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2013年12月31日

オリジナリティーなんざクソ喰らえという考え方・・・

 前回の記事(『安倍首相の靖国神社参拝について・・・そのB』http://achichiachi.seesaa.net/article/383949124.html)では、果たして、個人のオリジナリティーというものにどれだけの価値が存在するのか?という問題について取り上げましたが、この問題について西部邁さんが『国民の道徳』にて、非常に示唆に富んだ文章を残しているので、少し紹介してみたいと思います。

 何か新しいことをやろう、何か他人の知らないことをいおう、という気持ちから脱け切っていなかった三十歳代の半ばまで、私は、精神的に老けていた。疲労もしていたし退屈もしていた。そういう状態に堪えかねて、未来をプロスペクト(展望)するためにも過去をリトロスぺクト(回顧)しようと私は決心した。どういう未来展望の下に過去回顧をやるかが大事だといってみても、いかなる展望の「仕方」がよいのかは、回顧がなければわかりようがないと思い定めた。そうしてみると、我ながら驚きもし嬉しくもあったのは、生まれてはじめて、私の気持ちが生きいきしはじめたことである。(中略)
 過去よりも現在が良いはずで、また現在よりも未来が良いはずで、そうでないとしたら、そうなるのを妨げている悪い奴がどこかにいるはずだ、という進歩主義の独断は人の精神を萎えさせる。というのも、タイムマシンで未来に向かい、そこでより良い見解を入手してくるわけにはいかないので、この自分をどう考えても大して取り柄のないこの自分を、相対的にいって最良の審判者に仕立てるのが進歩主義だからだ。自分を最良と思えというのは無理な相談で、無理をやりつづけると人は早めに老いるのである。試みに御覧じられよ、巷を徘徊する進歩主義の若者たちはすでに疲労困憊しているし、マスメディアに浮遊する進歩主義者の熟年者たちもとうに死相を漂わせているではないか、時代の吸引力から逃れることはできないのだが、せめてそこに吸い込まれる人の群れの後尾につきたいものだ。(P247)


 そもそも論を言ってしまうと、私たちの使っている言語も、それらの言語の用法も全て過去から受け継いできたものであり、仮に過去の先人たちの思考のフレームワークを借用すること自体を悪とみなすのであれば、それはもはや保守主義とは全く隔たったものであり、究極的には一からオリジナルの言語及び言語体系を組み立てなければならないというところにまで行き着くでしょう、そして、当然そのようなオリジナルの言語は理解できる他者が存在せず、そのオリジナルの言語を開発したと悦に浸る当の本人は、ただただキチガイのように意味不明な言葉を撒き散らす存在になるだろうと予測できます。

 それから、進歩主義の最前線にいる人間は疲労困憊に陥るであろうという意見に関しては、『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』という本を書いた木暮 太一氏が、ある対談で面白い意見を述べています。この方は、自分の経験が蓄積されていくような生き方、仕事の仕方をしようと提案しているのですが、これから働き出す人はどのような業種を選ぶのが良いと思いますか?という質問に対し、自分の技能や経験を蓄積させていきたいと考えるなら、流行の最先端をいく業種より、むしろ昔からある場合によっては斜陽産業と言われるような産業を選ぶのが良いだろうと答えています。

 なぜか?理由は簡単で、最先端の産業は技術革新が激しく、昨日まで重要であった技術や知識が明日には、新しい技術革新によって用無しになるなんてことが、容易に起こりうるからであり、そこでの経験や知識は、あまり役に立たなくなる可能性が高いからです。一方で、古い産業や、段々と市場規模が縮小していっているような産業では、逆にそれほど急速な技術革新は起きにくく、そこで得た経験や知識はその後も長い間活かされ続ける可能性が高いからです。さらに、優秀な人材もどちらかといえば、最先端の産業に集中することが多く、自分の能力が一定であれば、相対的に古い産業で活動したほうが優位になれる可能性が高いとも述べています。

 つまり、最先端の産業においては、多くの人々は次々に起こる技術革新に振り回されボロ雑巾のように引きずり回されながら生きることが多く、さらに人間の入れ替わりも激しい上に、業界の将来の動向も不確定な要素が強いので、不安も大きく、将来の人生設計も立てにくいという問題も発生します。ITバブルの発生〜ITバブル崩壊までの短期間のうちに、非常に将来が有望視されていた数多くの企業が無残にも倒産していった姿を見ればそれは明らかでしょう。

 もちろん、そのような不確定性の中にあえてチャンスを見出し、そこに向かって思い切って挑戦していくというのも悪くはないのですが、一方で、「巷を徘徊する進歩主義の若者たち」のように疲労困憊させられたり、「マスメディアに浮遊する進歩主義者の熟年者たち」のように死相を漂わせて生きるのが嫌だと思うならば、時代の吸引力から少しばかり距離を置き、あえて「そこに吸い込まれる人の群れの後尾に」つこうと考え、そのように行動するのもまた一つの賢明な選択なのではないかと思います。


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2013年12月30日

安倍首相の靖国神社参拝について・・・そのB

 前回、紹介した某氏が、まだツイッターの方でゴチャゴチャ言っていたので、今回も少し取り上げてみようかと思います。

残念ながらかなんだか、エントリを読んだけど反論になってないんだよね(笑 まぁ、Twitterだから仕方がないのかもしれないけど。いや、噛み合う反論すらこない予想したから私はつぶやいたのかもしれないけどね(笑笑 とりあえず、西部師匠のこの言葉をRTしてみよう。

独り言の呟きだから、それを理解してもらおうとか反論の内容を事細かに説明しようという気にはなれない、っていうか、面倒くさい(笑 し、暇も無い(笑


 とりあえず、俺が何年かツイッターをやってきた経験則として、いい年をしてやたら草を生やしたり(笑)を多用する人間にろくな人物はいなかったから、前回紹介した文章に引き続き、この全く品のない文章を見てみて、まあおおよそこの人物の人間性が推測できるだろうということはさておいて、内容について云々してみようかと思います。

西部師匠が生きている中で自ら良い形の円を描こうと少しでも近づこうと(なれないだろうけれども)、四角形を六角形に八角形に十六角形にしながら日々努力してるのに、己は誰かの思考や理論のフレームを借用するとはどんだけ情けねーんだよっ、ってこと。

 まず、第一に指摘しておきたいのは、わざわざアカウントを紹介することはしないんですけど、この人は、全部反論を他の人物のRTと他者の引用でやっていて、「中野さんだか東田さんの威を借りてるのかなんだか知らんが」と批判しているにもかかわらず、全ての反論を他者の引用でしかやれていないんですね。なんというかほとんど自虐的な皮肉をかましているのか、ただ単純に精神分裂症なのかどちらかなんじゃないだろうか?と疑ってしまうわけです。それでいて、そこそこの年齢に達しているにもかかわらず全体的な文章の表現のレベルが、2ちゃんねるを始めたばかりの中学生レベルであることを考えると、やはりおそらく後者つまり精神分裂病なんじゃないかと少なくともここまでの文章を見る限りそう思えるわけです。そうなると、やはり最初に行った、まともに論評するに値しないような、少々頭か精神のどちらか、もしくは両方が病んでらっしゃる方なのだろうなという推測が相当な妥当性を得るわけで、この時点で、もう終了にしてもいいのかな?と、またもや結論したくなるのではありますけど、まあまあ、もう少し続けていきましょう。

 先程、西部さんの言葉として引用した決して実現し得ない良い円の例ですが、西部さんは、この理想的な円に関して、それを至高の価値、至高の理想の喩えとして用いています。それをこの人は、オリジナルな表現に見立てている。もはや、その時点で、俺からすると、むしろあなたこそ、この言葉の解釈が間違っているのではないですか?と言いたいのです。保守の人間にとって、実現すべき至高の価値とは、良き伝統との連続性における価値を体現することであって、どう考えても、このような至高の価値の地位に、「誰も思いつかなかった自分のオリジナリティー」なんて陳腐なものをおこう、このオリジナリティーを至高の価値と看做そうなどと考えている時点で、もはやそれは保守どころか、むしろ悪しき進歩史観の典型のような考えではないかとそう思うわけです。

 現実に、ほとんどあらゆる優れた論考には山のような参考文献が存在しており、おおよそ、その内容は、過去の論考との連続性を保たない限り実現できないものがほとんどであって、その連続性の延長上にある僅かな発展性を除けば、おおよそ、その過去の優れた論考を如何に新しい状況に適応させるかという問題こそが本来その人の独自性となるわけです。そこから切り離されたオリジナリティーなどというものが、どれだけ陳腐なものに成り下がるかは、不勉強なタレント言論人等のお軽い言説を見れば明らかでしょう。

 まあ、色々とツッコミどころ満載の反論で、特に

「西部師匠が生きている中で自ら良い形の円を描こうと少しでも近づこうと(なれないだろうけれども)、四角形を六角形に八角形に十六角形にしながら日々努力してるのに、己は誰かの思考や理論のフレームを借用するとはどんだけ情けねーんだよっ、ってこと。」

と言いながら、他者の引用のみを用いて反論した気になっている思考回路などは、もはや、ほとんど自虐性満載の高度なギャグか、精神分裂病患者の精神が混乱して、めちゃくちゃな言動になってしまっているとしか思えず、さらに、言えば、その当の西部さんに対して、よく言われる批判のうちの一つが「西洋の知識人の言葉ばかりを参照し引用ばかりしている西洋思想かぶれだ」というものであることを考えると、ますます、ここで西部さんの言葉を持ち出すのは不適切だったのではないか?とも思えてくるのですが、その辺りの整合性をこの方はどのように考えているのでしょうか?出来れば、全く論理矛盾しためちゃくちゃな反論を並べ立てる前に、その問題について(もしそんなことが可能であるとすれば)教えてもらればありがたいです。


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2013年12月27日

安倍首相の靖国神社参拝について・・・そのA

 前回のエントリー(『安倍首相の靖国神社参拝について』http://achichiachi.seesaa.net/article/383632228.html)の記事について、とある方からツイッターの方でなかなか手厳しいコメントをいただきましたので、今回はそれについて少々反論をしてみようかと。

AKC包囲網の中、予想された反応を示すAKC連中のなかで、安倍ちゃんは頑張ってるでしょ。こんだけ厳しい状況のなかで参拝して「再び日本が危機に陥ったときは、我々も必ず立派に戦い抜き日本をこれからも守っていく」って言葉を求めるなんて、妄想もいい加減にしてもらいたいもんだね(笑

不戦の誓いを穿った見方しかできず、さも己も中野氏なんかと同じ知性を持ち合わせてるかのように、一国の首相を自己の脳内で理解できると信じこみ、安倍ちゃんはアベコベだーっ、とね(笑 おたくさんみたいな人間に本心を見られてしまうなんて、そりゃ一国の宰相なんて務まるわけないジャン(爆


 「再び日本が危機に陥ったときは、我々も必ず立派に戦い抜き日本をこれからも守っていく」という言葉に関しては、当たり前ですが、仮に首尾一貫した言動を取るのであれば、という仮定の上での非現実的な「べき論」であって、別に私が、現在の国際情勢の中で、本当にそんな言葉を言って欲しいと願っているわけではありません。

 「中国や韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない。英霊の冥福をお祈りし手を合わせることは、世界共通のリーダーの姿勢だ」という言葉に関しては妥当であるように思われますが、「不戦の誓い」という言葉に関しては、「不戦の誓い」をわざわざ靖国神社で行う必要は全く無いでしょう。それこそ原爆ドームかどこかで行えば良いような「不戦の誓い」をわざわざ靖国神社で行った事が適切ではないであろうという文脈の中で、「べき論」を述べたに過ぎないわけです(もっとも、参拝をしても米中は決まりきった紋切り型の抗議文を出す程度のことしか出来なかったことを考えると、先のような発言をしても大した問題にはならなかったような気もしますが)。

日本のおかれた現状や周辺諸国と親ビンの米帝に国内情勢、このようなことを認識し理解しても、「何かあったときは戦うよーん」なんて言えるの? 仮に安倍ちゃんがそう思ってたとしても、首相一人の自己満足のために国内外を一気に不安定化して、あっという間に安倍ちゃんみずから政権崩壊っとね(爆

 このような、意見についても私は相当に疑問に思います。そもそも、26日に靖国を参拝する必要など全くなかったということを考えると、この期に及んで、国内外の情勢に気遣いながら、「不戦の誓い」などとわけのわからない言葉を発してまで靖国参拝する必要は全くなかったでしょう。普通に考えれば、次の8月15日を待てば良いにもかかわらず、この時期に突然靖国参拝を行ったのであれば当然、「なんでこの時期に突然参拝したのか?」と疑問を持たれるのは当然であると思います。

 そこで、私はその理由を消費税増税と特定秘密保護法の問題による支持率の低下に焦って、自分の支持率を上げるために参拝したのだろうと、推測したわけです。

不戦の誓いを穿った見方しかできず、さも己も中野氏なんかと同じ知性を持ち合わせてるかのように、一国の首相を自己の脳内で理解できると信じこみ、安倍ちゃんはアベコベだーっ、とね(笑 おたくさんみたいな人間に本心を見られてしまうなんて、そりゃ一国の宰相なんて務まるわけないジャン(爆

 「おたくさんみたいな人間に本心を見られてしまうなんて」とありますが、別にこのような見方を行っているのは私だけではなく、評論家も同様の見方をしています

靖国参拝:中韓のパートナーより右翼を取る安倍首相

アジアの諸隣国との関係と右翼からの支持との二者択一で安倍氏は後者を取った形だ。
http://japanese.ruvr.ru/2013_12_26/126491767/


というよりも、実際問題これ以外の合理的な理由を探すのは難しいのではないでしょうか?それでも「安倍首相は立派な人物なのだから、もっと深いことを考えているはずだー!!」というのであれば、それはもう、ある種の保守系の人間が陥りやすい「安倍ちゃんのやってることは全部正しいんだ!!」という擁護と極めて似てきてしまうのではないでしょうか?

チミは、批判したいがために批判してるというか、己の言葉が中野・東田氏と同じになれば満足のかしらねぇ(笑 虚しくならないのかねぇ(笑笑

 ここのコメントについて反論させていただくと、現実問題自分のオリジナルの思考のフレームワークなどを形成できるのはほとんど一部の天才だけであって、ほとんどの人間は、せいぜい誰かの思考や理論のフレームを借用するか、「自分はどんな特定の教義にも囚われない自由な発想の持ち主なのだー!!」という妄想を抱くかのどちらかしか出来ないのではないでしょうか?であるならば、例えば、朝日新聞なら、どう論評するか、産経ならどうか?三橋さんならどうか?中野さんならどうか?池田信夫ならどうか?宮台真司ならどうか?と様々なパターンの認識を考えた上で、自分にとってもっともしっくりする解釈を採用する事が私は、それほど悪いことのようには思いません。

 最後に
中野さんだか東田さんの威を借りてるのかなんだか知らんが、その保守論に立って戦後保守だかなんだかをさも己の認識する保守が正当な保守だと妄想し、保守の矛盾だと氏の言葉を借りてバッサリしてるつもりなんだろうけど、私にはオタクさんこそが保守というものに一刀両断されてる気がするわ(爆
とありますが、仮に、私の意見や認識をばっさり一刀両断され、それまでの認識を根底的に変えてくれるような思考や発想を親切にもわざわざ提供してくれる方がいれば、むしろ私にとってそれほど喜ばしいことはないです(爆


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2013年12月26日

安倍首相の靖国神社参拝について・・・

 本日26日安倍首相が靖国神社に参拝しました。

安倍首相が靖国神社参拝…第1次内閣含め初

 安倍首相は26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。

 首相在任中の参拝は、第1次内閣を含めて初めてで、現職首相としては2006年8月15日の小泉首相以来7年4か月ぶりの参拝となる。首相は参拝後、戦争の惨禍を繰り返さないという「不戦の誓い」のために参拝したと記者団に語った。第2次内閣発足以来、首相は、外交問題化を避けるために参拝を自重してきたが、日中、日韓関係の改善が見通せないことから、政権発足から1年の26日、参拝に踏み切ったとみられる。中国、韓国が強く反発している。

 首相は午前11時30分過ぎ、同神社に到着。モーニング姿で本殿に昇り、参拝した。

 首相は参拝後、記者団に対し、「政権が発足して1年の安倍政権の歩みをご報告をし、二度と再び戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代を作るとの誓い、決意をお伝えするために、この日を選んだ」と述べた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131226-00000401-yom-pol


 うーん、色々な見方ができるかとは思いますが、正直、最初の感想としては「なんでこのタイミング?」と不思議に思いました。

 中には、国際情勢に配慮して比較的海外からの反発を招きにくい絶妙なタイミングであったという意見もありますが、私の目から見ると、なんというか、母親から「勉強をやりなさい!!」と言われ続けながらも、ずーっと遊んでいた子供が切羽詰ってどうしようもなくなって渋々宿題を始めたようなそんな印象です。

 では、切羽詰ってとはどういうことかといえば、やはり第一義には支持率が50%を切ったこと、そして、来年からの消費税増税による景気悪化によりさらに支持率が低下するであろうことが確実視されていると点が大きいと思います。長期政権を目指していた安倍首相にとって、やはりこの支持率が50%を切ったという事実は憂慮すべき状況であったでしょう。

 簡単に言えば、こういうことです。それまで、民主党の3年以上に渡る政治や経済の停滞状況から安倍政権に代わり、アベノミクスという経済政策によって高い支持率を得たことで、それまでのいわゆる安倍カラーなどと言われるよな一連の政策及び政策ポリシーを支持していた層の支持をある意味で軽視、もしくは切り捨ててでも政権を維持できるという自信があったからこそ、8月15日や例大祭の参拝は見送ったと、しかし、支持率低下という現実に直面して、なんとかかつての支持層を再び呼び戻す必要性に迫られた、そこで最適であったのがこの靖国参拝ということなのではないでしょうか。

 もちろん、これは非常にうがった見方ではありますが、実際に安倍首相が政治の師匠であると述べている小泉純一郎は、一方で政策的にはアメリカの主導のもと新自由主義的な政策を推し進めながら、もう一方で靖国参拝や拉致問題の解決に尽力するなど、現在の安倍政権と非常に似た政策を行ってました。特に靖国参拝も拉致問題も完全に解決しようという意思はほとんど見られず、一言で言えばいかにも中途半端な姿勢でこの問題と向き合っていたという点も非常に安倍首相の現在の状況と酷似していると思います。

 未だに、小泉純一郎氏を困難な情勢の中で勇気を持って靖国参拝を断行してくれた勇敢な首相だと評価する声もありますが、一方で、靖国神社を自身の支持率を引き上げるための政治的手段に貶めたということもまた事実でしょう。今回の安倍首相の参拝を私がそれほど評価しない理由の一つは、やはり安倍首相も小泉氏と同様に、靖国神社参拝を支持率回復のための手段に用いようという意図が見え隠れしているという点です。

 それから、もう一点
>記者団に対し、「政権が発足して1年の安倍政権の歩みをご報告をし、二度と再び戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代を作るとの誓い、決意をお伝えするために、この日を選んだ」と述べた。

というのも非常に気になりました。

 靖国神社に祀られている英霊達は、言うまでもなく、日本のために自ら武器を持って戦った人たちでしょう。これらの人たちに向かって「二度と再び戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代を作るとの誓い」をたてにいくというのは、一体、どのような了見なのでしょうか、普通に考えれば、このように国家のために立派に戦って死んでいった人たちに誓を立てるとするならば、それは「二度と再び戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代を作る」との誓ではなく、「再び日本が危機に陥ったときは、我々も必ず立派に戦い抜き日本をこれからも守っていく」と誓うのではないでしょうか?素直に解釈するならば、靖国神社に参拝に行ったにもかかわらず、この安倍首相の発言は、ほとんど英霊に対する否定の発言ではないでしょうか?その上、14年度予算案においては、実際には防衛費を増額しているワケです。

 一方で、靖国参拝という戦争と防衛費増額という戦争肯定のメッセージを発信しながら、もう一方で不戦の誓いという戦争否定のメッセージという矛盾したメッセージを同時発信しておいて、なんとも思わないこの姿勢。中野剛志さんは安倍首相の発言と行動と政策は全くあべこべだと述べていますが、このような明らかに矛盾しながらもその矛盾に全く無頓着であるというあまりにも鈍感な姿勢や感性が、今回の靖国参拝において非常に分かりやすいカタチで現れたのではないかと私は思います。

ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!『ネット時代における大衆社会批判』http://asread.info/archives/289




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2013年12月25日

14年度予算案一般会計の総額は過去最大の約95兆8800億円〜公共投資拡大は経済成長に寄与するのか?

 14年度予算案の予算案が24日閣議決定されたそうです。


安倍カラーで歳出膨らむ=野党、公共事業依存を批判−14年度予算案

 安倍晋三首相が自らの経済政策「アベノミクス」を推進するため編成した2014年度予算案が24日閣議決定された。来年4月の消費税率8%への引き上げを控え、景気腰折れを避けたい首相と、公共事業増を求める自民党からの歳出圧力。防衛費の増額など「安倍カラー」の強い政策を前面に出したことも重なり、一般会計の総額は過去最大の約95兆8800億円に膨れ上がった。

 「来年、多くの企業が賃金を上げて、全国津々浦々に景気の良い風が届くように努力したい」。首相は24日の自民党役員会でこう語り、予算案の早期成立を図り、経済再生に全力を挙げる考えを強調した。(中略)

 菅義偉官房長官は24日の記者会見で「政府・与党一体となって編成した良い予算だ」と胸を張ったが、「大盤振る舞い」の予算案となったことは否めない。民主党の海江田万里代表は同日の会見で、「経済的な波及効果が乏しいのは分かっているのに、相変わらず公共事業に頼っている」と語り、安倍政権を批判した。(2013/12/24-19:54)(時事ドットコム http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013122400878&g=pol


 この記事の最後に民主党の海江田万里が「経済的な波及効果が乏しいのは分かっているのに、相変わらず公共事業に頼っている」と語ったとありますが、果たして本当に、現在の経済状況において公共事業の経済効果は乏しいのでしょうか?

 このような問題に関して、インターネット動画のチャンネルAjer出演者である島倉原さんが、ASREADの記事において非常に興味深いデータを用いいてこの問題について解説しています。


図1は縦軸を名目経済成長率、横軸を名目政府支出(日本は公的企業分も含めた「名目公的支出」)伸び率(いずれも年換算)として、日本を含めた32ヵ国分の実績を赤い点で示したものです。

【図1:名目経済成長率と名目政府支出伸び率(いずれも年換算)の長期的な関係】

bank_of_japan1.jpg

この図からは、

「名目政府支出伸び率が高い国ほど、名目経済成長率も高い」

という関係が成り立っているのが、一目でわかります。
それどころか、「名目経済成長率は、名目政府支出伸び率にほぼ等しい」と言っても過言ではないくらい、両者の関係は密接です(「両者が長期的に等しい」という命題の統計的な精度は、何と94%にも達しています)。


図2は、日本におけるいくつかのマクロ経済指標を、消費税増税や財政構造改革法など緊縮財政が本格的に始まった1997年(長期デフレが始まる前年でもあります)の数値を100として、その推移を指数化したものです。

【図2:日本の各種マクロ経済指標の推移】

macroeconomic1970_2010.jpg

こちらの図からは、

「時系列で見ても、名目GDPと名目公的支出がほぼ同じ推移をたどっている」

のに加えて、

「1990年代後半以降、金融政策の量的な指標であるマネタリーベースの動きは、名目GDPの動きと大きく乖離している(金融緩和と共に金利は低下しているが、経済成長にはつながっていない)」

という事実が確認できます。(積極財政論の出発点 ー 失われた20年の正体(序) http://asread.info/archives/182


図3の通り、経済単位としての独立性が高い「国別」ほどきれいな関係ではありませんが、「名目公的支出(公共投資以外の政府支出も含む)の伸びが高い都道府県ほど、名目経済成長率が高い」という関係が見て取れます(1個左に飛び出ているのは長崎県で、想像の域を出ませんが、同時期のハウステンボス開業のインパクトが存外あったのかもしれません)。

【図3:名目公的支出伸び率と名目GDP成長率の関係(都道府県別、1990⇒1996年)】

govemment_expenditure-630x442.jpg

(「人口減少説」はトンデモ説の典型 ー 失われた20年の正体(その5) http://asread.info/archives/259


 現在の経済学の基本的な考え方はプライマリーバランスを重視し、政府の収入と支出がおおよそ同額となる均衡財政を目標とするものであり、そうであれば、経済成長して税収が上がった状況では政府支出も拡大するので、政府支出が大きいから、経済成長するのではなく、経済成長するから財政移出が増えるのであって因果関係が逆なのでは?という疑問を抱く方もいるかもしれませんが、世界中の先進各国がこぞって巨額の財政赤字に苦しんでいるという現実を考えるなら、現在の世界各国がどこも均衡財政を基本としているというような状況とは言い難く、やはり財政支出を拡大すれば経済が成長すると読み取る方が自然でしょう。

 民主党の海江田万里は「経済的な波及効果が乏しいのは分かっているのに、相変わらず公共事業に頼っている」とはっきりと言い切っていますが、果たしてこのような政府支出と名目経済成長率との関係を示したデータを一度でも確認したことがあるのでしょうか?仮に、一度もこのようなデータを見ることもせずに公共事業は経済的な波及効果が乏しいと批判しているとするなら、それはあまりにも政治の場での議論に対して不誠実すぎるのではないかと思います(最も、仮に、このようなデータをしっかりと確認した上で、このような批判をするのであれば、それは意図的に嘘をついているということであり、もっと問題かもしれませんが・・・)。


藤井聡さんに、三橋貴明さんのメルマガでASREADに紹介していただきました!!どうもありがとうございます。゚(*゚´Д)ノ。゚ヽ(  )ノ゚。ヽ(Д`゚*)ノ゚。。゚ヽ(*゚´Д`゚)ノ゚。ゥェエエエエェェ⇒<藤井聡からのお知らせ> 乱れた言論・思想にうんざりの方は、こちらまで http://asread.info/archives/255
(【東田剛】東田剛の正体 http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/12/25/korekiyo-76/ …)



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2013年12月23日

私の保守主義観

 先日、今巷で話題(?)の山本みずきさんが、チャンネル桜のさくらじに登場していたので、それを見てみた感想を少し書いてみたいと思います。

 なんというか、まあある意味で予想通りというか、90分間ほど話を聞いてみてほとんど感心するような部分はなかったです。
「私は、日本が凄く素晴らしい国だと思います!!」
「私は、日本が大好きです!!」
「海外の学生たちと交流する中で、日本人は、海外と比べて国防に対する意識があまりにも希薄だと感じました!!」
いや、まあ、全部そのとおりだろうとは思うんですけど、なんというかハキハキと喋りながら耳当たりの良い言葉を吐いていって、心地よくはあるけれど、聞いたあとに何の印象も残らないようなそんな印象を受けました。

 話すことがほとんど予測出来てしまって意外性が全くないんですよね。私は、いわゆるよくある保守言論の言説を忠実になぞり、なんのオリジナリティーも独自性も出さない、というよりも出せないような種類の保守論客を、テンプレ保守と読んでいるのですが(中野剛志さんが言うところの「バカ保守」とほとんど同じだと思って構わないです)、ほとんどどこかで聞いたことのあるような話を非常に優等生的に喋っているなあという印象しか受けないわけです。

 藤井聡さんは、「ある特定の教義にしたがって、これと、これとこれの教えを説いていればそれでいいというような人間は言論人の名に値しない」と言っています。もちろん、まだ10代である山本みずきさんに、オリジナリティーを持った自分なりの考えを創造してそれを表現しろなどと言うのは酷であるかもしれませんが、それでも、今後言論活動を展開し、ゆくゆくは政治家を志すというのであれば、非常に硬直的な教条主義から発する「保守とはかくあるべし」「愛国者とはかくあるべし」などという言葉ばかりを云々するようなレベルでは問題なのではないでしょうか(もっとも、そんな問題のある人間は掃いて捨てるほど存在するわけではありますが・・・)。

 それから、古市憲寿を悪しき戦後教育の被害者であるかの如く扱っていたのも多少気になりました。戦後近代の教育の弊害といえば、一つには左翼的な歴史観、国家観もありますが、とうぜんもう一つ挙げるべきなのは官僚的なマニュアル主義でしょう。前者の問題では、確かに古市憲寿が戦後教育の被害者で、山本みずきさんが、悪しき戦後史観から脱却した新しい世代の人間と言えなくもないかもしれませんが、後者のマニュアル主義に関しては、まさにどっちもどっちというなのではないかと。ありていに言ってしまえば、悪しき戦後教育の生み出した左側の被害者が古市憲寿で、右側の被害者が山本みずきなのではないでしょうか。現に、BSフジのTV番組でディレクターか誰かが、分かりやすい若手論客として、左の古市、右の山本みずきといった感覚で呼んだことを考えれば、素朴な印象からいっても、どちらも似たもの同士であるということでしょう。

 それから、最後に、一つやはり印象に残ったのは、スノボーやら弁論部やら、動物サークルやら言論活動やらとあまりにもむやみに活動範囲を広げすぎなのではないかとも感じました。加藤諦三さんは『後悔をした今が、幸運のはじまり』という本の中で、学生時代に、がむしゃらに色々なことに頑張る青年に関して

 学生時代には、勉強はトップであり、運動も抜群などという人もたまにいる。彼は、何に対しても無我夢中で突進しているようである。それは勉強だけではなく、遊びにおいても同じである。パソコンや麻雀にも手を出す。人並に漫画も読む。友達も色んな友達と遊んでいる。しかし仲間は彼を親友と思っていない。

 今、彼は達成感がほしい。あれもこれもと手を出すのは面白いから手を出すのではない。心の乾きを癒すために手を出しているのである。だから安全なものでなければ手を出さない。

 そしてすぐに効果の出るものがほしいのである。今この場で効果の見えるものがほしい。こういう人はリスクを負いたくない。


というようなことを書いていますが、なんとなく、山本みずきさんの言論の良く言えば軽快さ、悪く言えば軽さの中に、ここで加藤諦三さんが書いている「彼」と共通する中身の空虚さを感じ取ってしまうような気がするというのは、私の勝手で一方的で、かつまりにもうがった見方による思い込みなのでしょうか?


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2013年12月22日

保守はなぜ古典を読むべきなのか?

 今回も、こちらのブログに書き込まれたコメントを参考にアレコレ考察してみたいと思います。

 ところで「大衆の反逆」の日本語訳のくだりとしてカツトシさんは
「文明といい文化といい、すべては変幻極まりない現実をなんとか安定させようという試みであり、その仕掛けであり、その結実である。だが大衆人はそれらをあたかも空気や水のように無償の恵とみなしてしまう。」
 という部分を取り上げていらっしゃいますが、これはそもそも文明、文化が自己破壊的な側面を持つことを暗に示しているのではないでしょうか。
 例えば石器時代や縄文時代のような、「変幻極まりない」厳しい環境にさらされていれば、今日明日の命をつないでいくことそのものに不安があるわけです。その状況を何とか安定させよう、衣食住に困らないようにしようと懸命に足掻き、試行錯誤した結果、農耕を始め、灌漑設備を作り、家を建て、強固な堤防を作り・・・ と進歩していき、現代に至っては今日明日の命を心配しなくても生きていけるようになりました。 ところが皮肉にもその努力の結果として安定された生活が約束されるようになったが故に「日常」が退屈なものとなり、 “大衆人”が発生し、自分の社会基盤、文明を支えている人たちを退屈しのぎとして叩くようになってしまう と。 縄文時代のようにそもそも“退屈”になる余裕がなければ大衆人など発生しないはずで、発生しても(市場原理を信奉する人の言葉を借りるなら)淘汰される運命にあります。


 左翼の唯物史観、進歩主義的な歴史観を否定する保守の人間の多くは、時代は先に進むほどに良いものになっていくという素朴な歴史観を異を唱え、より良き明日を実現するため、あるいはせめてこの世の中にある良き伝統、良き価値観を破壊から守り保守するためには不断の努力が不可欠であると信じます。

 しかし、それでも人間や社会は常に劣化を続け、あたかも一人の人間が成長し、肉体的にも精神的にも立派に成長しながらも、同時に疲労や身体的ダメージの蓄積や、あるいは老化によって段々と衰弱していくかのように、人間や社会は活力を失っていく必然性を内在しているように思えます(もっとも、この考えも行き過ぎれば、裏返しの唯物史観ともなりかねないために十分な注意が必要ではありますが)。

 つまり、私自身は過去の時代に生きた多くの人々は、「より良き明日を信じ、そして、そのより良き明日の実現を願い精一杯生きていたのだ」と信じますが、残念ながら、ほとんどの場合その期待は無残なほどに裏切られ、人も社会もどうしようもなく腐っていってしまうワケです。明治の時代を築き上げた幕末の志士たちや、祖国の誇りのためと思って死んでいった特攻隊の人々が、現在の日本の状況を見てどう思うのか?とひとたび想像してみれば、どれだけ否定したくとも、これは容易には否定できない事実でしょう(もっとも、特攻隊の人たちを軍国主義による哀れな時代の犠牲者であるとしか捉えることのできない、おそらくこれ以上に哀れな人間はいないのではないかと思われるようなある種の人々にとっては、あるいは容易に否定が可能であるかもしれませんが・・・)。また、同様に、おそらく、文明のどん詰まりの状況に生きているかに思われる現代の我々もまたより良き明日のために全力を尽くして生きたとて、おそらくその期待は裏切られるのでしょう。

 それでは、多くのより良き明日を信じて生きた過去の多くの先人たちの期待に応えたいと切に願いながらも、それは到底、容易には叶えられないと知る保守の人間に出来ることとは一体なんなのでしょうか?もちろん、一つには、それがどれほど困難であろうと、そのほとんど不可能に思えるような困難を実現しようを最大限の努力を行う必要があることは言うまでもありません。

 そして、もうひとつの取るべき行動として、やはり優れた古典の書物を読むという事が挙げられるのではないでしょうか?古典の知恵というものは、偉大であり、歴史の風雪に耐えた古典の知恵の中に、現代に通じる知のエッセンスとでも呼ぶべきものが随所に散りばめられているということは言うまでもありません。

 しかし、同時に古典の中には、先人たちの切なる想いもまた込められているのです。歴史や伝統を重視する保守の人間にとて、この先人たちの想いをできる限り汲み取ろうと努力するというのは、それだけで十分な価値を持つのではないでしょうか?もちろん、靖国神社に参拝することも重要ですし、歴史問題おいて、先人たちの名声を回復させようと努力することも重要でしょう。しかし、また先人たちが願った世界を実現することが非常に困難であるという現実を前にして、保守の人々は、せめて古典の優れた書物の中に、先人たちの想いや理想を可能な限り汲み取ろうと最大限の努力を行うという程度の知的な誠実性は要求されてしかるべきではないでしょうか?


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2013年12月21日

1万円札の隠された真実・・・

 今回も、当ブログに書き込まれたコメントを題材にアレコレ考察してみようかと思います。今回取り上げるのは、私の記事に対して好意的な評価をしてくれている方のコメントです。

 要はこういう事ではないでしょうか。カツトシさんや私(少なくとも私)は「我々の社会生活上必要なことをしてくれる人や、それを維持管理してくれる人に対して公的な支援をし、その人の生活を安定させることでひいては我々の社会基盤を維持するようにして何の問題があるのか。」と柔軟な思考を持っているのに対して、かの人は
“税金で仕事を回してもらう人間=悪、淘汰されて当然 であり、 絶対にそれは正しいのだ これを疑う事は許さない”と潜在的に思っているのではないでしょうか。


 一応、ここまでの議論を知らない方のために説明をすると、このブログではここ数日に渡って、ケインズ主義的な主張をする筆者、及び当ブログの読者と、市場原理を信奉する方とコメント欄で壮絶なバトルが繰り広げられておりました。そして、このコメント者は、市場原理主義的な主張をする方の考えがおかしいのではないかということでこのようなコメントを書いているのです。

 ここのコメントで、まず最初に指摘したいのは、このように「市場原理に則って稼ぐのは正義!!」「税金や、その他の既得権に乗っかって稼ぐのは悪!!」という考えを抱いている人というのは、非常に教条主義的であるということです。近いうちに、「市場原理主義は正しい正義で、共産主義や計画経済は間違った悪なのだ!!」という主張が論理的に間違っているという説明をしようと思っているのですが、今回はコメント投稿者の主張に沿ったカタチで、この考え方に批判を加えてみたいと思います。

 この方は、最後に
 もちろん、こんな人に「金を稼ぐと言っても、その通貨を創っているのは政府ではないか。『自分の力で稼いだ』ように見える人でも、結局政府依存ではないのか。」などという質問をしてもご乱心されるのが関の山でしょう。
と指摘しているのですが、これもまた本質を突いた議論であるように思えます。

 脳機能学者を自称する苫米地英人氏は、著作の中でたびたび「お金や資本主義の観念に自分の脳みそが支配されるのが嫌であるなら、まずアナタが持っているその1万円札を燃やしてみろ!!」と述べています(もちろん、私自身はそのアドバイスに従ったことは一度たりともありませんが・・・)。

 ここで、氏が主張している論点は明確で、実は皆が1万円の価値があると信じていう1万円札は、実際には福沢諭吉の顔が印刷されているただの紙切れに過ぎないということです。このただに紙切れに1万円札の価値を付与しているのは、当然その紙の材質やデザインの芸術性によるものではなく、単純に日本政府がその紙に1万円の価値があるということにして、その仮定に日本国民(及び全世界の人々)が合意をしているからに過ぎないのです。

 氏は、実際に1万円札を燃やしてみることで、「この1万円札には1万円の価値があるのだ」とほとんどの国民が素朴に信じている事実を揺るがし、この1万円札に付与されている1万円の価値は一種の壮大な仮定、あるいはフィクションに過ぎないのだということを確認し、金銭至上主義的な観念の呪縛から現代人を解き放ってくれるのだ!!と述べているのです(が、果たしてその因果関係は不明ではあります)。

 ともあれ、この議論で非常に重要な論点は、日本においては、政府が定めた1万円札には1万円の価値があるという仮定に対して、国民がなぜ合意しているのか?という点、そして、なぜ日本ではその1万円の価値が非常に安定的であり、ある時は1万円でスニーカーやジャケットが買えたのに、数日経つと、1万円ではうまい棒1本すら買うことが出来ないというような自体に陥る事がないのか?という問題です。

 一つには、それは極端な供給不足によるインフレを起こさせないだけの国家や企業の持つ生産能力であり、そしてもう一つ非常に重要な要素が安定的な政治的、社会的基盤が確保されているという点です。例えば、たびたび戦争を起こし、その度に生産設備が破壊され極端な物価変動が発生するような国家では、人々が皆安心して紙幣を信頼することはできませんし、突然なにかしらのトラブルによって突然政府が国民の財産を接収したりするような国家や、まともな生活インフラが整っておらず、一定以上の生活水準を望むものが次々に国外に脱出するような国家においてもやはり人々は安心して紙幣の価値を信頼することが出来ないのです。

 つまり、安定した貨幣経済において重要な要素は、一つには産業の安定であり、次に政治や社会の安定が不可欠なのです。つまり、これらの安定がなければ、貨幣経済そのものが成り立たなくなり、資本主義も、そして、市場原理主義者が愛してやまない市場それ自体も成立せず、これまた市場原理主義者が大好きなホリエモンやビルゲイツといった人々も存在し得ないワケです。

 それでは、そのような産業と社会と政治を安定させる役割をどのような人々が担っているのかといえば、第一に国民の税金によって生計を立てている政治家や官僚であり、さらには公的サービスに従事する全ての人々であるわけです(もちろん、そこからまたさらに辿っていけば究極的には全ての国民ということになりますが)。

 つまり、どれだけ、市場原理主義者が「税金で飯を食っているような連中はけしからん!!市場原理に則って稼いでいる人間こそが正義なのだ!!」と叫んでみたところで、所詮彼らは、その税金で飯を食っている連中が長い時間をかけて築き上げてきた産業的、社会的基盤の上に乗らない限り、そのような市場原理主義を勝ち抜くための能力を発揮できるフィールドすら与えられないわけです。

 このような問題に関して、19世紀のスペインの哲学者オルテガは『大衆の反逆』の中に非常に明快な指摘をしております。

 大衆的人間は、自分が利用している文明を、自然発生的であり、ひとりでに生じたものだと思っている。

 さらに、日本語訳の解説にはこのようにあります。

 文明といい文化といい、すべては変幻極まりない現実をなんとか安定させようという試みであり、その仕掛けであり、その結実である。だが大衆人はそれらをあたかも空気や水のように無償の恵とみなしてしまう。

 つまり、オルテガに言わせるならば、このように自らが、「過去の先人たちが築いてきた安定的な社会基盤、産業基盤に乗っかることで、初めてゲームに参加することが可能になるのだ」という自覚を欠いたままに、ひたすらふんぞり返っては、「俺が税金を払っているおかげで、お前らのような人間がなんとか暮らしていけるのだ!!」などと威張り散らしている連中こそが、最も典型的なエリート足り得ぬ大衆人の典型的な姿であるということでしょう。

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2013年12月20日

匿名ネットユーザーの愚劣さ・・・

 先日書いた記事(『チャンネル桜のTPP討論があまりにも酷かった事と、リスクを全く認識できない日本の政治家及び評論家の問題・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/383024625.html)に付けられたコメントがあまりにも酷かったので、今回もコメントの紹介&解説をしてみたいと思います。

中野のような天下り官僚貴族が経済統制すれば物価も資源も安定し失業もなくなって所得も上がって生産も経済規模も生活水準も向上し勤労意欲も上がって幸せになれるんですか。

すごいすごい。計画経済で良かったですねー(呆
Posted by 天下り犯罪中野剛志 at 2013年12月19日 14:47


もちろん、こんなコメント勝手に削除してしまえば済む話ではあるんですけどね┐(´-`)┌

 面白いのが、この記事中、中野剛志という言葉が一言も出てきていない点です。何の関係もない記事に対して「中野剛志は天下りの共産主義者の犯罪者だー!!」と絶叫している様子を見ると、この人が今やるべきことは政治や経済に対する議論などではなく、さっさと精神科にでも行って頭がおかしくなっていないかチェックし必要ならば治療やカウンセリングを受けることでしょう。ちなみに、過去数回に渡って延々「お前は共産主義者だー!!」というコメントを書き連ねていたのはこの方です・・・。

 ある風刺紙の標的とされ、大衆の笑いものにされた経験から『現代の批判』を書いたキルケゴールは、その著書の中で、大衆から不当なバッシングを受けた際に取るべき身の処し方に関してこのように述べています。

 このような関係にわが身をおいて考えてみる人は、おそらく、ひどい目に会った善良なほうの人に注意を向けて、あの人はひどく不幸せな目にあったものだ、と言いたくなることだろう。この見方には、わたしは全然賛成できない。というのは、最高のものに到達できるように手を貸してもらいたいと思う人にとっては、このような不幸に耐え抜くことこそ身のためになるのだと思うからである。

 まさに賢人の取るべき態度であると感心するものではありますが、このような身の処し方が果たして大衆化の行き着いた姿ともいえる現代のインターネット社会にもそのまま適用すべきかについては少々疑問に思えます。

 かつてインターネットの勃興期においては、インターネットが人々のリテラシーを高め、特にそのインターネットと既存のマスメディアの大きな違いの一つとしてその双方向性を挙げ(最も、本質的な意味においては非常に反応的であり、マスメディアが情報を送る対象である大衆の反応に非常に敏感に反応する装置であると私は考えていますが・・・)、その双方向性を生かしたネット空間での議論が人々のリテラシーを飛躍的に向上させ、社会全体の知性の向上につながりうるという非常に楽観的なネットユートピア論が存在しました。

 実際に、私もインターネットに触れ、そのツールとしてのポテンシャルの高さに驚き、これは人々の知性に非常に大きな影響を与えうるものであると素朴に信じもしました。しかし、現実はどうでしょう?

 以前、私はASREADの記事(『インターネットが招く現代の危機』http://asread.info/archives/18)にて、

現在、ブログやツイッター、フェイスブックといったツールの開発によって、誰でも気軽に情報が発信できるようになったものの、中には小賢しい知識と呼んで差し支えないような情報や理屈を並べ立てて偉そうにしている人々が少なからず存在します、おそらく皆さんもそういう種類の人をネット上で見かけたことがあるのではないでしょうか?

おそらくは、このような種類の人々こそ、情報技術の発達による情報の氾濫と、判断能力の衰退という二つの現象が生み出した犠牲者の最も典型的な姿なのだと思います。


と書きましたが、まさにインターネットという技術の進歩がもたらした帰結としては、社会全体のリテラシーの向上以上に、このように特定の考えや教義に囚われ情報に振り回される哀れなエセ知識人風一般人を増やすだけの結果に終わったように思えます(もっとも、今後どのように進んでいくかについては未だ未知数ではありますが)。さらに酷い例を挙げればインターネットマウント勢などという種類の人間も存在します。(不毛の連鎖! ネット上で優越感を奪い合う”マウント勢”とは? http://togech.jp/2013/12/16/4878

 ネット上で行われている議論の有効性についても私は非常に懐疑的です。佐伯啓思さんは、現代の日本の言論の状況について、「あちこちで皆が好き勝手ワーワー叫んでいるだけで、それらの個々の言論のあいだに何の対話もまとまりもない」というような趣旨のことを述べていますが、まさにネット上の言論や議論においても全く同様の現象を起こっているように思えます。

 例えば、ここのブログのコメント欄とのやり取りにおいても、こちらがどれだけ真面目に対応して一つ一つの議論に関して反応をしても、匿名でコメントする側は、こちらのレスポンスは全く関係なしに、論点をあちこちに飛ばしては、自分の言いたい主張だけを一方的にワーワー騒ぎたて、さらにそれでも旗色が悪くなってくれば、人格批判やただの罵詈雑言を繰り返すワケです。これでは、議論を通しての双方のリテラシーの向上など到底望めないでしょう。

 このような状況においてもなお、非常に楽観的なネットユートピア論を唱え、「ネットから社会を変えるのだ!!」などと叫んでいる人もいて、まあそれはそれで結構ではあるのですが、せめてこのような少なくとも現在の利用状況において、そのツールとしてのポテンシャルと比して、あまりにもお粗末でどうしようもない現状を直視し、その原因をしっかりと分析した上で、「そのツールを如何に有効に活用すべきか?」という議論を進めていって欲しいとイチネットユーザーとして切に願います。


ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『なぜ「嫉妬」が世の中をおかしくするのか?』http://asread.info/archives/250




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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 21:56 | 神奈川 ☁ | Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中野剛志さんのライバル東田剛さんがASREADをオススメサイトととして紹介してくれました!!

 三橋貴明さんのメルマガでお馴染みの東田剛さんがASREADをオススメサイトととして紹介してくれました!!⇒
<東田剛からのお知らせ> ●本当のお薦めは、このサイトです。 http://asread.info/archives/255

(【東田剛】嘘だらけの東田剛 http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/12/18/korekiyo-75/


 ASREADは現在大物言論人に執筆交渉中でして、今後ますます面白いメディアにしていけるようメンバー共々努力しておりますので、どうか皆さん応援よろしくお願いします_(。・ω・。)_<(。 _ω_ 。)>

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2013年12月19日

チャンネル桜のTPP討論があまりにも酷かった事と、リスクを全く認識できない日本の政治家及び評論家の問題・・・

 先日、チャンネル桜で賛成派も含めたカタチでTPPに関する討論(1/3【討論!】どうなる?どうする?TPP[桜H25/12/14]
 http://www.nicovideo.jp/watch/1386943880)を行っていました。おそらくはひどい内容になるであろうと思いながら見ましたが案の定恐ろしくひどい内容でしたが、逆説的に、どれだけTPP賛成派の人間の認識が甘いかという事が確認出来たという意味では良い討論だったかもしれません(もっとも、私個人としては2度と見たくないと思っていますが)。

 まず、TPPによってデフレが加速するかという問題。田中秀臣氏は、「TPPによってデフレが深刻化すると述べている論者はあまりにもナイーブに経済の教科書的な内容を捉えすぎである。TPPによって資源の効率的な分配がなされても、即座に生産性向上には直結せず、その意味ではデフレは深刻化しない。」という趣旨のことを述べていましたが、これは全く逆であり、むしろ「効率的な資源配分によってデフレがー」としか捉えられない氏の感性こそまさに経済学の教科書に脳内が汚染されていると言って良いでしょう(そういえば氏は原発反対派だったような気がしますが放射能の汚染を恐るよりはむしろ、経済学の教科書的な教えによる脳内汚染でも恐れるべきではないでしょうか?)。

 現実に、TPP反対派が考慮してるのは、むしろ資源の効率的な分配以上に、物価や給与水準が全く違う国から安い製品が輸出されることによる国内産業の打撃と、そこから派生する失業や給与水準の低下というデフレ効果であり、そもそも「自由貿易で供給能力が増加することにより資源の効率的な分配が発生してデフレがー」などとは考えていないわけです。むしろ、真に問題にしているのは資源の効率的な分配ではなく、物価水準が著しく異なった国からの大量の輸出なのです(もっとも、これをいうと「それは本来的な意味におけるデフレではないのだー」などと言い出すアホ経済学者が出てくるので非常に面倒なのですがf(´−`;))。

 それから、もう一つ非常に驚いたのは、TPP賛成派である3名の食料問題におけるリスク認識の甘さです。TPP反対派がTPP参加による国内の農業の受けるダメージや、食料自給率の低下、今後起こりうる食糧問題への対応について論じていた時の反対派の反論はまさに聞くに堪えないレベルの発言でした。田中氏は「日本が今後食料を海外から輸入できなくなる確率など、どこかの惑星が地球に落ちてくるのに等しい確率であり、そのなものを考慮に入れてもどうしようもない」と論じ、続いて民主党議員の金子洋一氏は、「日本が今後石油が輸入できるのに食料が輸入できなくなる状況など私には想定できない」と論じました。

 しかし、現在に現実の世界の食料事情はどうなっているかといえば、すでに「世界経済フォーラム」で毎年発表している『グローバル・リスク報告書』にて世界が直面しているリスクについて調査・分析を提示し、被害の大きさに関する上位5つのグローバル・リスクとして「水資源の不足」「食糧不足」「エネルギーと食料価格の極端な変動」等を挙げています。加えて、日本固有の問題として見れば、食料自給率の低下、農業の後継者の不足、島国であるがゆえに生じる地政学的なリスク等、様々な問題が存在します。

 さらに、TPP賛成派の中には、食糧不足が発生すれば食料価格が高騰しむしろ農業従事者にとっては有利になるなどと論じる者もいましたが、「エネルギーと食料価格の極端な変動」が被害の大きさに関する上位5つのグローバル・リスクのうちの一つとして挙げられていることを考えればあまりにも甘すぎる認識と言えます。

 さらに、賛成派の中には、「農業は関税ではなく、農業補助金によって救済すべきだ」と論じる者もいましたが、現在のように財政問題を重大なリスクとしてみなす不調が強い状況で、一体どこに、「たとえTPPで農業関税を撤廃しても必要なだけ補助金を出しても構わない」という世論が存在するのでしょうか?なにしろ、日本は1000年に一度の大震災の後に1年以上ろくに復興のための資金をださなかったような体たらくであります。このような状況において「関税を撤廃しても補助金で農業を保護できる、だからTPPで関税を撤廃すべきだ!!」などというのはあまりにも無責任極まるでしょう。

 さらに、付け加えるなら、TPPは高度な自由貿易を目指す貿易協定であり、その中には農業を含めた各種補助金の撤廃を迫られるような条項が盛り込まれる可能性もあります、そうなれば当然目論見通り補助金による農業保護は不可能になりますし、仮にそのような条項が盛り込まれないのであれば、他国も同様に補助金によって各国の国内の農業を保護するため、やはりこちらもTPP賛成派の輸出増加という目論見は叶わないこととなるでしょう。

 それにしても、田中秀臣氏のような一評論家ならばともかくとして、国会議員がこれほどリスクに関する認識が甘いという現状には驚かされました。中野剛志さんは『日本防衛論』の中で、現在の日本の抱える最大のリスクは、これらの様々なリスクを認識することすら出来ない日本人自身である、と論じていますが全くその通りであると改めて認識させられるような討論であったというのが私の感想です。

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2013年12月16日

市場原理主義は正しいのか?そのB

 えー、相変わらずコメント欄が賑わっているので、少し解説も兼ねて色々とコメント返しを行おうかと・・・

 もっとも、この記事に否定的な意見を書いている連中は、ほとんどこちらの意見をガン無視で好き勝手書いているだけであって、そもそも議論の価値もないものと判断していますが、まあ一応議論の材料程度にはなりうるかとも思うのでいくつか取り上げさせてもらうことにします。

いや、「格差がある」というのはそれ自体不公平でも不正義でもない。例えばエジソン・イチロー・ゲイツと、フリーター・単純労働者・行商人がいたとして、前者の所得が後者の100000倍だとしても、それを不正義だと喚く者は現代社会において少数派でしょう。おそらく、その格差批判は嫉妬の表明と受け止められるだろう!(エジソンやゲイツが底辺フリーターの10倍しか取り分を認められないなら、彼らは仕事を他国に移転するだろう。)

現代社会で格差や莫大な所得・富への批判があるとすれば、それは富裕であることそれ事態への批判ではなく、「如何にして富を得たか」という儲けの過程への批判なのだ。

この点、旧勢力としてあげられた官僚・土建屋・開業医・東電・政治家の「儲け方」の様態は、「税金を強制的に取り上げて、それを原資として高所得を得ている」と言えましょう。つまり、世間様に評価されて、物やサービスを自由で透明な市場で提供した対価ではなく、権力で毟り取る。これが彼ら旧勢力が軽蔑され憎悪される所以である。


 まず、第一に、ここで良いお金の儲け方の例としてイチローやビル・ゲイツを挙げ、反対に悪い儲け方の例として土建・医療・電気通信等の分野を挙げていますが、一言で言って、前者は仮に彼らが存在しなくとも国民生活にはほとんど何の悪影響も及ぼさないことを指摘しておきます(これは当のイチローがアメリカに渡っても日本人の生活になんら影響を及ぼさなかったという事実からも明らかでしょう)。優秀な野球プレイヤーが何人いたところで、国民の生活水準の向上にはほとんど何の影響も及ぼさない上に、ビルゲイツも別にパソコンやインターネットを独自に開発したわけでもなんでもなく、単にOSの権利を買い取ったり、IEをウィンドウズの標準ブラウザにしただけです。仮に権利収入をもってしてケタ外れの収入を得ることが悪であるとするなら、むしろビルゲイツこそ最も憎むべき悪であるというということになるでしょう。おまけに、ビルゲイツが金持ちになれているのも、インターネットの回線というインフラがしっかりしているということが前提であり、そもそもインフラを整備する業者の能力がしっかりしていなければ、そもそも現在のビルゲイツが誕生することもなかったわけです。

 一方で、土建屋の人間がどれも無能であったり、不道徳な輩である場合は、橋や道路は簡単に崩れ事故は多発し、医者が無能であれば医療事故も多発します。電力会社の人間が無能で、家庭や工業用の電気がしょっちゅう停電していれば、産業が成り立たないどころか、普通に快適な日常生活を送ることすら困難になるわけです。

 さらに、どうやらこれらの人々の主張によると、起業家を優遇しさまざまな再分配や労働の規制を撤廃し金持ちがどれだけでも好きなだけ儲けられるようにすべきだと主張をしているようですが、適切な労働規制や、安定的な収入が保証されなければ被雇用者のの多くは、勤労意欲が低下し頑張ってまともに仕事をしようという気を失くすという問題点がまったく認識されていません。

国による適切な規制がなく強者に弱者に対する裁量権をゆだねられすぎると、行き着く先は李氏朝鮮、支配層が被支配層から死なない程度を残して全て剥ぎ取るような社会になるでしょう。
そうすると人々は馬鹿らしくなって最小限しか働かなくなり、李氏朝鮮では国は荒れ果て技術は退行し、縫針も染物も水車も樽も車輪も、木を曲げる技術さえ500年間のうちに失われてしまいました。


 さらに、富裕層の海外移転を問題視しているようですが、これを問題視するならば、そのための解は本来全く逆になるはずであり、無秩序な労働力や資本の自由化こそが富裕層の海外移転を招いているわけであって、仮にそれを防ごうとするのであれば、必要なのは、むしろ逆に資本や労働力の移動に関する規制の強化でしょう。

ドイツとイギリスは規制緩和と減税と小さな政府化で大成功しましたね

大きな政府主義者が中傷しているサッチャー改革でさえ、社会主義時代と比して最貧困層の生活が改善されております。


 それから、最後にいわゆる小さな政府と規制緩和を中心とした新自由主義的な新経済ビジネスモデルが世界経済にどのような影響を及ぼしたのかについても解説します。

 1950〜1927年、関税率が高く、国家間の資本の移動等様々な規制がなされていたブレトン・ウッズ体制の旧経済モデル下では世界経済の実質成長率は4.8%でした。一方で、1980〜2009年小さな政府と規制緩和を基本とした新経済モデル下では、世界経済の実質成長率の実質成長率は3.2%に低下しています。さらに2009年以降は、世界同時不況からの痛手から脱却しきれていない上に、様々なシステミックな経済危機が予測されており少なくとも1980〜2009年までの状況よりも遥かに悪化するであろうことが予測されています。果たして、これだけの成長率の低下と様々な経済危機を引き起こした(と推測される)新経済体制の何を持って大成功と言っているのか私には全く謎です。

ASREADさんに記事寄稿しました!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『お金や異性以上の価値とは何か?』http://asread.info/archives/221




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2013年12月15日

「ニート株式会社」の形態及び、理念に対する批判・・・

 知り合いの古谷経衡さんがブロゴスで『「ニート株式会社」の気持ち悪さ』(http://blogos.com/article/75858/)という記事を書いていて面白かったので、今回は記事中から引用しつつ、私なりのこの「ニート株式会社」の問題点というか、まあぶっちゃけると気持ち悪いなと感じる点について解説してみたいと思います。

 先日、日本全国のニートからなる「NEET(ニート)株式会社」というモノが出来、12月10日に設立記者会見を開いたという。正直な処、第一印象でこのニート株式会社に感じるのは「気持ち悪さ」しかない。日本中のニート達が集まってその全員が取締役に就任した、ということらしい。搾取・被搾取の上下関係を造らないためだとか。(中略)

 ともあれ、このニート会社に感じる気持ち悪さというのは、同社の設立理念を謳ったこの部分。

「ぬるくて気だるい、成熟し閉塞した日本の社会を少しでも面白くしていくには、現状に違和感を抱きはみ出してしまったアブノーマルでマニアックな少数派が、新しいビジネスやワークスタイルを実験的に模索していくことが必要」(マイナビニュースより引用)

 彼らの言いたいことは分かる。しかし、彼らが最も勘違いしているのは、”成熟し閉塞した日本の社会”というのが自分たちの外側の、ここではない、どこか遠くに存在するもので、自分たちはその中に包摂されていない存在であるか、若しくはその”成熟し閉塞した日本の社会”の犠牲者こそが自分達である、という隠しきれないニュアンスが含まれていることだ。これこそがニート株式会社が抱える最大の矛盾であり自己欺瞞だ。

 何故なら、”成熟し閉塞した日本の社会”が産み出したものこそが彼らニートであり、”成熟し閉塞した日本の社会”の分身こそが彼らそのものだからである。成熟社会とか閉塞社会と、ニートは不可分ではない。彼らは戦後空間という日本のある種の成熟が産み落とした申し子そのものだからである。


 ここまでの意見に関してはほぼ100%同意である。おおよそ、現代におけるニートの存在というものは、
>現状に違和感を抱きはみ出してしまったアブノーマルでマニアックな少数派
ではなく、むしろある種の現代におけるニヒリズムの象徴的な一形態である。孤独な群衆つまり、バラバラに分断された個人の寄せ集めである社会集団において、仕事には社会参加にも意義を見いだせなくなって、社会参加から撤退した人間ではあっても、なお彼らは現代社会の病理を象徴する存在であって、吐き出されたどころか非常に強力にそこに埋め込まれている存在で有り続けています。無論、ビジネス社会の文化にどっぷり浸かっている人間にとってもそこからの脱却が極めて困難ではありますが、ニートに関して言えば、自立の手段を持ち得ないという意味では、ビジネス社会の文化にどっぷり浸かって「エイエイオー!!」とやっている人間以上に現代社会の抱えるある種の業から逃れ難く組み込まれていると言ってよいのではないでしょうか

 さらに言えば、彼らは現代社会の中に自分たちが深く組み込まれているということを意識すら出来ていないという時点で、まったくもって救いがたいように思えます。現代社会の抱える閉塞感や違和感から少しでも逃れたい、距離を置きたいと願う全ての人にとって、まず重要なことは、自分自身がその現代社会の持つ価値観やそこから生じる病理にどっぷりと骨の髄まで浸かりきっているのだという謙虚な自覚と、では、その価値観や病理がどのような構造を持っているのかということを冷静に見極めるだけの知性であると思います。その意味では、最初から自分たちは、何か現代社会の外からその閉塞した社会の違和感を眺めているなどと思っている彼らは、まずもって最初の段階でつまずいているように思えるのです。

<全員取締役>雇われたらニートではなくなってしまうので、雇用された従業員は一人もいない。

<全員平等>全員が平等に株主で、搾取する第三者はいない。

<本名を知らない>本名は知らせず、これまでの自分は忘れて、お互いにハンドルネームで呼び合う。

<楽しむ>すぐに儲(もう)かるか分からないことも、楽しければやる。あくまでニートらしく!


 最初の段階で、自分たちが現代社会の枠外に超越した存在であるかのようなナイーブすぎる錯覚を抱いているからこそ、それが抱える本質的な問題を一切考慮に入れることなく、ひたすら安直な発想でもって、近代の枠外に超越的に存在する価値を生み出せるような、なんとも言い難い傲慢な幻想を抱いているわけです。

 もっとも、その意味では、私は古谷さんが述べている

戦後レジュームの脱却を、戦後体制その物である自民党が声高に叫ぶのと同じかそれ以上に馬鹿げていて滑稽である。

という意見には必ずしも同意しません。例えば、「自民党の一極体制から新しい体制へと改革を行うのだ!!と息巻いていた民主党が、あれだけの惨状を見せたことからもわかるように、はっきり言って、現代の政党はどれを見たところで、自民であろうが、民主であろうが、みんなであろうが、維新であろうが、すべて戦後レジームの体制にどっぷり浸かり切り、その体制の枠内で僅かな差異を強調しては「私たちは、今までになかったこんなにユニークな政党であり、新しい政治体制を築き上げていくのです!!」と宣言しているに等しい存在です。

 そうであるならば、いっそのこと、自分たちが戦後レジームの中にどっぷりと浸かりこんでいるのだということを深く自覚した上でそれを乗り越えようとする政党の方が、まだしも多少は希望を持ちうるのではないかと私にはそのように思えます。

 そういった意味では、この文章の最後の

 彼らは、自らが成熟した戦後日本の病理の一部であり、そこと癒着していることを自覚するところから始められてはどうか。

という意見に関しては、ほとんど100%同意をします。

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2013年12月14日

『善悪の彼岸』(ニーチェ 著)を読んで

 すべての深い思想家は、誤解されることよりも理解されることを恐れる。誤解されることに苦しむのは、恐らく彼の虚栄心であろう。しかるに理解されることに悩むのは、彼の心情であり、彼の共感であって、この共感は常に言う、「ああ、何故に君たちも私と同じようにあれほど重苦しい思いをしたがるのか」と。
(『善悪の彼岸』ニーチェ 著 岩波新書 P347)


 最近、少しずつ思想や哲学の本を読むようになって、色々と考えるのですが、なにかこう、やはり哲学の知識と経済学の知識は種類自体が全然違うな、といった印象を受けます。私の主観的なイメージでは、経済学の知識は粘土の塊で、経済について勉強することはその粘土に手を加えていったり修正を加えていくことで、少しずつ現実の経済のカタチに近づけていくイメージであり、一方、哲学について勉強は、地下へと続く迷宮をどんどんより深い地中へと掘り進んでいくイメージです。

 一体、何が違うのかといえば、やはり経済学は(たとえ、それが不可能であるとしても)、現実の経済とピッタリと正確に認知するという終着点へ向かうという目標があるのに対し、哲学は、どこまで奥深く掘り下げられるのかがさっぱり分からず、どの方向にも掘り下げられるわりには、その方向に掘り下げることが果たして正解なのかも分からない、さらに言えば、正しい掘り下げ方が存在するのかすらよく分からない状態の中で、それでも黙々と掘り下げていかなければならない。そのような性質の違いがあります。

 おまけに、これだけ混沌としてる状況でありながら、何かもっと掘り下げたところに何か良いものが埋まっているのではないかという期待感を抱かずにいれらない魅力があり、それを真に望む者は、ほとんど強迫観念のようにそれを求め続けるであろうと思える程度の魅力を備えています。

 もっとも、このように何が正しいのかも分からないという不安の中で、ほとんど強迫観念のようにある行動を追求することに夢中になるというのは、もうほとんどノイローゼの一歩手前であって、まあ、日本の著名な文学者がことごとく自殺するのも無理がないなと最近は思えたりもします。

 また三島由紀夫は、優れた文学についてこのように述べています。

 文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。
(『若きサムライのための精神講話』)


 先に引用したニーチェの言葉や、この三島由紀夫の言葉を読めば、まあ、どうやら私はまだまだ深い思想に至っていないものだということが見て取れ、おそらくこの先にあるのは絶望か虚無ではなかろうか、という確信に近い予感を感じ取りながらも、それでも学習者の心の内にこの先にある深い真理を感得したいという思いを抱かせる程度の魅力が、思想や哲学という学問には備わっているようです。

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2013年12月13日

市場原理主義は正しいのか?そのA

 前回に引き続き、コメントで色々な意見が書き込まれていますので、それについて答えていきたいと思います。

 今回取り上げるのは、こちらの記事に対するコメント
『市場原理主義は正しいのか?』 http://achichiachi.seesaa.net/article/382530295.html

 私が批判しているのは、「国民を平等にしてやるのだ、正しい方向に"善導"してやるのだ」と称して規制や重税搾取を行い、官僚や政治家がとうてい平等でも公平でもない富を得、権力を集中させていることです。

新興ブルジョアジーが儲ける事を批判しながら、官僚・医者・土建屋・政治家・東電など旧勢力と庶民の格差・搾取関係はスルーしようと言うのなら、規制や再分配の推進論は、「民間勢力の金持ちが儲けることが気に入らない」という個人的な嫉妬の表明にすぎません。


能力によって格差が決まる市場原理主義のほうが、身分によって格差が決まる官僚社会主義よりマシでしょう。


 まあ、本来なら取り上げる価値すらないように思える全く見当はずれな批判ではあるのですが、あえて一言二言答えてみようと思いますil||li(* =д=)il||li

 まず、第一に日本は身分制度ではないということ、コメント者は旧勢力の代表として官僚・医者・土建屋・政治家・東電を挙げていますが、驚くべきことにこのうちのどれ一つとして特別な身分でなければなることの出来ない職業の人間がいないというのが面白いです。つまり、最初から的外れな批判。もし仮に、これらの人たちがそれほど羨ましいのであれば、普通に頑張って勉強して公務員試験に受かるなり、大学の医学部に入学するなりすればいいのではないでしょうか?

 それから、
>官僚や政治家がとうてい平等でも公平でもない富を得、権力を集中させていることです。
とありますが、すこし考えればわかるように、菅や野田のような元首相よりホリエモンやひろゆきの方がよほど金を持ってるでしょう。もちろん、鳩山由紀夫や麻生氏のような政治家はホリエモンより金持ちかもしれませんが、こちらは別に政治家であることによって不当な利益を得ているわけでもなく、普通にビジネスで得た利益によって金を持っているだけなので、「政治家がビジネスマンより稼いでるのは許せん」という批判は、やはりこちらでも当たらないように思えます。

「反市場原理」を主張する再分配規制強化派(官僚派)は、格差が悪いと言いながら、何倍までの所得・資産差なら良いのかも定義できません。「悪質な金儲けが悪い」というなら、どのような職種や経営形態が「悪」なのか、明確に定義できるはずです。
明確な定義も無しに「金儲けは悪だ」「競争は悪だ」と言えば、共産主義と認定されるのは当然です。


 こちらの批判もやはり的はずれであって、仮に、「悪質な金儲け」の基準を形式的、数量的にはっきりと定義するのであれば、それこそ悪しき官僚主義というものでしょう。「官僚や官僚的なシステムが悪い!!」と叫びながら、一方で、「取り締まるべき悪しきビジネスを形式的、数量的に定義付けた上で、罰則を設けなければアンフェアだ」などというのは、ほとんど私には分裂病か精神錯乱であるように思えます。

 とはいえ、現在の富の不平等を示す数量的なデータは実際に存在します。

米国最富裕層が国民収入の19%

 貧富の格差が拡大する米国で、上位1%の最富裕層の収入が2012年には国民全体の19%を超し、大恐慌前年の1928年以来最大の割合となったことが11日までに判明した。上位10%の収入は全体の48・2%を占めた。AP通信が米カリフォルニア大バークリー校などの分析として報じた。

 投資による利得に課税する資本利得税の増税を前に、最富裕層が駆け込みで株式などを売却したことが一因。12年は最富裕層の収入が20%増加したのに対し、国民の99%は収入が1%しか増えず、格差が一層鮮明になった。

 同年に上位1%を占めた最富裕層の年収は39万4000ドル(約3900万円)超で、上位10%の富裕層は年収11万4千ドル超。

 最富裕層は、07年から09年までの金融危機と株価下落の直撃を受け、収入が約36%減少したが、09年6月以降は景気回復の恩恵をほぼ独占的に享受し、収入増加分の約95%を手にした。(共同)
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20130912-1188009.html


 アメリカは、リーマンショック後大規模な金融緩和と財政出動を行い、景気の下支えを行いましたが、結果として株価は史上最高値を更新し続けましたが、一方で失業率や労働者の賃金はさほど回復せず、株式バブルと不況が同時発生するという奇妙な自体に陥りました、そしてその状況は現在も継続しています。様々な理由が存在するとは思いますが、この理由の一つは明らかに富の不均衡、特に富裕層が莫大な富を保有しながら、実体経済の回復が遅いために、それらの富を設備投資に回すのではなく、上がり続ける株式などの投機に回されるためだと思われます。結果、さらに株価が上昇し、株式投資にお金が回る中で、実体経済はいつまでも回復しないという悪循環に陥っています。

 もちろん、政治家や官僚が強権的に全ての富の分配を決定するような計画経済は間違っていますが、先のような現象を見る限り、自由放任の富の分配が、深刻な悪循環が発生していることは明らかであり、これを放置しても改善がみられらないであろうという予測のもと(というより、むしろ現在の状況自体が、すでにそれを放置した結果なのでありますが)、適切なレベルで再分配を行うことは正当化しうる、どころか、むしろ経済の正常化のためには必須であるように思われます。

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2013年12月12日

市場原理主義は正しいのか?

 以前書いた記事(『金銭崇拝教』http://achichiachi.seesaa.net/article/382361805.html)のコメント欄で、面白い議論がなされていたので、今回はそれを紹介してみようと思います

何によってその人の正当な報酬とすべきかというと、その人が創造した付加価値に基づくということに尽きるでしょう。
ホリエモンが批判されたのは商売人だからではなく、真っ当に商行為という付加価値創造によって所得を稼がず、金融テクニックを駆使して付加価値創造によらない、つまりは他の付加価値創造をした誰かが得るべき所得を掠めることで所得を稼いでいたからでしょう。
土建屋、医者、政治家、天下り官僚らが得る所得が彼らが創造した付加価値に見合うものではない、富の分配の偏りが存在するというのは大きな問題ですが、それは既得権者と庶民の間にだけ存在するのではなく、庶民の中にも存在するものです。
デフレのために労働の価値が下がっていることに乗じて労働者の所得が不当に引き下げられ、経営者や株主ばかりが肥え太るということも、創造した付加価値に見合った所得の分配がなされていないという搾取、弱肉強食の構造です。
「自分だけ」「今だけ」という利己主義の極地ですが、これを正当化する論理がさも自明の理のごとく流布されてしまっている現状です。
それで世の富の総量が増やせるならそれでもいいでしょうが、正当な報酬が得られない世が続けば行き着く先は李氏朝鮮のような中世社会への退行でしょう。
この問題は市場原理主義や競争至上主義のような利己主義を正当化する論理では解決することは出来ません。


 この記事や、その前後の記事では、おおよそ金銭崇拝的、市場原理主義的な価値観に対して否定的な見解を示していますので、(必ずしも私と全く同意見ではありませんが)こちらのコメントでは私の主張に対して好意的なコメントを書いてくれているわけです。次に、この私の主張に対して好意的なコメントに対する反対意見が書き込まれます。

では市場で稼いだ所得が適正所得ではないとすれば、国家が個人の労働付加価値を適正価値を判断して所得を決めればいいんですか? 共産主義でしょ。
資本主義で自分だけ儲けるのが悪い、と言うなら、

じゃあアナタはどうなんですか。資本主義社会の体制に安んじて、市場で創造された富を得て生きている。

個人資産を貧窮者に分け与えることも、スラム街で奉仕活動するわけでもない。

アナタは、自らが批判する「利己的な金持ち」と同罪なんですよ。

子どもが、親に養われながら、親が悪いと言ってるようなもんですね


市場で稼いだ所得が適正所得ではない判断し、国家が個人の労働付加価値を適正価値を判断して所得を決めればいいなどとは、一行も書いておらず、全くの妄想に基づいて、共産主義であると断じているあたり、何を言っているのか分からないとしか答えようがないのですが、この後、さらにこの意見に対する反論のコメントが書き込まれているので紹介したいと思います。

政府が付加価値に基づいて富を適正に配分することは困難でしょう、そのために規制があり税制があります。
これらを強めたり弱めたりしつつ全ての国民が自らが創造した付加価値に見合う所得を得る、望ましい配分状況に徐々に近づくようにする他はありません。
これは共産主義では全くありません。
強者が弱者の得るべき富まで吸い上げることを是とするのは、資本主義であろうと共産主義であろうと認められる論理はありません、あるとすればそれが拝金主義です。
それでもそういう状況が存在するのは資本主義に生じた歪みなわけですから、それを是正する努力を払わなければなりません、それは「資本主義社会の体制に安んじて、市場で創造された富を得て生きている」者の責務でしょう。


 いやはや、全くおっしゃるとおりだと思います。別に、市場原理主義を的なあり方を否定することは、市場原理を完全に否定し、計画経済の体制に転換しろという主張とは全く違います。それは市場原理で一定程度決定される所得に対して、その分配に歪があればそれを税制や各種の規制を使って制限する。これだけ単純な主張にどうもアレコレと噛み付いてくる人がいるのが不思議なのですが、まあ、橋下や竹中、大前研一といった人たちを未だに評価している人々がいることを考えればやむを得ないかもしれません。

 しかし、やはりこれらの人々の主張が間違っているのは明確で、市場原理主義を徹底的に突き詰めれば行き着く先は産業革命直後の18世紀後半から19世紀のイギリスの状況です。環境は徹底的に破壊され、労働者は資本家に徹底的に搾取され、幼児労働は公然と行われ一切の規制が入らない。このような状況に戻りたいと思う人はまさかいないとは思いますが、結局市場原理主義の人々の主張を突き詰めれば、そうなってしまうわけです。

 だからこそ、道義的観点や経済の効率性等々、様々な観点から適正な基準を設け、場合によっては再分配を強化する必要もあるわけです。

 面白いのが、真ん中の批判的なコメントをした方が最後に「子どもが、親に養われながら、親が悪いと言ってるようなもんですね」と書いているのですが、まさに、再分配は子供と親の関係に例えられるべきで、例えば、稼ぐ力を持った親が、稼ぐ力をそれほど持たない子供に対して、ろくに食費や衣服代、教育費を出さずに放置すれば、それは道義的に大いに批判されるべきで、言うまでもなく親は、子供に対して適正な範囲で必要な金銭的な援助をする責任を担っているわけです。

 まあ、要は適正な仕組みとはどのようなものかという観点から常に、最善の解を探り続けるのが保守の経済のあり方と言えるのではないでしょうか。そして、付け加えるなら、その最適さというものは絶対普遍のものでは決してなく、常に状況と共に最適なあり方は変化しうるものであるという観点も不可欠であると思います。

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特定機密情報保護法について・・・ そのA

 国士舘大学客員教授の小浜逸郎先生が、ブログで特定秘密保護法案について触れているのたので(特定秘密保護法案について http://kohamaitsuo.iza.ne.jp/blog/entry/3228617/)、今回はその問題について少し書いてみたいと思います。

 小浜さんは、外交評論家の孫崎享と、元防衛研究所所長の柳沢協二の2名が専門家として出演したNHKラジオの番組の印象操作について触れています。

 先に挙げた「専門家」の二人は、口裏を合わせたように同じことを言っていました。その要点は二つ。
@なぜ今この法案を通さなければならないかという本質的議論がなされないままに、政府は急いで通そうとしている。
A自分たちは、現役時代(それぞれ外務官僚、防衛官僚)にいろいろな機密情報に触れる機会があったが、日本に機密情報の漏洩を防ぐ法整備がなされていないからという理由で、アメリカから情報の提供を拒まれたことはない。
 以上二つは、NHK司会者の誘導尋問に答えたものです。


 @については、もはやこれは気に入らない法案に反対するための常套句といって良いでしょう。特に、今回の機密保護法については中国との間の軍事的緊張の急激な高まり、そして先に発足した国家安全保障会議(日本版NSC)と来年1月に創設される国家安全保障局とを実質的に運用させるための法的な保証の意味を持たせるために、出来るだけはやく成立させる必要があるのです。「なぜ今この法案を通さなければならないかという本質的議論」を延々続けている間に中国に侵略され日本を倭人自治区にされてしまっては元も子もないでしょう。

 そして、思わず「うんうん」と頷いてしまったのが、Aの意見に対する見解です。

 Aについてですが、これは本気で言っているのだったらノーテンキもいいところです。外交や防衛のプロだったくせに、この人たちはなんてお人よしなんでしょう。「専門家」がこれだから、戦後日本は相変わらずの対米従属根性、奴隷根性から抜け出せないのです。
 本当に日本のようなダダ漏れ国家に対して、米政府がすべての情報を提供してきたなどと信じているのでしょうか。そんなことは、情報戦争のプロである米政府はとっくに斟酌し、この程度はいいがこれはだめ、と情報を厳密に選択したうえで日本政府に提供しているに決まっています。だからといって、米政府が「あんたのところは漏洩する危険があるからこの情報は教えない」などといちいち公式見解として言うはずがないではありませんか。
 公式見解としては言わなくても、それがアメリカの本音であることだけは確かです。事実、初代内閣安全保障室長の佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏は、「私が警察庁や防衛庁に勤めていたころ、外国の情報機関から『日本に話すと2,3日後に新聞に出てしまう』と言われたことが何度もあった。……特定秘密保護法のない国に対しては、たとえ同盟国であろうと、どの国も情報をくれないし、真剣な協議もしてくれない」と述べています(産経新聞12月6日付)。その通りだと思います。


 私は、以前書いた記事(『特定機密保護法案反対デモから逮捕者』http://achichiachi.seesaa.net/article/382040778.html)で、

 それから、まあ、全ての人とは言いませんが、この法案に反対している人の多くは精神的にお子ちゃまなのではないかと感じます。(中略)
 何か自分には素晴らしい権利や資格を持っていると信じてい疑わなかった子供が、実はそんな特別な権利はそもそも存在しなかったのだという現実を見せられて拗ねたりパニックになったりしているような様子に見えて仕方ないのです。


と書きましたが、まさにこれを裏付けるような内容ではないでしょうか。日本人は、ガキのように無邪気に(というか単なる馬鹿?)「国民の知る権利だー」などと叫びながら、機密情報をペラペラと新聞記者に喋りながら、「それでもアメリカはきちんと情報提供している」と信じて疑っていなかったワケですが、日本よりほんの少しばかり大人なアメリカは、なんでもペラペラ喋る口の軽いジャップに対してしっかりと与える情報を選別していたと、しかもそれに気づいていなかったのは日本人だけだったとそういうことだと思います。

 そもそも、外交や防衛問題の専門知識などよりはるか以前の問題として、小学校や中学校にまともに通って友達と遊んだり会話をしていく中で、「口の軽い子には大事な話はしない」「ペラペラと秘密の話を喋る子には誰も大切なことは教えてくれない」ということくらい経験的に学習するのではないでしょうか?

 そう考えると、日本の専門家、知識人のレベルは、小学生以下なんじゃない?などとついついそんなことまで思ってしまいます・・・f(´−`;)ポリポリ

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2013年12月10日

金銭崇拝教

 先日、ASREADさんに寄稿した、『お金や異性以上の価値とは何か?』という記事(http://asread.info/archives/221)の中で、

また、別の自己啓発の話を持ち出すと、脳機能学者を自称する苫米地英人氏は、『宗教の秘密』という本で面白い問題提起をしています。いわく、「現代社会というものは、伝統的な宗教の教えの価値がどんどん軽視され、薄れていく中で、お金が神に代わった。現代人のほとんどは、お金教の信者である」と説明し、さらに、このような「お金教」的な価値の洗脳から脱却しなければならないと述べています。

と書いたのですが、かの内村鑑三の『代表的日本人』という本を読んでいたら、これと非常に似た記述がなされているのを発見しました、なんだか奇遇だなーと思いましたが、非常に興味深い文章ですので紹介したいと思います。

 誰それは「無宗教」の人であるという話はたびたび聞かれます。しかしそれは、その人たちが、特定の教義を奉じていいるわけではなく、導かれる教団もなく、神として、木や金属でできたりまたは心に浮かべた像を崇拝していない、というだけの話にすぎません。それにもかかわらず、その人々にも宗教はあるのです。その内部にある「不可思議なもの」は、ただ「拝金主義」とか「お酒神」とか、あるいはまた、ほかの自分流の催眠術や鎮静術によるものにせよ、あの手この手を用いて押しこめられているだけなのです。

 うーむ、このような指摘を100年以上も前にしていたとは、さすがだなぁと思います。中野剛志さんや藤井聡さんは物語りという言葉と概念を用いて説明していますが、結局のところ、どれだけ「自分はいかなる種類の思想、信条からも自由である」と抱くような人間も、本人がそれを意識していないだけで、必ず何かしらの思想、信条、あるいは物語というものに支配されているわけなのですね。そして、やはり問題なのは、高尚な、あるいは次元の高い思想、信条というものを抱けない、あるいはさらに抱こうともしないような人間は、代わりに低俗で卑しい思想、信条、中野剛志さんの言葉を使えば物語、内村鑑三の言葉を使うなら信仰にとって代わられるということなのでしょう。

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2013年12月08日

なぜ私はグローバリズムに反対するのか?

 前回の記事(『グローバル化の本質』http://achichiachi.seesaa.net/article/382186776.html)で面白いコメントを頂いたので、今回はそのコメントについての私なりの考えを書いてみたいと思います。

あまりグローバル化を敵視するのも、極端な話ではないでしょうか。

たしかに、デフレにある今、グローバル化が進めば、世間には失業者が溢れるでしょう。
国内需要が無いのにも関わらずグローバル化により生産性が向上すれば、当然失業者を吸収できませんから。

ですが、日本がインフレ期にあればどうでしょう?
インフレのときは貨幣量>生産量ですから、国内の生産量が足りていません。
グローバル化により生産量が増加することは、国内の消費者にとっても良いことでは?
グローバル化により駆逐された労働者も、生産量が足りないために、すぐに他の業種に転職できるでしょう。

グローバル化の功罪を見極め、状況に合わせて導入していくことを主張します。


 それほど長いコメントではなかったので全文掲載させていただきました。私としても基本的にこのような意見には賛成ではあるのですが、しかし、それでも私は現在の日本のおかれている状況においてはやはり保護主義的、あるいは場合によっては(ソフトなカタチでの)鎖国主義的な政策に舵を切ることが望ましいと考えます。

 理由は、いくつかあるのですが、まず一つにはやはりグローバリズムがもたらす文化的、精神的な悪影響があります。確かに、経済学のセオリーでは、生産能力が不足し国内の需要をカバーしきれない場合や、価格が高騰している状況においては、輸入を増やすために関税を引き下げることが望ましいとされています。ただし、現在の日本は資源さえ海外から輸入することができれば、ほとんどあらゆる製品を自前で作り出すことができる能力を持っていますので、エネルギー資源や食料、あるいは兵器等限られた分野を除けば、供給力不足に陥り、高インフレで国民の生活が苦しくなるという状況が今後の近い将来に発生する可能性はさほど高くはありません。一方で、中国等、海外からの安い輸入品が大量に入ってくることによるデフレの悪化の危機は常に発生しており、少なくとも今後数年〜十数年単位で見るならば、大災害等の特別な自体を除けば、高インフレを心配し関税を出来るだけ下げておこうという考えるより、むしろデフレ脱却や国内産業の保護を考えるべきでしょう。

 まあ、現実はこのような状況ではあるのですが、もし仮に日本がインフレであったとしても安易なグローバル化路線はあまり望ましい政策の方針ではないように思えます。前回の記事で詳しく説明したように、過度なグローバル化は、それぞれの国家や地域の文化的社会的風土を破壊し、同時の個人の精神や生活にも深刻な悪影響を与える危険性があります。今現在、日本が高インフレになり、どのようにして国内の需要をカバーするのかという問題が喫緊の課題となることは考えにくいですが、仮に、高インフレになったとしても、グローバリズ可路線の加速はグローバリズムの持つ文化的政治的危険性が持つリスクやデメリットと、輸入によって国内の供給力を増加させることのメリットを慎重に見極めた上でなされるべきであると考えます。

 それから、もう一つは、現在、日本国内において、政治、学問、言論の世界において、あまりにもアンチグローバリゼーション的な言論や運動が見られないことも挙げられます。多数派ではないものの、現在世界中で決して少なくない数の優れた研究者やジャーナリストがグローバル化に対して警鐘を鳴らしているにも関わらず、日本ではあまりにもそういった種類の言論が少なすぎるという問題もあるのです。

 現に、安倍首相の提唱する大胆な金融緩和、機動的な財政出動、成長戦略の3本の矢を中心的な戦略に据えたアベノミクスという経済政策に関しての議論では、特に1本目の矢である金融緩和を重要視する論客の多くは、現在のようにグローバル化が進んだ社会では財政出動を行っても、国内にばら蒔いた金が海外に流出する可能性が高いのでさほど有効な効果は期待できないというように、完全にグローバル化やグローバリズムを前提とした議論をおこなっているのです(ただし、このような理屈を言うのであれば、とうぜん金融緩和で市中銀行に貸したお金はグローバル化した現在の世界の状況では海外の投資家のもとへと流れてしまうかもしれないから金融緩和はさほど有効ではないと全く同様のロジックで金融緩和の有効性を否定できることになるのですが、その点については金融緩和至上主義の人たちはどのように考えているのでしょうか)。つまり、彼ら、というよりも、ほとんど全ての日本の知識人、言論人たちは、グローバリズムの流れに抵抗しよう、場合によっては逆行しようなどという選択肢が頭の中の選択肢からスッポリと抜け落ちてしまっているのです。

 このような日本の言論状況を考えるのであれば、アンチグローバリズムを唱える論者に関しては、一見多少極端な主張に見える程度の過激な主張をすることは許されるのではないでしょうか、「本当は、保護主義的な政策に舵を切るのが望ましい可能性がありますが、現在のグローバルな政治状況を考えると、それは非常に困難であり、まずはグローバリズムの加速を食い止めることを目的とすべきでしょう。」などと言えば、確かにそれは正しい主張である上に、比較的一般にも受け入れられやすい意見であるかもしれませんが、一方で、このような主張や表現からは、ややもすると保護主義的な政策の重要性が感じ取りにくいという可能性も存在します。

 それから最後に、
>グローバル化により駆逐された労働者も、生産量が足りないために、すぐに他の業種に転職できるでしょう。
という意見に関しては、私はあまり同意する気にはなれません。もちろん、デフレで失業率が高い状況で、一気にグローバル化を勧めているような状況と比較するなら、ずっとそのダメージは小さいとは思いますが。インフレで供給能力が足りないというような状況では、もしかすると、非効率な分野の労働者が甘い蜜を吸って効率性を犠牲にしているから、そのような既得権をなんらかのカタチで解体する必要性が発生する可能性はなくはないですが、そのような状況においてですら、あまりにも急激な改革やショック療法的な経済政策は、やはり労働者個人の人生や共同体の絆を破壊させたり、特定の分野の技術や暗黙知の警鐘を困難にする可能性があります。そういった事に注意を向けるのであれば、できれば、ある特定の既得権益を持った団体を解体するにしても、海外からの輸出攻勢を利用して一気に解体してやろうというようなやり方よりも、一定の政府の管理や保護、あるいは規制のもとに慎重に進められるべきでしょう。そのような慎重なやり方を取った上で部分的に、海外からの輸出攻勢を許容あるいは、そういったものを利用する必要があるのであれば、それは状況に応じて用いるべきでしょう。

 もちろん、グロバール経済を重視するのか、国民経済を重視するのかという選択は、状況に応じて慎重に判断されるべきであるというコメントをくれた方の意見には同意します。しかし、以上のような理由により、少なくとも現在のような経済、政治、言論の状況においては、やはりできる限りアンチグローバリゼーション的な、そして保護主義的な政策への転換を目指すのが望ましいのではないかと私は考えます。


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グローバル化の本質

 前回の記事(『『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』(著 マリー=フランス イルゴイエンヌ 訳 高野 優)を読んで・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/382132673.html)で紹介した本『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』で、現在の世界のグローバル化という現象に関して非常に面白く興味深い記述があったので、紹介してみたいと思います。

 グローバル化が進むこの時代、企業はどこからどこまでそっくりなクローン社員、あるいは取り替え可能な知的ロボット社員を求めているのである。自分たちの属するグループを均質化するために、人々は性格であれ、性別であれ、人種であれ、異質なものを排除して、打ち砕いていく。そういった性向は企業も変わらない。だいたい、同じ型の社員であれば管理もしやすい。そうして社員が企業の思うとおりに動けば、生産性が高まり、収益があがると考えるのである。(P54)

 このグローバル化が進むにつれて、個人がどんどん定型的になり均質化してくるという現象は、まさに中野剛志さんが『官僚の反逆』で指摘した通りですが、ほかにも、かつての共同体的な労働形態が崩れ、会社員の世界でも個人主義が当たり前なってきているという指摘や、新しい経営管理の手法では個人を分断しバラバラにマネジメントするという指摘があり、グローバル化が進んでいく中でフランスも日本と非常に似た現象あるいは問題が発生していることがうかがえます。

 それでは一体、なぜグローバル化は、人間の均質化を招き、共同的な組織を崩壊させ、個人主義を招き人間をバラバラな個人に分断するのでしょうか?

 その理由は、一つにはやはりグローバル化という現象の中で、世界中どの国でも通用する言語、あるいは価値基準というものが必要になることが挙げられるでしょう。戦前のブロック経済の後、戦後のグローバル化(当時はインターナショナル化)は初めに、共産主義による労働者間のイデオロギーの共有から始まりました。もっともこのイデオロギーも各国の様々な風土や土着的な宗教性や思想性というものを極力排除した唯物論的なイデオロギーでした。

 その後、そのある時点で、この労働者によるインターナショナル化という現象から、企業人によるグローバライゼーションへの移行という現象が発生しました。この現象以降、共産主義革命という理念以上により普遍的活客観的な価値観、言語が世界の共通言語となりました。それは一つには金銭至上主義的な価値観であり、そしてもう一つがマネーというこの上なく定量的かつ価値中立的な言語、記号です。

 つまり、グローバルなコミュニケーションを、各国特有の思想風土や価値観に阻害されないためには、これらの価値観を全く排除した客観的で、定量的で、価値中立的なマネーという記号を世界共通の言語とする必要があったのです。

 ジャーナリストの東谷暁さんは、様々な著書で、どれだけ経済学者が世の中をおかしくしていったのかということについて解説していますが、そもそもなぜ、経済学という現実の社会に当てはめるのはあまりにも欠陥の多い学問が、こうも現実の社会や政治に対して多大な影響力を及ぼしたのかといえば、経済学の持つ客観性、各国や各地域の特殊性を極端に排除し、完全に合理的な個人、それもただひたすらに金銭的な便益を追求するという一点において完全に合理的な個人というものを想定した経済学という学問が、現実の世界がそこに移行しつつあった金銭至上主義的な価値観や、マネーのみを唯一意味ある世界共通の言語と可そうとするグローバル化した世界の価値観と非常に親和的だったからでしょう。

 このグローバル化という現象が世界の経済に様々な悪影響を及ぼしているということについては、三橋貴明さんや、柴山桂太さん、中野剛志さん等が散々に指摘していることではありますが、また同時に世界のグローバル化は人々の心理的な側面や社会的な側面に関しても、非常に深刻な悪影響をもたらしつつあります。

 それは、社会や国家の持つ、固有の文化や精神風土を極端に軽視し、社会の共同体を崩壊させ、人々をバラバラな個人の群れと貸します。同時に、藤井聡さんが指摘するように、価値という要素を完全に排除した金銭を唯一の価値とする価値体系は、人々の人生から急速に意味や価値を奪い一直線い人々をニヒリズムへと誘います。

 これらの現象は、かの三島由紀夫が徹底的に憎んだ近代民主主義のもたらした現象と非常に似た側面がありますが、そういった意味ではグローバル化は、(柴山桂太さんが指摘するように、世界はグローバル化と国民経済化の現象を往復しつつ循環しているという現象を抜きにして考えるならば)ある意味で、近代や、及び近代民主主義のもたらした、ある意味における必然の現象であり、また同時にそれを完成化させるものなのではないでしょうか。

ASREADさんでも金銭至上主義的な価値観について解説しています!!こちらもよろしくお願いします!!⇒『金銭至上主義的な思考に落ち込みやすい現代社会』http://asread.info/archives/212




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