野にリソースを供給したとしても80%の労働者で財やサービスを供給しなければならないのです。さらに、特に効率性が高い分野はITや金融といった特定の高技能の持ち主のみが就ける職業に限られているため、実際に、これらの生産性の高い分野へ人材を移動させたとしても、実際の生産性の向上の程度はたかが知れているでしょう。おまけに、労働者一人あたりの生産量を向上させたとしても、その報酬のうちの一定の割合を非効率であるからという理由で労働市場から淘汰した人々への社会保障に取られるのですから、これは淘汰した側にとっても、淘汰された側にとってもあまり幸福な状況とはいえません。

 さらにTPPの議論においては、非効率部門として農業分野が名指しで指定されていましたが、当然ながら食料の自給は国家の独立の最も重要な基本の一つです。企業のような利益集団であれば、非効率な分野を、「金が稼げないから」という理由で切り捨てることは可能ですが、国家は「ただ、お金を稼げればいい」という企業のように単純な構造をとっていないため、一見経済的な視点から見て非効率であったとしても、より大きな包括的な視点から見た時には非常に重要な意義を持つ分野(軍事・農業・教育・技術開発etc・・・)がいくらでも存在するわけです。

 以上のような複数の理由から、国家というもののあり方を包括的に捉えるのならば、「非効率部門を淘汰せよ」という言説は全く愚かであるとほぼ断言できるのではないでしょうか。


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2014年01月22日

『国民の道徳』(著 西部邁)を読んで・・・

 以前、この『国民の道徳』という本の前半部分を読んだ時点で、ASREADの方に『「命が一番大事」という価値観は人間をニヒリストにする』(http://asread.info/archives/299)という文章を寄稿したのですが、この本の最終章「生死観が道徳を鍛える」では、もろにこの問題が主題となっていました。

 生き延びること以上に大事なことはないと構えたとたんに、生命は一切の価値を打ち砕く石臼に変じたのである。それもそのはず、延命のために卑劣も狡猾も、横柄も野蛮も、臆病も怯懦も、裏切りも背信も、卑屈も服従も必要になることが多い。自分がそのような人間にすぎないと内心で思っているものが、どうして明朗闊達に振る舞えるであろうか。(中略)
 自己の存在意義が軽信されてしまえば、自己が生命として存在しつづけること、それが価値の最高峰に立つことになる。だから、この生命至上主義をどう始末するかは、現代日本の思想的混迷を解く鍵となりうる。もちろん、生命という手段がなければ人間の生の目的もまた意味をなさない。しかし生命はあくまで手段価値を持つにすぎず、生命に目的価値はないのである。(P 651)


 本来、生命はあくまで手段価値であり、生命に目的価値はないにも関わらず、現代日本においては生命を至上の価値としてしまった(例えば、「人命は地球より重い」等の倒錯した表現がそれを端的に表しています)ところに、もしかしたら現代の思想における最初のボタンのかけ違えがあったのかもしれません。

 しかし、これは当然でしょう。仮に、誰かに「あなたは何のために生きるのですか?」と問うた時に、生命至上主義的な価値観においては、「生きるため」としか答えようがありません。生きていくことの最高の価値、目的が「ただ生きるため」であるとするなら、おそらくはこれほど虚しい生はほとんど他に考えられないのではないでしょうか?西部さんは、生命至上主義的な価値観は、どこかの時点で必ず生命軽視の価値観へと転じざるを得ないと書いていますが、上記のような思考プロセスにより、生命至上主義の価値観が生をこれほどまでに虚しいものとするのであれば、やはりこのような価値観が、結果的に生命軽視の価値観へと転倒することはやはり私には必然であるように思えます。


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人間の精神の本質の玉ねぎ仮説

 先日、西部ゼミナールを見ていたら、佐伯啓思さんがゲストで出演し、西田哲学について語っていました。

 そこで佐伯啓思さんは、西田哲学では、自分の選択について、「自分自身で選び取っているのではなく、現実にはほとんどの場合、環境によって選ばされているのだ」ということを説明していました。

 私は、この教えを聞いて「あー、なるほどなぁ」と妙に納得しました。現在の心理学においても、「人間に自由意思は存在するのか?」という問題は代表的な論争の一つですし、そのような小難しい議論を持ち出さなくとも、人間の選択は、ほとんどの場合、自分の自発的な選択の結果ではなく、むしろ、外部の環境から強制(あるいは矯正?)された選択であることがほとんどであります。

 たとえば、分かりやすい例でいえば、若者の車離れという現象が挙げられるでしょう。現在の若者が車を欲しがらない理由は数多く挙げられます。「都市部では公共の交通網が発達しているため自家用車が必要ではなくなった」「車を持ってても女の子にモテるような時代ではなくなった」「正規雇用が減り、若者がローンを組みにくくなった」「雇用が不安定化し、ローンを組んで車を買うことに若者が不安を抱くようになった」等々、実に様々な理由が挙げられます。しかし、少し考えてみれば、これらは全て外的な要因であり、自己の本質とはなんら無関係であると考えられないでしょうか?

 さらに分かりやすくなるよう、もっと簡単な例を挙げてみましょう、例えば、あなたの後ろで何かが爆発したような爆音が聞こえてきたとします。その時、あなたはきっととっさに後ろをふり返るでしょう、さてその時、あなたは自発的な意志によって後ろを振り返っているのでしょうか?それとも、後方から聞こえてきた爆音という外的な条件付けによって後ろを振り向かされたのでしょうか?ここまでくれば、おそらくは、ほとんどの人が後者であると考えるのではないでしょうか?

 確かに、これは極端な例かもしれませんが、すくなくとも、確かに人間の行動の選択は、自発的な意思によって、つまり自己の本質に根ざすものではなく、むしろ、外的な要因によって行動させられているかもしれないと仮定できるでしょう。

 そこからさらに遡って考えると、人間は、「ある行動を行いたい」という欲求から行動します。しかし、この行動が外的要因であり、自己の本質ではないとするならば、その行動を取りたいと思った欲求もまた外的要因によって喚起された、これまた自己の本質とは無関係な事象であると考えられます。つまり、自身の行動に直結する自己の欲求というものもまた本質ではない、一種のまやかしなのです。

 ならば、ある(自己の本質とは無関係な)欲求が叶えられないことからくる苦しみはどうでしょう?自己の本質とは無関係なまやかしの欲求を土台とする苦しみ、これもまた、やはり自己の本質とはかけ離れたまやかしであると考えられるでしょう。お金が欲しい、恋人が欲しい、社会的地位や名誉を獲得したい、しかし獲得できないといった現実からくる悩みもまた、自己の本質とはかけ離れた外的要因によって引き起こされた幻想に過ぎないわけです。

 しかし、そうなるとまた同時に厄介な問題も発生します。ある欲求が叶えられない苦しみがまやかしであるなら、同時に、そういった欲求が叶えられた時の喜びや幸福もまた幻想であるのです。それは、そうでしょう、自己の本質と無関係な欲求にもとづいた悩みや苦しみが幻想であるなら、同時にそれにもとづいた喜びや幸福もまた幻想でないなどという理屈はありません。

 確かに、あまりにも論理が飛躍し過ぎているようにも思えまし、幸福屋喜びが幻想だとするなら、一体この人生には何の価値がるのだ?と疑問に思えるでしょう。しかし、例えば原始仏教では、愛といった通常非常にポジティブな意味づけが与えられる概念に関して、「愛は執着を生み、執着こそが煩悩や苦しみを生むのだ」と、非常にネガティブな意味づけがされており、さらには「愛する者に出会ってはいけない」という教えすら存在します。

 ここまで聞いて、愛や、幸福すらが、目標でも、本質でもないとするなら、「一体、人間の本質とはなんなのだ?」と多くの人は疑問に思うでしょう。そこで、私が考えたのが人間の精神の本質の玉ねぎ仮説です。

 ここまで説明してきたように、ほとんどの人々は、自分自身の本質とは無関係なものを自己の本質であると錯覚しています。行動、欲求、苦痛、苦悩、執着、幸福、喜び、愛等々・・・しかし、先に説明したようにこれらの一切は本質ではありません。そこで、仮に、真に自己の本質を追及したいと願う人間は、これらの幻想を振り落とします、たまねぎの皮を1枚1枚むいて剥していくように、幻想の皮をそぎ落としていったときに何が残るかといえば、そこには何も残りません。つまりは無です。

 無という概念には様々な解釈が存在しますが、数多くの宗教的な偉人たちが、無こそが精神の最高の境地であると述べていることを考えると、不純物、あるいは非本質的な精神の作用を全て削ぎ落そし、徹底的に本質を追及する先に無が待っていると考える思想は、さほど的外れではないのではないか?あまりにも、論理の飛躍が過ぎることは認めるものの、私自身の直感としては、妙にしっくりとくる納得のいく考えではあります。


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2014年01月21日

ニーチェの箴言 解説その@

しん‐げん【×箴言】
戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言。「―集」
旧約聖書の中の一書。道徳上の格言や実践的教訓を主な内容とし、英知による格言・金言・勧告が集められたもの。ソロモンその他の賢人の言葉と伝えられる。知恵の書。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/113960/m0u/


 ニーチェの『善悪の彼岸』という本には、中盤に箴言集というものがあるのですが、先日久しぶりにパラパラと読み返してみたらおもしろいなぁと思い、さらに、この箴言集の言葉を一つ一つ俺なりに解説してみるのも面白いかもなぁなどと思って書いてみることにしました。大体、ブログで企画っぽいことをやろうとすると途中で挫折するのですが、まあとりあえず挫折するまでは続けてみたいと思います。

「われわれの同胞はわれわれの隣人ではない。むしろその隣人の隣人である。」―人々は誰でもそう考える。

「人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい。」

この言葉は、来日したソ連の反体制物理学者サハロフ博士が、ロシアの詩人の一節として引用したものです。

 自分は人類を愛している、と信じることは簡単です。各種のボランティア活動や寄付、献血、署名、投書、あるいは政治運動などなんでもかまいません。
「私は、日本のために行動している!!」
「私は、世界の貧しい恵まれない子供のために寄付している!!」
「私は、東北の被災者のためにボランティアをしています!!」
もちろん、ここまで政治活動やボランティアがありふれた行為になってしまった時代においては、ここまで自分の行動を喧伝する人もそれほど多くもないかもしれません。

 とあるシンポジウムで脳科学者の茂木健一郎が、シンポジウムの参加者の的外れな質問に対して、物凄い勢いで怒り罵倒していました。
「私は、物凄く真剣に真面目に、研究しているんです!!今日も真剣な話をしていたのに、なんなんですかその質問は!?大体、皆は怒らないのですが、私はこんなに真面目に研究をしているのに、世間の皆がこれほど不真面目であることに怒りを感じています!!」
と。私は、そのシンポジウムの様子をインターネットの動画で見ていたのですが、なにかこの怒りに嘘くささ、演技っぽさ、あるいは単なる偽善をも感じました。そして、同時にその後にシンポジウムに参加していた哲学者の方が言った一言が非常に強い印象を受けました。
「まあ、怒りの表し方は人それぞれですから・・・」

 人類を愛することはたやすいです。人類を愛していると思い込むこともたやすいし、自分は人類への愛からあらゆる活動を行っているのだという幻想を抱きながら自分の行動に酔うという高度な偽善すらも人間は簡単に行います。

 一方で、隣人を愛することは難しいのです。人間はお互いの距離が近ければ近いほどの、お互いの性格や習慣あるいは利害の不一致を体験します。

 気の合わない隣人は、常に自分を不快にします。自己中心的な会社の上司、性格の悪い部活の先輩、ちゃんとゴミ出しをしない隣の部屋の住人。ことあるごとに自分をイラつかせる人は誰にとっても存在するのではないでしょうか。こういった困った隣人との関係を上手くやっていくのは並大抵の努力ではありません。そして、その並々ならぬ努力に対してそれを賞賛してくれる人はほとんど皆無でしょう。一方で、海外の貧困国へボランティアへ行く人、震災復興のボランティアへ駆けつける人々、こういった人々は注目され賞賛されることも多いでしょう。そして、同時にこのような行為を行えば自分は立派で高級な人間だという優越感にも浸りやすいのではないでしょうか。

 さて、こうなった時、易きに流れやすい人間の多くは、こう考えます。
「この不快な隣人は、私の愛すべき同法ではない!!この隣人の隣人こそが、まさに私が愛すべき隣人なのだ!!」
と・・・。

 さて、隣人をないがしろにしたままの隣人愛とは、ただの偽善に過ぎないのではないでしょうか?


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2014年01月19日

東京都知事に相応しい人調査 田母神氏が75.6%で一位

 ラジオNIKKEIが現在「東京都知事にふさわしいのは誰?」という調査を行っている。17日正午現在、4409票が投じられているが、暫定結果は以下の通り。

 田母神俊雄氏:75.64%
 舛添要一氏:9.93%
 細川護煕氏:6.17%
 宇都宮健児氏:3.33%
 ドクター・中松氏:1.09%
 関心なし:1.95%
 その他:1.88%

 ここでは田母神氏が圧倒的な票を獲得中だ。これに対し、ツイッターでは「圧倒的じゃないか我が軍は…」や「よく見ろ…これが現実だ」のほか、「ネットは無力ではありません。どんどん投票しましょう!」といった声も出ている。

 メディアの報道では舛添氏と細川氏が有力候補扱いされているが、「圧倒的だな、TVじゃ泡沫候補あつかいだけど」と、マスコミ報道に疑問を抱く人もいる。
http://yukan-news.ameba.jp/20140117-218/


 このラジオNIKKEIというのがどういったメディアであるのかを知らないので、なんとも言いようがないのですが、確かにTVでは舛添氏、細川氏が有力候補扱いで、田母神さんは泡沫候補扱いされているわりには、ネット上では田母神さん支持の声が大きいような気がします。

 まあ、舛添、細川両氏を有力候補扱いするのは仕方ないかもしれませんが、少なくとも、それまで長い間都政を担ってきた石原慎太郎氏が指示をしていること、ネット上の一部では大変な支持を得ていることを考慮して、泡沫候補扱いではなく、せめて大穴、あるいは第三の候補者程度の扱いはするべきではないかと思います。

 前都知事の猪瀬氏は国土強靭化に反対でしたから、もし仮に今回、国土強靭化と首都直下型地震対策を再重要視している田母神さんが都知事になれば、政府の推進している国土強靭化の構想と連携を取ることで、ある種の日本の政策転換の転機となりうるのではないかと思っています。一方で、現在安倍政権で勧めているビジネス重視の経済特区の構想等に真っ向から反対している数少ない候補者でもあり、構造改革や大企業優遇の政策が大嫌いな私としては、難しいとは思いますが、是非とも田母神さんに当選してもらいたいと願っています。


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2014年01月15日

経済はビジョンで動く

 先日、小学校時代からの友人で東大と東工大の大学院を主席で卒業したO君と久しぶりに飲みに行ってきました。なんとなくお互いの近況を話し合ってから、なんとなく今の世界の経済状況の話に・・・小学校時代からの友人と久しぶりに会ったのに経済の話なんてするのも野暮だなぁと思いつつも、まあ、政治経済オタクの話なんてそんなもんだよなと・・・。

 私が
「現在アメリカやユーロ圏では、失業率も高いままで実体経済が良くなっていないにも関わらず、株高の状態が続いているから、アメリカもヨーロッパもバブルが起こっている。90年代までは、景気が加熱した状態の時にバブルが発生することが多かったが、現在のように不況の時に大規模な金融緩和を行うと、実体経済に投資先のない行き場を失った投資マネーが一気に株や土地などの投機に周り、実体経済の不況と、金融経済のバブルが同時発生するという異様な状態が発生する。」
ということを説明すると、Oは、
「なるほど、今世界に投資先がないのはわかったが、それじゃあ、どうすればいいと思う?」
と聞いてきました。池上彰よろしく「いい質問ですねえ」とでも言いたくなるのをこらえて、私はこう答えました、
「そうだなあ、今のように民間企業が投資先を見い出せない状況では、やっぱり、政府が計画、あるいは計画という言葉が強すぎるなら、政府が具体性を持ったビジョンを提示することが不可欠だと思う。」
と。

 民間の経済主体である、企業も家計も、どちらも国家の中に組み込まれた存在であり、国家の進むべきビジョンがなければ、企業や個人はその中で方向性を定めることが不可能になります。投資や消費の方向性の定まらない経済主体が、お金を溜め込もうとするのは至極当然の現象であるように私には思えます。

 言われてみれば、至極まっとうな話で、現在民間企業が思い切った投資ができないのは、一つには確かにデフレ不況で、投資しても損する可能性が高いからということもありますが、もう一つには、今後日本経済、さらに言えば日本国家の将来がどのように進んでいくのかが見えてこないという問題があります。しかし、これは、実際には今に始まった問題ではないでしょう。

 日本は戦後、欧米に追いつけ追い越せで、欧米並みの生活水準にキャッチアップすることを目的とした経済体制を敷いていました。ビジョンは明確で欧米人(というよりアメリカ)のような生活というものをモデルとして分かりやすいビジョンが存在していました。そのような状況では、家電メーカーや自動車メーカーにとって非常に投資しやすい環境であったでしょう、何しろ、消費者が求めているものが明確であり、企業はその求める製品を懸命に作っていれば良かったのですから、しかしその後1968年には早くも、GNPが西ドイツを抜いて世界2位の経済大国となり、さらには70年代には少なくとも経済的には欧米に追いついていることに気づき、80年代にはジャパンアズナンバーワンなどと言われ、欧米にキャッチアップするなどという目標は完全に達成しました。

 80年代に発生したバブルの原因は様々な要因が言われていますが、実は、明確なビジョンを失った社会の中で、企業が実体経済の投資先を失ったためにそれが過剰な投機マネーに回ったという側面も多少は存在するのではないでしょうか?その後、バブルは崩壊し、97年からはデフレ不況に突入し、未だそのデフレからの脱却はなされていません。

 97年以降は、新自由主義的な改革が押し進められ、市場原理主義的な経済思想の導入とともに、政府主導の投資計画は徹底的に忌避され、公共投資は徹底的に削られてきました。このような状況において、「企業に頑張って投資してくれ」などとお願いしてみたところで、企業が投資を増やせるわけがありません。企業も家計も、国家に組み込まれた存在である以上、国家のビジョンに従って動きます。つまり、企業や家計の投資計画、消費計画は、いわば国家のビジョンという上位計画に従属する下位計画と言えるのです。下位計画は、ほとんどの場合上位計画という目標に奉仕する手段であるため、目標である上位計画が消失すれば、手段である下位計画は方向性を失います。

 おそらくは、このように国家的ビジョンの重要性を無視した経済学こそが、日本国家の10年以上の停滞の重大な原因の一つなのではないでしょうか。つまり、企業や家計の投資や消費は、国家のビジョンや計画と無関係にマーケットによって動かされるのではなく、むしろ逆にマーケットそのものは、国家の(あるいは、さらに国民に広く共有される)ビジョンによっておおよそ定められる家計や企業の活動に一定の影響力を与える変動要因に過ぎないのではなかということです。

 以前、ASREADに寄稿した記事(『アベノミクスで所得が増えない理由とは』http://asread.info/archives/338)では、労働の価値はマーケットメカニズムによっては決定されないのではないかということに言及しましたが、また同時に、現在の日本の長期不況から脱却しきれない状況を見るに、企業や家計の投資意欲、消費意欲もまたマーケットメカニズムのみによって決定されるのではないのではないかと、そのように思います。

 逆に言えば、国民の多くが共有しうる、現実的な将来のビジョンを政府が提示することが可能であれば、それ自体が現在の長期不況から脱却するための重要な手段となりうるでしょう。


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言論人の芸人化現象・・・

 先日、とある保守的な政治思想を持っている人たちの飲み会の席でライターや雑誌の編集をやっているOさんという方とお話する機会があったので、今回は、その時の話について少し書いてみようかと。

 Oさんとお話をしていて、非常に印象に残った話の一つが、「言論人というのは所詮芸人であって、言論人にとっての言論とは、芸人にとっての芸に過ぎない」という話です。佐伯啓思さんの『学問の力』という本によれば、日本で初めに「言論人は芸人だ」ということを言いだしたのはニュー・アカデミズムの浅田彰らしいのですが、いよいよ、こういった感覚が保守の言論にまで共有されつつあり、おまけにそれが当然のこととして語られていることにある種の恐怖を感じました。

 と、同時に、私はこのブログやASREADの記事で、散々に言論人の言論の間違いや、おかしさについて指摘してきましたが、私はある程度真剣に批判しているつもりでも、そもそも批判される側としてはただのネタとしてやっているのかと思うと、一体自分は何をやっていたのだろうかと虚しくなります。

 しかし、それでは、じゃあ、「あいつらどうせふざけてやってるだけだから無視すればいい」というふうに構えればいいのかといえばそんなことはなく、言論人がどれだけふざけて言論活動を行ったとしても、それを受け取る側は、彼らがどれだけふざけているかなど知る由もなく、現実にそのふざけた言論によって政治や行政が動かされているという現実を直視するなら、それを放置しても良いということにはまったくならないでしょう。さらに、一つ付け加えるなら、言論人の言論は、芸人にとっての芸だと言いましたが、芸人はその芸を磨くために真剣に努力するように、言論人もその言論を磨くため、あるいは流行させるために必死の努力を行っています。

 オルテガは、「意見を述べるための努力をしないのに、意見を述べる権利を自分は持っていると考えるのが大衆である」と述べ、さらにそのような大衆が社会の中枢にまで影響を及ぼすようになる現象を「大衆の反逆」と名付けましたが、現代の時代はまさにどこを眺めてもこの「大衆の反逆」と呼ばれるような現象が見られます。

 あらゆる人々が、何の努力もすることなしに、投票権という政治を現実に動かす能力を持った権利を持ち、「多数参加の多数決で決定する民主主義は素晴らしい」というまさに根拠の定かならぬ神話をもとに、「皆で選挙に行きましょう!!」「皆で投票して、投票率が上がれば世の中が良くなります!!」と呑気に喧伝する人々、自分の半径数メートル以上のことにはほとんど一切の真剣な関心を抱くことのない大衆と、そのような大衆の雰囲気や願望を上手く汲み取る大衆的言論人、そして、そのような大衆的言論人の言説を受けてますます大衆的になっていく大衆人。さらには、情報技術の発達により、現在ではそのような大衆の中の大衆とでも呼ぶべき人間が、「自分の意見を自由に発信できるインターネットは素晴らしい!!」などと言いながら下らない妄言を撒き散らしているわけです(ああ、現実の知り合いたちとの小さなコミュニティーでのみひっそりとやり取りするのが主目的であったmixiの時代がどれだけ良かったことか・・・)。

 添田くんは、ASREADの『世の中がどうしようもないのは「わかりやすさ」のせい』(http://asread.info/archives/375)という記事の中で、青木大和という人物の「言うってことが大事だし、言いたい人は言えばいいのに、なんでタブー視されるんだろう。」というセリフを取り上げて批判していますが、仮にオルテガがこの疑問に答えるとしたらこのように述べるでしょう。なぜ、彼らは発言してはいけないのか?それは、「彼らには、そもそも発言する資格も権利もない上に、その権利を得るための努力もしないから」です。

 そもそも、私は表現の自由そのものに疑問を覚えずにはいられません、もちろん現代社会において、言論の自由を政治的、法律的に抑圧することは実際上不可能に近いですが、そういった事実とその理念そのものが素晴らしいかという話は別問題でしょう、果たして、「自分には何かしらの意見を主張する権利を生まれながらに有している」と考えている人間が、自分が何かしらの意見を主張するに足るだけの人間になるというそれだけのために真剣な努力を行うことがありうるでしょうか?

 なにか、こういうとあまりにもルサンチマン丸出しな言論になってしまって、申し訳ないのですが、正直言って、私はこのような現象の何もかもが気持ち悪いし、不愉快なのです。なんの努力もなしに「アナタは素晴らしい個人としての尊厳を持った人間だ!!文化的な生活を享受する権利、世界でたった一人の自分の考えを自由に表現する権利を生まれながらに持っているのです!!」などと言われて育ったガキどもも(そのガキの中には30代のガキも40代のガキも、中には50代60代もいるのですが・・・)、そんなガキどもの妄言をなにか素晴らしい個性の表現であるなどともてはやす連中も、そんなものをもてはやす大衆の精神や願望を汲み取りそれに迎合していく言論人の言論の姿勢も何もかもです。

 世の中の多数派が、本当に、こんなものを素晴らしいと感じているなら、あまりにも知性や感性の程度が低すぎるように私には思えますし、仮に、心の中では「こんなもの下らない」と感じているにも関わらず、そのような思いを心に秘めながら、表面上では、「いやあ、○○さんの言論はなかなか斬新で面白いねぇ」などとうすら笑いを浮かべながら語っているとしたら、それもまたたまらなく不快なわけです。

 仮に私が、「言うってことが大事だし、言いたい人は言えばいいのに、なんでタブー視されるんだろう。」という青木大和の言葉に同意するとするなら、このような連中やこのような連中をもてはやし、「なかなかの人物だ!!」「新しい、これからの世の中を変えていく若者たちだ!!」などと評価する、知性も品性も劣化しきった社会に対して「クソッタレ!!」と言ってやるような意見に対してならば、唯一「言いたい人は言えばいい」と共感を覚えるのです。


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2014年01月13日

『まともな日本再生会議』(中野剛志×柴山桂太×施光恒)を読んで〜まともなナショナリズムと薄っぺらなナショナリズムについて〜

 久しぶりに、本のレビュー記事です。『まともな日本再生会議』は中野剛志さんと柴山桂太さんと施光恒さんの3人の鼎談本です。まだほんの数ページしか読んでないのですが、本書の冒頭に中野剛志さんが「ランキング・ナショナリズム」という言葉を用いて、現在の日本のナショナリズムの歪みについて非常に面白い解説をしていたので、その議論をテーマに今回はナショナリズムについて考察してみたいと思います。

中野 安倍政権は保守色が強いとされ、また安倍首相は、海外からはナショナリストと認識されています。
 まずナショナリズムに関してですが、安倍首相はことあるごとに「日本経済を強くし、世界一を目指します」などと言います。2013年3月の施政方針演説では、訳40分の演説中、「世界一」を7回も使いました。
 この演説では「日本を世界の成長センターに」というセンター(中心)という言葉も使いましたが、2020年東京五輪決定後にも、安倍首相は「世界の中心で活躍する日本の姿を、世界中に発信していくことが、東京開催決定の感謝の気持ちを表す最善の道と考える」と言いました。
 安倍首相は「世界一」「センター(中心)を目指すというわけです。
 しかし、これはナショナリズムの履き違えです。
 安倍首相のナショナリズムは「オリンピックで世界一になりました」というような同じルール、同じ基準で比べて自分たちが一番になったというもの。そこでは世界の基準は一つ、文化の優劣を前提としています。GDP(国内総生産)や金メダルの数といった基準で、一律にグローバルな競争をしてほかの民族よりも優れているということを競うという、いわば「ランキング・ナショナリズム」なんです。ランキング・ナショナリズムは、グローバルに汚染されたナショナリズムなのです。
 でも、本来のナショナリズムは世界の国ごとの多様性が生み出す価値の違いを尊重すること、ではないでしょうか。
 たとえば、世界三大珍味の一つ、フォアグラは「世界一美味しい」といわれているけれども「いや、私はこの塩辛の方が好きだ。なぜかって?それは昔から食べているからだ、以上」。これが多様性を尊重する本来のナショナリズムです。九州出身の人は地元の塩辛が好きで、もしかしたら、山口の塩辛の方が美味しいかもしれないけど、「俺は地元の塩辛が好きなのだ」という、自分の村で暮らしてきて、その村の産物を食べるというのは健全なことで、それが文化であり、それが世界の多様性を生み出している。慣習的で愛着を持っているものをそれぞれに尊重する。これが健全なナショナリズムです。
 世界には美味しさの基準はたくさんあって、国ごとにそれぞれの価値観がある。そのそれぞれの価値観を守ろうというナショナリズムであるべきなんです。ナショナリストは、自分の国が客観的に見て世界一ということを自負するのではなく、自分にとって一番いい国だから自負するのです。ギリシャを例にとれば、いくら周囲から見ればひどい状態でも、ギリシャ人にとってはかけがえのない国である。これが本来のナショナリズムです。


 この議論を読んで、私はなんとなくフィリピンのことを思い出しました。私は、最近フィリピン人の方と色々と議論やお話をする機会があったのですが、その方とお話をして、フィリピンの方は大変立派な愛国心をもっているのだということに感心しました。

 フィリピンは、よく知られているようにフィリピンは16世紀にスペインの植民地になり、その後アメリカの植民地になりました。日本の保守や右派の人々はしきりに、日本の万世一系の皇統と、かつて日本が一度も外国の植民地になったことがないという事実をもって、「日本は素晴らしい国だ!!」「この素晴らしい国を愛そう!!」と語りますが、フィリピンの方々は、たとえ自国が永きにわたって外国の植民地であっても、そんなこととは関係なく愛国心を持っています。

 もちろん、こんなことは海外の国からすれば当たり前のことなのでしょうが、日本国内においては、特定の種類の人々がしきりに日本が他国に優越している点を並べ立てては、「これだけ日本には(海外と比較して)立派な歴史や功績がある!!だから我々は日本を愛するべきだ!!」などと喧伝しつつも、なかなか健全なナショナリズムが共有されにくい現状があります。そこから比較すると、やはりフィリピン人の、自国の侵略されてきた歴史を直視しながらも、その上で自国に誇りを持とうとする姿勢は大変に立派な姿勢であるように思えます。

 いくら他国から見てひどい国であったり、ひどい歴史であっても、自分にとって良い国であるから愛する。これこそが健全なナショナリズムであるのだと考えると、やはり韓国のように歴史を捏造し、自国の惨めな歴史から目をそらして「うりの国家は世界一ニダー!!」とやるのは大変卑劣であるように思えますし、日本のように、ことさら他国と比較して優越している点を並べ上げて、「ほら、こんなに日本はすごい国でしょう?だから、私たちはこの国を愛するべきなんですよ」などとやるのもどこか下卑たいやらしさを感じます。

 でも、それは当然でしょう。たとえば、あるブサイクで貧乏な男と付き合っている女性に対して、金持ちのイケメンな男性が「アナタは、あんな男のことよりも、私のことを愛するべきです!!何故なら、私はあんな男よりも財力も、地位も、容姿も全て上なのですから、私のことを愛するのが当然なのです!!」などと言ったとしたら、おそらくそれを言われた女性は心底うんざりして、「なんてこの人は浅ましい精神の持ち主なのだろうか?」と思い彼の人間性を疑うでしょう(まあ、これもこの女性が立派な、あるいはまともな女性であればの話ですが・・・)。

 もちろん、ある種の保守派、あるいは右派の知識人や評論家が、戦後の左翼全盛の時代に、左翼の自虐史観に対抗して、「日本人も愛国心を持つべきだ!!」と頑張って言い続けてきた努力は認めます。しかし、もはや左翼的な思想の流行も廃れ、若者の右傾化などが囁かれるような時代にあって、未だ「○○と比べて日本は良い国!!」などとやっているのはあまりにも品と知性に欠けた知識人としてはあるまじき行為あるいは言説なのではないでしょうか?

 7年後の東京五輪まで「世界の中心」で発信するというけれど、ランキング・ナショナリズムが横行して、ただただ英語をペラペラと話して軽薄にプレゼンができる。愛想笑いを浮かべて中身のないことを喋る日本人が量産されるでしょう。それこそ三島由紀夫が言った「無機質な、空っぽな、ニュートラルな」という日本になりますよ。

 これについても全く同感です。一時期、やたらと高学歴、というか今でいうところの意識高い系の人々(?)の間で、「海外に出て言って、日本の良さを海外に発信していこう!!」という言説が流行した時期がありました。これなども、一見愛国心にもとづいたナショナリスティックな言説であるように思えますが、実際には、ほとんどグローバルリズムの裏返しに過ぎないと私には感じられます。中野剛志さんの言葉を借りればグローバルに汚染されたナショナリズムでしょう。現在で言えばグローバリズム、当時は国際化という言葉が流行していたのですが、ほとんど頭が空っぽな連中が、一旦、国際化の方向に振れたものの、国際化の流行に飽きて逆転しては「日本の良さをー!!」などと言ってみただけでしょう。仮に、流行に敏い彼らが、国際化の大合唱をしてる連中の薄っぺらさにうんざりするくらいの落ち着いた知性と感性を備えていたならば、そこから健全なナショナリズムの育成に向けた努力も行われた可能性もありますが、残念ながら、彼らは、国際化人間の薄っぺらさをそのまま受け継いだ結果として、次の流行の愛国心に移ったために、やはり愛国心を語る上でも、国際人と同様の軽薄さと密かな自国蔑視が保存されたままの薄っぺらい言説になってしまったのだと思います。


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2014年01月12日

表現者塾のシンポジウムに参加してきました!!

 先日行われた表現者塾のシンポジウムに参加してきました。西部邁さん、藤井聡さん、富岡幸一郎さん、水島社長の4人でのパネルディスカッションが中心のイベントでしたが、とても素晴らしい内容でした。

 出演者の皆さんが、それぞれ非常に面白い話をしていましたが、特に強く印象に残ったのが西部さんの「もはや、日本はバカだらけであり、政治も社会もどうしようもないほどに劣化しきっている」というお話でした。

 西部さんは、そこでオルテガの言葉を引用し、「バカは死んでも治らない」という事をおっしゃり、もはや、どれだけこの日本列島に済む日本人の知性が劣化しているかという問題について堂々と論じ、表現する知識人が出てくるべきではないのか?と話していました。

 ちなみに、「バカは死んでも治らない」とはオルテガが『大衆の反逆』にて用いた表現なのですが、前後を含めて正確にはこのように論じています。

 したがって、愚か者と炯眼の士とのあいだに永遠に存在する差異と同じものを、ここに見るのである。炯眼の人は、自分が愚か者とつねに紙一重であることを知って驚く。だから、目前のばかげたことを避けようと努力するし、その努力のなかに知性が存する。それにたいし、愚か者は、自分のことを疑ってみない。自分がきわめて分別があるように思う。ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは、ここから生まれるのである。住んでいる穴から外へひきだしようのない昆虫みたいなもので、愚か者をその愚行から解き放ち、しばらくでもその暗闇から出して、いつもの愚かな見方を、もっと鋭い見方と比較してみるように強制する方法はないのである。愚か者は終生そうであって、抜け穴がない。
 だからこそアナトール・フランスは、愚か者は邪悪な人間より始末が悪い、といったのだ。つまり、邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らないからだ。(P81)


 私は、他人にこの『大衆の反逆』の内容を伝えようと思ったときには「この本の内容は一言で言えば、バカが偉そうにしゃしゃり出てくな!!ということを説いた本です」と説明します。しかし、残念ながら、それを実現することは難しいでしょう。

 オルテガに言わせれば、バカは、自分の馬鹿さを自覚する能力の欠如ゆえに馬鹿なのですから、その自分自身の馬鹿さ加減を自覚し、おとなしく、また同時につつましく身の丈にあった振る舞いを行うように強制することは不可能なのです。
「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らない」
ともありますが、これも理由は明白でしょう。邪悪な者は、自分の邪悪さを自覚するがゆえに、時々気まぐれのように良いことでもしてみようかと思うときもあるでしょうが、一方で、自分の馬鹿さを認識することが不可能である愚か者は、その自分の愚かさを一切省みることができないために、死ぬまで愚かな振る舞いを継続するのです。

 また、西部さんは、どれだけ日本人の知性が劣化しているかという問題について堂々と論じ、表現する知識人の出現を望んでいました。確かにそれが非常に望ましいことであるとは思いますが、しかし、仮にそのような知識人が一定数現れてきたとしても、わたしはその効果は限定的であるのではないかと思います。なぜなら、自分自身の愚かさを感じ取ることが不可能な愚か者は、どれだけ日本人の知性の劣化を訴える知識人の言説を聞いたとしても、大抵の場合「ああ、いるいる、いるよねー、そういう馬鹿な奴!!」とだけ感じ、まるで自分はそのような愚かさの感染を免れた特殊な免疫の持ち主であるかのごとく勘違いするか、もしくは、仮に自分の愚かさを自覚したとしても、「なによ?皆愚かなんでしょ?皆愚かなのに今日も地球は回っているのだから、それで何か問題でもあるのかしら?」としゃあしゃあと抜かし、その後はこの不愉快極まりない言論を綺麗さっぱり忘れて、翌日からはせっせとまた愚かな振る舞いを繰り返すかのどちらかでしょう。

 オルテガは、
 現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある。
と述べていますが、現代人のほとんどすべての人間は、自分が知的エリートだと信じて疑うことのない愚か者と、自分の凡庸さに関して完全に開き直り、その凡庸なままに様々な権利を主張する(驚くべきことに、それは要求ではなく、そもそもそれはあって然るべきだとする要求するまでもない権利に関する主張なのです)凡人のどちらかなのです。

 西部さんは、演説の中で、「もはやどうしようもない」としきりに語っていましたが、確かに、この世の中のすべての人々がこの2種類の人間のうちのどちらかでしかないとするなら、まさにそのように「どうしようもない」でしょう。

 あるいは、仮に、なにかどうにかしようがあるとするならば、それは、その愚かさにも、凡庸さかにも浸かり込むことなく、健全でいようと不断の努力を行い、自らが社会の免疫となろうと努力するような人間の存在なのではないかと思いますが、1億2千万人のほとんど全てが気が狂ったような、あるいは無気力であらゆる分野で事勿れ主義に陥ってしまっているような状況にある中で、たった一人だけでも精神の独立性を保つ、そのような強靭な人間など存在しうるのでしょうか。


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2014年01月08日

宇都宮健児ヤバイだろ・・・そのA

 前回の記事(『宇都宮健児ヤバイだろ・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/384513374.html)で、このようなコメントが書き込まれていました。

東京都知事になるということは、東電の株主になるということでもある。
1300万人口と企業のエネルギー供給を考えるのも都知事の仕事。
原発問題に言及しても何らおかしなところはない。
安倍政権の暴走は止めることはできないが、直近の首都の主張を決める選挙で、非自民系が当選すれば
安倍政権にとっては、プレッシャーになるだろう。

大衆的であるから、政治の場に出てほしくないとあるが、大衆的では何故いけないのか?
もしかしたら、青島幸男の時代から、大衆が支配してきた都制には最もふさわしいのではないか?
発言をかいつまんで否定するだけじゃ記事として面白く無いですよ。
彼の経歴や人物像をしっかり見てから批判されたはいかがか?
こんな経歴で、こんな思想だから、都知事に相応しくない。
そのような記事を期待しております。


 なるほど、確かに、前回の記事では、宇都宮健児を大衆人の代表であると断定した上で抽象的な批判に終始していたので、今回はもう少し細かくこの宇都宮健児という人物について解説してみたいと思います。

 このコメントの前半箇所では、「原発の問題に言及することはおかしいことではない」「都知事になれば、間接的に安倍首相の政権運営に影響を与えることが出来る」と書いてありますが、この内容自体には私も反対するつもりはありません。しかし、気になるのは、このような都政とは直接に関係のない発言を都知事選に立候補することを表明したあとに発言することの是非についてです。都民にとっては、都知事選は、今後の都政のあり方について決定するための選挙であり、そのような選挙を前にして都政と直接関係のない政治的話題についてベラベラと話しまくるのは少し非常識ではないでしょうか?私は、このような姿勢から、彼が東京都をどうするかよりも本来は国政の問題に関心があるにも関わらず、直接国政には出ずに都知事という立場を利用して国政に影響を及ぼそうとしているのではないかといういやらしい意図を感じずにはいられません。政治的立場の左右の違いはありますが、この点も、橋下大阪市長と似ていると言ってよいでしょう。

 では、なぜこの宇都宮健児という人物は、本来国政に関わる問題に強い関心があるにも関わらず、わざわざ都知事に立候補しているのでしょうか?私が思うに、その理由は、この人物の政治的理念にあると思います。

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 藤井聡さんは、アンチナショナリズム的な政治思想の持ち主パターンの一つとして「まちづくり派」と呼ばれる人々を挙げています。簡単に言えば、国家という大きな枠組みには無関心でありながら、小さな町や地域の範囲内で仲良くやっていこうと考える人々のことです。彼らの特徴は原発を反対している人が多いということ、それでいて国家が嫌いつまり反国家的な思想の人間が多いということです。

 かつて、グローバルとローカルを掛け合わせたグローカルなどという言葉が流行った時期がありましたが、このような言葉を好む人は、このまちづくり派の典型と言えるでしょう。「限られた地域内の人々で仲良くやっていこう」という考えと反国家的な思想がミックスされ、さらにその上で経済的自立ということを考えると、どうしても海外の人々と地域のレベルで繋がりを深めようとします。そうなれば、国家主義的で排他的な排外主義者などは当然取り締まろうと考えるでしょう。それから、国家同士の戦いによって、地域の人々が犠牲になるような戦争は当然極端に嫌いますし、自国が嫌いなのに、他国の人々は大好きなどという歪んだ愛情から、おそらくは秘密保護法のような自国の安全保障上重要な法律などにも反対する可能性が高いです。

 もう、何が言いたいかおわかりかと思いますが、要は私にはこの宇都宮健児という人物がこのまちつくり派の典型的な人物に見えてならないのです。原発問題、安倍首相の強権的な政権運営に対しての反対というように主要な関心は国政レベルの問題が多いにもかかわらず、あえて都知事選に立候補するという妙な行動も、そもそも個人物の核となる理念がこのまちづくり派の思想にあるのだと考えると納得できるのではないでしょうか。

 そうなれば、当然、「では、このまちづくり派の人間が都知事になることにどんな問題があるのか?」という疑問が思い浮かぶでしょう。問題は、一つには、現在の日本の抱える様々な危機、例えばデフレ不況の問題や、今後来ることが確実視されている大地震等様々な危機が到底地域レベルでは対処不可能であるということです。当然ですが、首都直下型地震では、首都圏のほとんどが被災し、首都圏以外の地位からの援助がなければ当然救援活動も復興もまともに行えません。経済におけるデフレ問題も、財政の制約が厳しい地域レベルでの経済対策ではとてもデフレ解消などできませんから、経済対策でも国家や他の地域との連帯が不可欠です。しかし、こういったまちづくり派の人々は、国家権力を嫌う傾向があるために、どこまでしっかりと国家の政策と協調して経済政策を行えるかという点に関して疑問が残ります。特に、デフレ対策の基本であるケインズ主義的な政策や、国家主導の災害対策には国家や政府の主体性が不可欠です。宇都宮健児氏は、安倍首相の強権的な政策を改めたいそうですが、防災対策やケインズ主義的な公共投資は、政府や官僚が「ここに堤防を作れ!!」「ここに橋を作れ!!」「ここに道路を通せ!!」と指示するのですから、それ自体がある意味で強権的であるわけです。しかし、このような強権的な政策を行わなければ、デフレ不況で失業者が増えて、自殺者が増加したり、災害時に本来であったら助かったはずの命が失われる可能性が高いでしょう。つまり現在の日本においては国家が主体的に様々な必要な政策を講じなければまともに国民の生命を守ることが出来ないのです。

 他にも、問題は存在します。例えば、ある地域が国家からの援助を出来るだけ受けずに自立した経済運営を行おうとすれば、どうしても外国に頼ろうとします。具体的には海外からの旅行客のビザの緩和、あるいはできる限り定住しやすいように様々な規制を取り払おうとするかもしれません。東京のように人口が集中し、税金もかなりの額が集まるような地域ではこのような問題は実際には、起こらないかもしれませんが、ヘイトスピーチへ反対する団体の共同代表になったりしている様子を見ると、宇都宮健児氏は相当に在日の外国人へ肩入れしているように思えます。秘密情報保護法に反対し、その上で外国人の移民を積極的に受け入れようとするならば、どうしても安全保障上の問題が発生しうるように私には思えるのですが、そのような問題については彼はどのように考えているのでしょうか?

 おそらく、まちづくり派の人々のイメージでは、「あまり大きな問題には関わらずに、身近な人たちだけで楽しく仲良く暮らしていければいいじゃないか」とそのように考えているのかもしれません。しかし、残念ながら、現代はそのような甘い現実が通用するような牧歌的な時代ではありません。リーマンショックという大規模な世界レベルの経済危機が発生し、さらに、世界中がデフレになりかかっていたり、各国政府の累積債務の問題が発生したりと、様々な危機が予想されています。中等は軍事情勢が不安定化し、安定的なエネルギー資源の確保も難しく、世界中で大規模な自然災害が頻発し、特に日本は超巨大地震の発生がほとんど確実視されているような状況です。

 もちろん、地域社会でみんな仲良くという考えを持つこと自体は良いことではあるのですが、しっかり危機について認識せずに、甘い幻想に包まれながら生きるような贅沢は、少なくとも現在の日本の政治家には到底許されていないのです。

 必ずしも、それら全てを否定する気もないですが、やはり現在のように竹島や尖閣をめぐる争いの中で「のりこえネットで、差別を乗り越えて在日の人たちとも仲良くやろう!!」などと言っていたり、中東の情勢が不安定化し、エネルギー資源の安定的な確保も困難でかつ、他国の企業が「なんとかしてこのような不安定な情勢を活用してどこかから富を収奪できないか?」と虎視眈々と狙っている状況で、「原発は危ないからやめましょう!!」などと呑気に言っていられる様子を見ると、やはりコイツはダメなんじゃないか?と私にはそう思えるのです。

 あまちょろい幻想をリアルな政治の場に持ち込むことで、国民がどれだけの損害を被るのか?もうそれは民主党の鳩山政権の時代に散々思い知らされたではありませんか。現在は、非常に厳しい時代の試練に耐えられるだけの十分な知性と精神力と現実感覚の持ち主のみが政治家になる資格を有するのだと私は考えます。


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2014年01月06日

宇都宮健児ヤバイだろ・・・

毎日新聞 2013年12月28日 07時00分

猪瀬直樹氏の辞職に伴う東京都知事選(来年1月23日告示、2月9日投開票)に、
前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(67)が無所属で立候補する意向を固めた。
28日の市民団体の集会で出馬表明する。
次点だった前回2012年に続く挑戦で、
特定秘密保護法制定など安倍政権の姿勢を批判しつつ、脱原発や格差是正を訴える。
五輪は無駄を省いて準備を進めるとしている。

宇都宮氏は、毎日新聞の取材に
「安倍政権の暴走を止め強権的な政策を改めさせたい。
 (出馬表明をあえて遅らせる)後出しジャンケンはせずに、一刻も早く有権者に政策を訴える。
 28日に(立候補を)言うことになる」と話した。


 おいおい、「安倍政権の暴走を止め強権的な政策を改めさせたい。」って・・・。一体この人物は「東京都知事」の役職と責務、出来ることと出来ないことを理解しているのだろうか?ついでに脱原発に関しても、現在、東京には原発なんて一つもないし、今後もまずもって東京都内に原発が作られることなんてありえないのだが、一体に何を考えてるのか。それから周りにいる人たちは、このような見当はずれな発言に対して何も言わないのでしょうか?

 これらの発言を受けて、私は思わずオルテガの『大衆の反逆』の一番最初の文章を思い出してしまいました。

 ヨーロッパ人の現在の社会生活のなかには、よかれあしかれ、なによりも重要な事実が一つある。その事実とは、大衆が社会的勢力の中枢に躍りでたことである。本来言葉の意味からいって、大衆はみずからの生存を管理するべきではないし、また、そんなことはできない。まして、社会を支配するなどは問題外である。だから、右の(先の)事実は、民族、国家、文化が忍びうるかぎりの深刻な危機に、ヨーロッパが現にさらされていることを意味する。しかし、この危機は、歴史の中で一度ならず生じたのである。その特徴と結果は、わかっている。その名もまた、知られている。それは、大衆の反逆と呼ばれる。

 それまでは、言論あるいは、選挙権という形で専門的な分野に影響を及ぼしてきた大衆が、とうとう被選挙権を行使し直接的にその影響力を行使しようとしてきたのか、あるいはもはやエリートなどというものは、この国から綺麗さっぱりいなくなり、残った大衆人が、この本来エリートが立つべき地位に就こうと企てているのか・・・。

 それにしても、仮にも人口1300万人の都市の知事に立候補しようというのであれば、最低でも都知事にはどんな権限が与えられていて、何が出来て、何が出来ないのか?くらいは勉強しておくべきではないのでしょうか。それとも、政治に関する一切の専門知識を有せずとも、都政の運営くらい簡単に出来ると思えるくらいにこの国における政治の地位は転落しているのでしょうか?

 オルテガは、大衆の代表として専門人を挙げていますが、この宇都宮健児もまさに弁護士という法律の問題に関する専門人です(そういえば、西の方にも弁護士兼おバカタレント出身の首長がいたような・・・)。それから、おそらくは、この宇都宮健児の主張している政治的発言もおおよそ弁護士会の間で共有する一種のイデオロギーなのでしょう、法律の専門家で政治にはまったく無知であり、その上、特定の政治団体ないの妙な政治的左翼的イデオロギーに凝り固まった人物が、今後、オリンピックやあるいは来るべき大地震への対策といった様々な難しい課題に現実的に対応していけるのは非常に疑問です。というよりも、オルテガに言わせれば、「問題外」ということでしょう。

 宇都宮健児氏は、「秘密情報保護法が日本の民主主義を殺す」というようなことを述べているようですが、どうでしょう?私には、このような典型的な大衆人が社会的勢力の、もっと端的に言えば政治の世界の中枢に躍りでてくることそれ自体のほうが余程民主主義の機能停止なのではないかと思えてなりません。


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中世化する世界・・・

 先日、萱野稔人さんと共著『没落する文明』を書いた神里達博さんがある対談イベントの中で、「現在の世界はどんどん中世化していっている」ということを言っていました。なんだか、ひっかかるキーワードだなぁと思いながら、色々な情報を調べていくと、
「うーん確かに、世界は中世に逆戻りしているのかも・・・」
と思えるような情報に突き当たってきて、最近ますます、この「世界の中世化」というキーワードが気になっている次第であります。

 今回の議論は、特に私の中でまとまった考えがあるわけでもなく、ほとんど思いつきのような発想なので、そのように理解した上で読み流してもらえれば幸いです。

 私は、先日ASREADで『アベノミクスで所得が増えない理由とは』という記事(http://asread.info/archives/338)を寄稿し、現在の日本では、企業の業績が上がっても労働者の賃金が極めて上昇しにくい状況にあるということを解説しました。特に、日本は大企業の力が強く、新規のベンチャーが育ちにくいというビジネス環境であり、株価や大企業の業績が上がりやすい一方で、労働者の賃金が上がらないということは所得の不平等化を招き格差の拡大や固定化を招くのではないかと懸念しています。

 また、川端祐一郎さんは、ASREADの『「技術的失業」について ー テクノロジー崇拝が資本主義を不安定化する?』(http://asread.info/archives/189)という論考にて、

機械化やIT化が「熟練」の価値を希薄化し、資本家(や経営者)が労働者との長期的関係を必要としなくなって、しかも資本家のパワーが相対的に強まるのだとすれば、テクノロジーも資本主義の金融化、流動化そして不安定化と無関係ではないと言えるでしょう。

と述べていますが、ここからも労働者の価値や地位が低下する一方で、資本家のパワーが相対的に向上する可能性について言及しています。有産階級である資本家と、無産階級である労働者の地位の格差が拡大する様子は中世の封建制、農奴制社会をなんとなく連想させないでしょうか?

 また、1300年以降の経済成長率の伸びを見てみた場合、経済成長は1750年以前は事実上なく、過去250年の急速な技術進歩は、人類史上特異なエピソードだったのです。そして、その後の成長は20世紀半ばぶ成長率のピークに達し、以降、減速し、現在もさらに減少し続けています。このままの状況でいた場合、今後の世界の経済成長は極めてゼロに近い水準に近づくことが予測されます。

 また、中野剛志さんは『日本防衛論』の中で戦後の経済の発展段階を3つの区分に分けてそれぞれ解説していますが、

1950〜1972年

(イノベーションと生産性の向上)
19世紀の後半の第二次産業革命の発明が普及し、1972年までに生産性の向上に大きく寄与。1960年代から第三次産業革命の開始。

(世界経済の実質成長率)
4.8%

(企業システム)
旧経済ビジネス・モデル

(国際経済体制)
ブレトン・ウッズ体制

(国際政治体制)
アメリカの覇権

1980〜2009年

(イノベーションと生産性の向上)
第三次産業革命の発明(ICT)による生産性の向上は、1996〜2004年の8年で消滅。その後のICTの技術進歩は、娯楽と通信だけ。

(世界経済の実質成長率)
3.2%

(企業システム)
新経済ビジネス・モデル

(国際経済体制)
ワシントン・コンセンサス体制

(国際政治体制)
G7→G20

2010〜

(イノベーションと生産性の向上)
第四次産業革命は起きず?イノベーションによる生産性の向上なし?

(世界経済の実質成長率)
ゼロ成長?

(企業システム)
新経済ビジネス・モデル?

(国際経済体制)
グローバル化の終焉?

(国際政治体制)
Gゼロ?


ここで注目すべきは、なんといっても2010〜以降の世界の体制でしょう。中野剛志さんは技術的なイノベーションが発生しないゼロ成長時代の到来を予言しているワケです。(ちなみに、中野剛志さんは、過去に共著として『成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン』という本を出しいていますが、やはりこれはこのようなゼロ成長時代の到来を見越して出版されたのでしょうか?)

 技術的なイノベーションが発生せず、経済は成長しない、そして有産階級のパワーが強くなりながら、階級が固定化する・・・これらの予測がかなり現実的になっていることを考えれば、「現代の世界が中世化している」という仮説も一定の説得力を持つように思えます。

 多くの人は、このような仮説に触れて、「まさか、そんなことにはならないだろう」と感じるかもしれませんが、現実に日本は過去10年以上に渡ってGDPは成長していないわけです。そもそも、日本の平等社会、あるいは1億総中流時代などと呼ばれていた時代もそもそも失業率が2%未満という現在からは考えられないような低水準にあった高度成長期やバブル期のほんの一瞬であり、考えようによっては、あのような極端に恵まれた時代こそ幻想に過ぎなかったのかもしれません。

 もちろん、気分の良くなる予測ではありませんが、それでもこのような格差は拡大し、一部の資本家のみが裕福になる一方で、その他のほとんどの人々が貧困化し、階層は固定化し、生まれた時からほとんど事実上社会の階層を駆け上がっていくのが不可能な世界が到来するかもしれない、どころか、このまま何の有効な手立ても打てなければそのような世界が到来する確率が非常に高いという現実は皆が覚悟するべきではないでしょうか?あまりに悲観的かもしれませんが、少なくとも今後の世界がたどりうる低位シナリオとしてそのような未来は想定しておくべきであると私には思えます。


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2014年01月04日

安倍首相の靖国参拝について・・・そのD〜特攻隊と日本人としての精神性〜

 前回、前々回と紹介した川端さんの靖国問題に関する記事(『「国家の輪郭」としての靖国神社 − 首相の靖国参拝に求められる「論理」について』http://asread.info/archives/332)で、特攻隊に関しても触れられていました。

 ここで、少し参考になると思うので「特攻隊」に触れておきたいと思います。
 靖国神社は『英霊の言之葉』という、戦没兵士の遺書や遺詠をまとめた冊子を発行しています。私は19歳か20歳ぐらいの頃に、当時刊行されていたものには一通り目を通しましたが、どうしても「特攻」で死んだ兵隊の遺書には特別な重みを感じてしまいます。
 特攻で死んだ兵隊が、たとえば満州で戦病死した兵隊よりも偉いかというと、単純にそうは言えないでしょう。ではなぜ特攻隊はこれほどまでに強い印象を我々に与えるのでしょうか?
 ここで私は、靖国神社が「国家の輪郭」をその二面性の境界において鋭く表現しているように、特攻隊というものは、「国家を形成して生きる動物」としての人間を引き裂くさまざまな「葛藤」を、その境界において最も鮮やかに象徴する存在なのではないかと思うのです。
 たとえば、特攻隊が「志願」によって組織されたのか「強制」によって組織されたのかは、二者択一的に解釈できるものではありません。人間の精神はもっと複雑にできていて、自発性と強制性はそう簡単に区別できないのです。「あれは志願制とは言っていたけど、実質的には強制だった」とよく言われますが、「単純に強制することもできたはずなのに、一応は志願制という建前を取らなければならなかった」という点に重みがあるとも言えるわけです。特攻という出来事が特筆に値するのは、そこに「個人の自由意思」と「国家による強制」の葛藤が最も激しい形で顕れ、衝突して火花を散らしながらも、最後には一つの決意として昇華されたからではないでしょうか。
 また、特攻隊は「非合理的」な精神主義の産物だったと思われていますが、考えてみれば、人間が操縦して敵艦に爆弾を当てるというのは、当時の手持ちの兵器の範囲内でいえば極めて「合理的」な発想であったと言うこともできます。特攻は、「精神主義」と「合理主義」の衝突を鮮やかに描き出す出来事でもあったのです。
 さらに言うと、特攻機に乗って出撃したパイロットは「人間」的であると同時に「機械」のようでもあるし、「勇敢な決意」とともに「センチメンタルな感情」を書き残してもいるし、「私的」な感情としては死にたいわけがないのに「公的」な使命に身を捧げて死んで行った人たちなのでした。
 「特攻」とは、人間精神が持つこうした「二面性」が、最も過酷な形で顕れた瞬間だったのであり、だからこそ我々はいつまで経っても、特攻隊のことが気になって仕方がないのだと思います。


 私は、この川端さんの文章を読んだ時に、ふと政治学者の佐藤誠三郎さんの次のような文章を思い出しました。

 個人として当時の政府の戦争政策にいかに反対であろうと、いったん戦争が始まったら、「国民としての義務の限り」では戦争に協力するというのは、まさに健全なナショナリズムではないか・・・。ある国の国民であるということは、その国と運命をともにするということであり、したがって政府のやったことに否応なく連帯責任を負わざるをえないということを意味するのである。それは政策決定がどの程度民主的であったかどうかとは、とりあえず関係ない。・・・
 私はもし10年自分が早く生まれ、学徒出陣という事態に直面したら、どのような選択をしたであろうかと考えることがある。臆病な私のことだから、喜び勇んで出陣することはなかったであろう。しかし仮に出陣を避ける方法があったとしても、それを利用して兵役を免れることには強いためらいを感じ、最終的には出陣したに違いない。そして特攻隊のような、きわめて危険な任務に応募するようにいわれたならば、第一番に応ずることはないにせよ、三番目ぐらいには志願したに違いない。・・・そして私はこのような態度が、官僚的国家主義に毒された間違ったナショナリズムとは考えない


 私的な感情として、戦争に反対であったり、学徒出陣という事態に直面し、喜び勇んで出陣する気にはなれなかったりしながら、また公的使命として、一定の強制性として国民として国家と運命を共にし、連帯責任を負い、特攻隊のような危険な任務にも三番目くらいには志願する。もちろん、特攻隊の人々は様々な想いを抱いてその任にあたったのでしょうが、やはり現実には多くの人は、保守の人々が絶賛するように、国家のためには命も惜しまぬ完全な高潔の士として死んでいったのでも、左翼の人々が批判するように、国家の強制により死にたくないと思っている人々を無理やり特攻隊の任務につかせたのでもなく、このように様々な葛藤に苦しみながら最終的な決断にたどり着いたのでしょう。

 そして、同時に、この公的使命と、私的感情は、簡単に二分出来るものではなく、思想史学者の河原宏先生が、特攻隊の任務に就く前に終戦を迎えてしまったことに対し、「死に場所を失った」と述べ、また三島由紀夫が、健康上の理由で兵役に就かず、終戦後には、自分の仲間たちの多くが戦争で数多く亡くなったにも関わらず、戦後の日本社会の中でのうのうと生きていたこと自分自身に対し、死ぬまで負い目をもって生きていたということを考えると、やはり高潔の士として生き、あるいは死ぬという非常に公的使命であるように思える理想主義的な志向もまた個人の私的な感情に内包されている、あるいは少なくとも内包されうるのだと考えて構わないでしょう。

 私が、最近このブログでも頻繁に述べているテンプレ保守の問題点の一つは、やはりテンプレ化し陳腐化した考えでは、このような複雑に入り組んだ人間の精神性等を上手く解釈したり、描いたりすることがほとんど不可能であるということです。

 私自身としては、特攻隊に関して、明治の開国以降、どんどん西洋の思想や学問や精神性が流入し、どんどん日本人としての精神性、使命感、高潔な理想といったものが失われていく中で、最後の最後、日本人が日本人として生きて死んでいくのだと決意した人たちの絶望的なあがきのようなものだったのではないかと思っています。

 福沢諭吉は、敵に対して勝算がない場合でも、力の限り抵抗することが痩我慢であり、これこそが武士の気風なのだと述べ、そして小林よしのりは特攻隊とは究極の痩せ我慢であると称しましたが、やはりこの特攻隊の行動は、日本人の精神性の究極的な発露であったと言えるでしょう。

 内村鑑三は『代表的日本人』の中で、このように書いています。

 これをみても、私どもの国が四方を海や大陸で囲まれて、世界から隔離され閉じ込められていたことは、摂理の賜物であったとわかります。定められた時に先立ち、貪欲な連中がたびたびわが国に侵入をたくらみましたが、日本は頑固に開国を拒みつづけました。それはまったく自己防衛の本能からでた行為でありました。世界との交流が生じたとき、世界に呑みこまれて、私どもが、真に自分のものといえるような特徴を持たない、無形の存在にされないため、わが国民性が十分に形成される必要があったのであります。

 続けて内村鑑三は、明治維新を称して「二つの明らかに異なる文明を代表する二つの民族が、たがいに立派な交際に入る、世界史上の一大転機」と述べていますが、現実には、西洋の世界との交流の中で、日本のその独特の文化や精神風土を急速に失っていきました。

このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである

 三島由紀夫はこのように述べていますが、やはり、現実には内村鑑三の思惑とはうらはらに、明治の開国以降の歴史は、西洋との交わりとともに、日本と日本人の国民性、文化、精神風土が急速に失われていった歴史なのではないかと思います。

 現在、保守の論客の中には、最近の若者の中から、「しっかりした国家観や国家の歴史性をしっかりと意識するような若者が出てきている!!」というようなことを述べる人もいて、一面ではそのような意見に同意するものの、私の中で、そのような「われこそ愛国者なり!!」と自称する若者たちをイマイチ信用しきれない理由があって、それは、やはり、若い頃から英語が大事だのなんだの言われ、腹が減れば近くのマックでハンバーガーをぱくつき、西洋的なマニュアル化された体系的なカリキュラムの中で学問を学び、大学では、アメリカ流の経営学部や経済学部でビジネス手法や経済の考えを学んでいるような人間、つまり手段の次元においてありとあらゆる西洋的な手法を用いておきながら、一方で、日本人としての誇りや精神性を語る若者、さらに言えば、そのような矛盾に対して極めて無自覚で鈍感な感性しか持たない若者に対して、「一体何を期待しうるのか?」という疑問が浮かばずにはいられないからなのであります。


ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『安倍首相の靖国参拝に反対する理由』http://asread.info/archives/329




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2014年01月03日

ASREADの靖国問題に関する記事を藤井聡さんに推薦していただきました!!

 川端さんがASREADに寄稿した記事(『「国家の輪郭」としての靖国神社 − 首相の靖国参拝に求められる「論理」について』http://asread.info/archives/332)を、FBで藤井聡さんに紹介していただきました!!藤井先生いつもありがとうございますヾ(*´ー`*)ノ゛





 今回の靖国参拝の問題に関してアレコレとネット上で情報を集めてみましたが、率直に言って、今回の問題に関して私がネット上で見た中で最も優れた論考であると思います。
「複雑な問題に対して過度に単純化された紋切り型の論評を行うのではなく、問題の複雑性をしっかりと把握し認識した上で、その複雑な問題をできる限り分かり易くなるように論点を整理しながら解きほぐしていく」
と、まあ、口で言うのは簡単なんですけど、実際にそれを行うのは簡単ではないわけでありますが、この川端さんの論考は、今回の靖国問題に関して、それをかなり高いレベルで実践できているのではないかなと思います。

 しかし、藤井先生(※ Asreadの記事は、ホントにいずれも素晴らしいものです!是非、引き続きご覧になってみて下さい!)という一言を付け加えてくれているのも本当にありがたいですヾ(´ー`* )ノ


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2014年01月02日

安倍首相の靖国参拝について・・・そのC〜テンプレ保守の問題点について〜

 ASREAD執筆者の川端祐一郎さんが、今回の靖国問題に関して非常に面白い論考を行っていましたので、今回は、この記事(『「国家の輪郭」としての靖国神社 − 首相の靖国参拝に求められる「論理」について』http://asread.info/archives/332)の内容をもとにして、靖国問題についてあれこれ考えてみたいと思います。

 こちらの論考では、まず初めに、今回の安倍首相の靖国参拝について、賛成派、反対派のどちらの新聞の論説や言論人も共に、ほとんどお決まりの紋切り型の批評しか出来ていないということについて説明しています。

 批判の代表例としては、靖国神社の存在そのものを忌み嫌う朝日新聞が「戦前の靖国神社は、亡くなった軍人らを『神』としてまつる国家神道の中心だった。(中略)その存在は一宗教法人というにとどまらない。あの歴史を正当化する政治性を帯びた神社であることは明らかだ((社説)首相と靖国神社 独りよがりの不毛な参拝:朝日新聞デジタル)」と書き、経済が大事だから外国と揉めるのはやめてくれと叫ぶ日経新聞が「いまの日本は経済再生が最重要課題だ。(中略)アベノミクスでも掲げた『アジアの成長力を取り込む』という方針に自ら逆行するのか。経済界には首相への失望の声がある」(靖国参拝がもたらす無用なあつれき :日本経済新聞)と書いているのを挙げておけば良いでしょうか。

 産経新聞が首相の参拝を高く評価するのもお決まりのパターンで、要点をまとめると、

国のために戦死した人の霊に哀悼の意をささげるのは、ごく普通の自然な行為であり、世界各国の指導者に共通する責務である。
国や故郷を守るために戦った兵士たちが祀られる靖国神社を参拝することは、国を守る観点からも、首相の責務である。
靖国神社で戦没者の霊に祈りをささげるのは、日本の伝統文化であり心のあり方であって、外国から文句を言われる筋合いはないし、軍国主義とも関係はない。
かつては天皇や首相などの公式参拝がごく普通に行われていた。中国が文句を言うようになったのは80年代以降で、彼らの批判は後付けに過ぎず、単なる外交カードである。
靖国神社には、旧連合国や日本の旧植民地をはじめ、外国の要人も多数参拝してきた。リットン調査団やGHQからも参拝者があった。この歴史を見れば、靖国神社が日本における戦没者慰霊の中心施設であることは間違いない。
アメリカのアーリントン国立墓地には、南北戦争における南軍の将校も埋葬されているが、この墓地にアメリカの大統領や日本の首相がお参りしたからと言って「奴隷制度を肯定するのか」となじる者はいない。
 といったところです


 政治問題について興味をもって書籍やネットで色々な情報を収集しているような人たちにとっては、おおよそ耳にタコが出来るような内容でしょう。靖国参拝の反対派がいつも通りのお決まりの批判を行うのはある意味で当然かもしれないですが、賛成派が、「なぜこの時期に参拝したのか?」という問題についてほとんど触れていない点については少々気になりました。反対は、「いつ参拝しようがダメなものはダメだ!!」ということなのでしょうが、賛成派からは、なぜ8月15日でも、例大祭でもなく12月の26日に参拝したのか?それは、正しいことなのか、それともある種の妥協であったのか?等の考察がもう少し含まれても良いのではないかと感じました(まあ、もっとも賛成派からしても「いつ参拝しようが良いものは良いのだ!!」程度の考えしかなかったのかもしれませんが)。

 川端さんは、基本的に靖国参拝は重要であるとしながらも、靖国参拝賛成派の人々が、「内政に干渉するな」というような形式的な論理によって反対派の人々の意見に対して反論を行っていることについて批判を行っています。

 その反論の根拠は、大きく分けると二つあります。一つには、どれだけ、靖国参拝が政治問題とは切り離された問題であるとか、外国が靖国参拝に口出しするのは内政干渉だといくら言ってみたところで、現実にすでに靖国問題が外交問題化して30年以上経っている以上、それをなかったことにはできないという問題です。

 元外交官で京都産業大学の東郷和彦教授がインタビューに答えて、「自前の歴史認識を作る代わりに、日本は中国製の歴史認識を受け入れたと言われても仕方のない行動をとりました。(中略)国際社会では反論しなければ受け入れたとみなされます。A級戦犯は国際的に日本軍国主義の象徴とされてしまった以上、反論するにはよほどの覚悟が必要です」と指摘していましたが、その通りだと思います[*1]。
 寛容さというものは微妙なコミュニケーションの積み重ねの上に成り立つものなので、いったん問題化してしまったら単に「忘れましょう」といって解決できるわけではない。現実問題として、1980年代以降「靖国参拝」は完全に外交問題化しており、外交問題としての歴史がすでに30年もあるのです。時計の針を戻すことはできないのですから、「内政に干渉するな」の一言で片付けることはできないはずです。先にも述べましたが、たとえば大東亜戦争の「大義」を堂々と主張できる状況にないのであれば、まずその状況の改善が先でしょう。


 それから、もうひとつの理由は、このような形式的な反論によっては「なぜ戦争では一般市民もたくさん殺されるのに、兵士ばかりを祀った神社を特別視しなければならないのか」という問題について回答できないという点です。特に、このような反論では、なぜ他の追悼施設ではなく靖国神社でなければならないのか?というようなその他の積極的な問いについても一切答えられません。

 私はある種の流行化し、陳腐化したお決まりの保守言論を、恥ずかしげもなく繰り返してる人たちのことをテンプレ保守と呼んでますが、ここにおいてこのテンプレ保守の問題点が明白に浮かび上がってきているのではないかと思います。

 まず、第一の問題点としては、定型化された形式的なロジックては、国際情勢等を含めた様々な要因が複雑に絡み合った困難な状況における問題を現実に解決していくことができないということが挙げられます(この問題に関しては、こちらの記事『『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』(著 マリー=フランス イルゴイエンヌ 訳 高野 優)を読んで・・・そのA』 http://achichiachi.seesaa.net/article/384097562.html でも触れていますので、参照していただければと思います)。

 そして、もう一つは、あまりに形式化された表面的なロジックからは、複雑で奥の深い思想的、哲学的な問いについての解答を得られないという問題があります。「我々は国家の歴史と伝統を重視するのだ!!」と自負する保守派の論客が靖国神社という国体や人間の奥深い精神性に密接に関わりあった問題に関して、「外国が文句を言うのは内政干渉だから!!」とか「靖国問題は、政治問題とは切り離されてるから!!」などという形式的な問題のみに終始しているというのはあまりにも悲しい現状であると言えるのではないでしょうか?

 この論考では、後半で、国家や人間の精神の持つ矛盾や葛藤を、国家の持つ二面性と呼び様々に論じた後に最後にこのようにまとめています。

 そしてもし、こういう二面性を捉えるだけの思想の力や言論の環境を日本人がまだ持ち得ていないのだとすれば、焦って靖国神社に参拝してもあまり意味はないでしょう。参拝するしないで揉める前に、まず靖国神社に参拝するということの意味を深く考えることから始めるべきです。

 「形から入る」などという言葉があるように、私は、必ずしも、このような二面性を捉えるだけの能力を持たなければ靖国参拝をしてもあまり意味がないとまで言うつもりはないのですが、それでも出来れば、保守を目指す人の多くがあまり流行の形式的な教義にとらわれることなしに、しっかりと複雑な問題について正面から向き合えるだけの知性と精神性を備えられれば、これほど素晴らしいことはないと思っていますし、このブログやASREADが、そのような真の保守を目指す人のために、ほんの少しでも手助けになれれば願っています。

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