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2013年12月08日

なぜ私はグローバリズムに反対するのか?

 前回の記事(『グローバル化の本質』http://achichiachi.seesaa.net/article/382186776.html)で面白いコメントを頂いたので、今回はそのコメントについての私なりの考えを書いてみたいと思います。

あまりグローバル化を敵視するのも、極端な話ではないでしょうか。

たしかに、デフレにある今、グローバル化が進めば、世間には失業者が溢れるでしょう。
国内需要が無いのにも関わらずグローバル化により生産性が向上すれば、当然失業者を吸収できませんから。

ですが、日本がインフレ期にあればどうでしょう?
インフレのときは貨幣量>生産量ですから、国内の生産量が足りていません。
グローバル化により生産量が増加することは、国内の消費者にとっても良いことでは?
グローバル化により駆逐された労働者も、生産量が足りないために、すぐに他の業種に転職できるでしょう。

グローバル化の功罪を見極め、状況に合わせて導入していくことを主張します。


 それほど長いコメントではなかったので全文掲載させていただきました。私としても基本的にこのような意見には賛成ではあるのですが、しかし、それでも私は現在の日本のおかれている状況においてはやはり保護主義的、あるいは場合によっては(ソフトなカタチでの)鎖国主義的な政策に舵を切ることが望ましいと考えます。

 理由は、いくつかあるのですが、まず一つにはやはりグローバリズムがもたらす文化的、精神的な悪影響があります。確かに、経済学のセオリーでは、生産能力が不足し国内の需要をカバーしきれない場合や、価格が高騰している状況においては、輸入を増やすために関税を引き下げることが望ましいとされています。ただし、現在の日本は資源さえ海外から輸入することができれば、ほとんどあらゆる製品を自前で作り出すことができる能力を持っていますので、エネルギー資源や食料、あるいは兵器等限られた分野を除けば、供給力不足に陥り、高インフレで国民の生活が苦しくなるという状況が今後の近い将来に発生する可能性はさほど高くはありません。一方で、中国等、海外からの安い輸入品が大量に入ってくることによるデフレの悪化の危機は常に発生しており、少なくとも今後数年〜十数年単位で見るならば、大災害等の特別な自体を除けば、高インフレを心配し関税を出来るだけ下げておこうという考えるより、むしろデフレ脱却や国内産業の保護を考えるべきでしょう。

 まあ、現実はこのような状況ではあるのですが、もし仮に日本がインフレであったとしても安易なグローバル化路線はあまり望ましい政策の方針ではないように思えます。前回の記事で詳しく説明したように、過度なグローバル化は、それぞれの国家や地域の文化的社会的風土を破壊し、同時の個人の精神や生活にも深刻な悪影響を与える危険性があります。今現在、日本が高インフレになり、どのようにして国内の需要をカバーするのかという問題が喫緊の課題となることは考えにくいですが、仮に、高インフレになったとしても、グローバリズ可路線の加速はグローバリズムの持つ文化的政治的危険性が持つリスクやデメリットと、輸入によって国内の供給力を増加させることのメリットを慎重に見極めた上でなされるべきであると考えます。

 それから、もう一つは、現在、日本国内において、政治、学問、言論の世界において、あまりにもアンチグローバリゼーション的な言論や運動が見られないことも挙げられます。多数派ではないものの、現在世界中で決して少なくない数の優れた研究者やジャーナリストがグローバル化に対して警鐘を鳴らしているにも関わらず、日本ではあまりにもそういった種類の言論が少なすぎるという問題もあるのです。

 現に、安倍首相の提唱する大胆な金融緩和、機動的な財政出動、成長戦略の3本の矢を中心的な戦略に据えたアベノミクスという経済政策に関しての議論では、特に1本目の矢である金融緩和を重要視する論客の多くは、現在のようにグローバル化が進んだ社会では財政出動を行っても、国内にばら蒔いた金が海外に流出する可能性が高いのでさほど有効な効果は期待できないというように、完全にグローバル化やグローバリズムを前提とした議論をおこなっているのです(ただし、このような理屈を言うのであれば、とうぜん金融緩和で市中銀行に貸したお金はグローバル化した現在の世界の状況では海外の投資家のもとへと流れてしまうかもしれないから金融緩和はさほど有効ではないと全く同様のロジックで金融緩和の有効性を否定できることになるのですが、その点については金融緩和至上主義の人たちはどのように考えているのでしょうか)。つまり、彼ら、というよりも、ほとんど全ての日本の知識人、言論人たちは、グローバリズムの流れに抵抗しよう、場合によっては逆行しようなどという選択肢が頭の中の選択肢からスッポリと抜け落ちてしまっているのです。

 このような日本の言論状況を考えるのであれば、アンチグローバリズムを唱える論者に関しては、一見多少極端な主張に見える程度の過激な主張をすることは許されるのではないでしょうか、「本当は、保護主義的な政策に舵を切るのが望ましい可能性がありますが、現在のグローバルな政治状況を考えると、それは非常に困難であり、まずはグローバリズムの加速を食い止めることを目的とすべきでしょう。」などと言えば、確かにそれは正しい主張である上に、比較的一般にも受け入れられやすい意見であるかもしれませんが、一方で、このような主張や表現からは、ややもすると保護主義的な政策の重要性が感じ取りにくいという可能性も存在します。

 それから最後に、
>グローバル化により駆逐された労働者も、生産量が足りないために、すぐに他の業種に転職できるでしょう。
という意見に関しては、私はあまり同意する気にはなれません。もちろん、デフレで失業率が高い状況で、一気にグローバル化を勧めているような状況と比較するなら、ずっとそのダメージは小さいとは思いますが。インフレで供給能力が足りないというような状況では、もしかすると、非効率な分野の労働者が甘い蜜を吸って効率性を犠牲にしているから、そのような既得権をなんらかのカタチで解体する必要性が発生する可能性はなくはないですが、そのような状況においてですら、あまりにも急激な改革やショック療法的な経済政策は、やはり労働者個人の人生や共同体の絆を破壊させたり、特定の分野の技術や暗黙知の警鐘を困難にする可能性があります。そういった事に注意を向けるのであれば、できれば、ある特定の既得権益を持った団体を解体するにしても、海外からの輸出攻勢を利用して一気に解体してやろうというようなやり方よりも、一定の政府の管理や保護、あるいは規制のもとに慎重に進められるべきでしょう。そのような慎重なやり方を取った上で部分的に、海外からの輸出攻勢を許容あるいは、そういったものを利用する必要があるのであれば、それは状況に応じて用いるべきでしょう。

 もちろん、グロバール経済を重視するのか、国民経済を重視するのかという選択は、状況に応じて慎重に判断されるべきであるというコメントをくれた方の意見には同意します。しかし、以上のような理由により、少なくとも現在のような経済、政治、言論の状況においては、やはりできる限りアンチグローバリゼーション的な、そして保護主義的な政策への転換を目指すのが望ましいのではないかと私は考えます。


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グローバル化の本質

 前回の記事(『『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』(著 マリー=フランス イルゴイエンヌ 訳 高野 優)を読んで・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/382132673.html)で紹介した本『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』で、現在の世界のグローバル化という現象に関して非常に面白く興味深い記述があったので、紹介してみたいと思います。

 グローバル化が進むこの時代、企業はどこからどこまでそっくりなクローン社員、あるいは取り替え可能な知的ロボット社員を求めているのである。自分たちの属するグループを均質化するために、人々は性格であれ、性別であれ、人種であれ、異質なものを排除して、打ち砕いていく。そういった性向は企業も変わらない。だいたい、同じ型の社員であれば管理もしやすい。そうして社員が企業の思うとおりに動けば、生産性が高まり、収益があがると考えるのである。(P54)

 このグローバル化が進むにつれて、個人がどんどん定型的になり均質化してくるという現象は、まさに中野剛志さんが『官僚の反逆』で指摘した通りですが、ほかにも、かつての共同体的な労働形態が崩れ、会社員の世界でも個人主義が当たり前なってきているという指摘や、新しい経営管理の手法では個人を分断しバラバラにマネジメントするという指摘があり、グローバル化が進んでいく中でフランスも日本と非常に似た現象あるいは問題が発生していることがうかがえます。

 それでは一体、なぜグローバル化は、人間の均質化を招き、共同的な組織を崩壊させ、個人主義を招き人間をバラバラな個人に分断するのでしょうか?

 その理由は、一つにはやはりグローバル化という現象の中で、世界中どの国でも通用する言語、あるいは価値基準というものが必要になることが挙げられるでしょう。戦前のブロック経済の後、戦後のグローバル化(当時はインターナショナル化)は初めに、共産主義による労働者間のイデオロギーの共有から始まりました。もっともこのイデオロギーも各国の様々な風土や土着的な宗教性や思想性というものを極力排除した唯物論的なイデオロギーでした。

 その後、そのある時点で、この労働者によるインターナショナル化という現象から、企業人によるグローバライゼーションへの移行という現象が発生しました。この現象以降、共産主義革命という理念以上により普遍的活客観的な価値観、言語が世界の共通言語となりました。それは一つには金銭至上主義的な価値観であり、そしてもう一つがマネーというこの上なく定量的かつ価値中立的な言語、記号です。

 つまり、グローバルなコミュニケーションを、各国特有の思想風土や価値観に阻害されないためには、これらの価値観を全く排除した客観的で、定量的で、価値中立的なマネーという記号を世界共通の言語とする必要があったのです。

 ジャーナリストの東谷暁さんは、様々な著書で、どれだけ経済学者が世の中をおかしくしていったのかということについて解説していますが、そもそもなぜ、経済学という現実の社会に当てはめるのはあまりにも欠陥の多い学問が、こうも現実の社会や政治に対して多大な影響力を及ぼしたのかといえば、経済学の持つ客観性、各国や各地域の特殊性を極端に排除し、完全に合理的な個人、それもただひたすらに金銭的な便益を追求するという一点において完全に合理的な個人というものを想定した経済学という学問が、現実の世界がそこに移行しつつあった金銭至上主義的な価値観や、マネーのみを唯一意味ある世界共通の言語と可そうとするグローバル化した世界の価値観と非常に親和的だったからでしょう。

 このグローバル化という現象が世界の経済に様々な悪影響を及ぼしているということについては、三橋貴明さんや、柴山桂太さん、中野剛志さん等が散々に指摘していることではありますが、また同時に世界のグローバル化は人々の心理的な側面や社会的な側面に関しても、非常に深刻な悪影響をもたらしつつあります。

 それは、社会や国家の持つ、固有の文化や精神風土を極端に軽視し、社会の共同体を崩壊させ、人々をバラバラな個人の群れと貸します。同時に、藤井聡さんが指摘するように、価値という要素を完全に排除した金銭を唯一の価値とする価値体系は、人々の人生から急速に意味や価値を奪い一直線い人々をニヒリズムへと誘います。

 これらの現象は、かの三島由紀夫が徹底的に憎んだ近代民主主義のもたらした現象と非常に似た側面がありますが、そういった意味ではグローバル化は、(柴山桂太さんが指摘するように、世界はグローバル化と国民経済化の現象を往復しつつ循環しているという現象を抜きにして考えるならば)ある意味で、近代や、及び近代民主主義のもたらした、ある意味における必然の現象であり、また同時にそれを完成化させるものなのではないでしょうか。

ASREADさんでも金銭至上主義的な価値観について解説しています!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『金銭至上主義的な思考に落ち込みやすい現代社会』http://asread.info/archives/212




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