何か新しいことをやろう、何か他人の知らないことをいおう、という気持ちから脱け切っていなかった三十歳代の半ばまで、私は、精神的に老けていた。疲労もしていたし退屈もしていた。そういう状態に堪えかねて、未来をプロスペクト(展望)するためにも過去をリトロスぺクト(回顧)しようと私は決心した。どういう未来展望の下に過去回顧をやるかが大事だといってみても、いかなる展望の「仕方」がよいのかは、回顧がなければわかりようがないと思い定めた。そうしてみると、我ながら驚きもし嬉しくもあったのは、生まれてはじめて、私の気持ちが生きいきしはじめたことである。(中略)
過去よりも現在が良いはずで、また現在よりも未来が良いはずで、そうでないとしたら、そうなるのを妨げている悪い奴がどこかにいるはずだ、という進歩主義の独断は人の精神を萎えさせる。というのも、タイムマシンで未来に向かい、そこでより良い見解を入手してくるわけにはいかないので、この自分をどう考えても大して取り柄のないこの自分を、相対的にいって最良の審判者に仕立てるのが進歩主義だからだ。自分を最良と思えというのは無理な相談で、無理をやりつづけると人は早めに老いるのである。試みに御覧じられよ、巷を徘徊する進歩主義の若者たちはすでに疲労困憊しているし、マスメディアに浮遊する進歩主義者の熟年者たちもとうに死相を漂わせているではないか、時代の吸引力から逃れることはできないのだが、せめてそこに吸い込まれる人の群れの後尾につきたいものだ。(P247)
そもそも論を言ってしまうと、私たちの使っている言語も、それらの言語の用法も全て過去から受け継いできたものであり、仮に過去の先人たちの思考のフレームワークを借用すること自体を悪とみなすのであれば、それはもはや保守主義とは全く隔たったものであり、究極的には一からオリジナルの言語及び言語体系を組み立てなければならないというところにまで行き着くでしょう、そして、当然そのようなオリジナルの言語は理解できる他者が存在せず、そのオリジナルの言語を開発したと悦に浸る当の本人は、ただただキチガイのように意味不明な言葉を撒き散らす存在になるだろうと予測できます。
それから、進歩主義の最前線にいる人間は疲労困憊に陥るであろうという意見に関しては、『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』という本を書いた木暮 太一氏が、ある対談で面白い意見を述べています。この方は、自分の経験が蓄積されていくような生き方、仕事の仕方をしようと提案しているのですが、これから働き出す人はどのような業種を選ぶのが良いと思いますか?という質問に対し、自分の技能や経験を蓄積させていきたいと考えるなら、流行の最先端をいく業種より、むしろ昔からある場合によっては斜陽産業と言われるような産業を選ぶのが良いだろうと答えています。
なぜか?理由は簡単で、最先端の産業は技術革新が激しく、昨日まで重要であった技術や知識が明日には、新しい技術革新によって用無しになるなんてことが、容易に起こりうるからであり、そこでの経験や知識は、あまり役に立たなくなる可能性が高いからです。一方で、古い産業や、段々と市場規模が縮小していっているような産業では、逆にそれほど急速な技術革新は起きにくく、そこで得た経験や知識はその後も長い間活かされ続ける可能性が高いからです。さらに、優秀な人材もどちらかといえば、最先端の産業に集中することが多く、自分の能力が一定であれば、相対的に古い産業で活動したほうが優位になれる可能性が高いとも述べています。
つまり、最先端の産業においては、多くの人々は次々に起こる技術革新に振り回されボロ雑巾のように引きずり回されながら生きることが多く、さらに人間の入れ替わりも激しい上に、業界の将来の動向も不確定な要素が強いので、不安も大きく、将来の人生設計も立てにくいという問題も発生します。ITバブルの発生〜ITバブル崩壊までの短期間のうちに、非常に将来が有望視されていた数多くの企業が無残にも倒産していった姿を見ればそれは明らかでしょう。
もちろん、そのような不確定性の中にあえてチャンスを見出し、そこに向かって思い切って挑戦していくというのも悪くはないのですが、一方で、「巷を徘徊する進歩主義の若者たち」のように疲労困憊させられたり、「マスメディアに浮遊する進歩主義者の熟年者たち」のように死相を漂わせて生きるのが嫌だと思うならば、時代の吸引力から少しばかり距離を置き、あえて「そこに吸い込まれる人の群れの後尾に」つこうと考え、そのように行動するのもまた一つの賢明な選択なのではないかと思います。
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