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2013年05月23日

『自由貿易の罠』(著 中野剛志)を読んで・・・A〜目的と手段の流動的関係性について〜

 以前、書いた記事(『自由貿易の罠』(著 中野剛志)を読んで・・・http://achichiachi.seesaa.net/article/358123496.html)でも紹介したこの本、TPP参加問題が浮上する以前の2009年に書かれた本であるが、現在TPP交渉の動向が注目される中で、自由貿易に対する基本的な考え方について、実にタイムリナーな話題が豊富に含まれている1冊である。時事問題や最新の政治情勢について知りたいと思っている方も、あまり古い本だと思って敬遠せずに、むしろ現代の政治情勢、経済情勢を考えるためにも是非読んでみて欲しい。

 しかし、今回の記事は自由貿易に関する問題がテーマではなく、この本の後半部分のテーマであるプラグマティックな問題解決方法について、この本の内容を参考にしながらアレコレ考察してみたいと思う。

 この場合、政策の目的は政策手段は政策手段を決めるものであるが、政策手段は仮置きの「展望目的」であるため、政策手段の執行の結果次第で、政策目的が変更されうる。政策目的が政策手段を左右すると同時に、政策手段もまた政策目的を左右するのである。
 デューイは、このようなプラグマティズムの政策論を、マルクス主義の計画経済と比較している。マルクス主義では、政策目的はマルクス主義が普遍の真理と信ずる唯物史観が示す社会の実現であり、この政策目的は不動の地位を占める。そして、このマルクス主義の政策目的から演繹的に政策手段が導き出される。それゆえ、いかなる政策手段も政策目的によって正当化されることになる。政策目的を実行した結果次第で、政策目的が変更される事はない。
 例えば、マルクス主義の理想の実現という政策目的に従って、計画経済という政策手段が採用される。そして、この計画経済がどんなに悲惨な結果をもたらしたとしても、政策手段を実現するためもやむを得ない犠牲とみなされるだけであり、政策目的やマルクス主義が反省される事はない。社会主義体制が抑圧的なものとなったのは、このためである。社会主義国の反自由主義的体制の背景には、理論から導き出された政策目的を不動のものとみなし、目的と手段を相互依存的なものとは考えない思考様式があったということだ。
 しかし、目的と手段の完全分離という過ちを犯しているのは、マルクス主義だけではない。すでに見たように、主流派経済学もまた、政策目的と政策手段を相互依存的なものとは考えず、政策が執行された現実社会を見て、政策目的やその理論を変更しようとはしていない。(中略)
 主流派経済学が、プラグマティックな産業政策を正しく理解するのは困難を極めることになるだろう。なぜなら、主流派経済学では、目的は固定的であり、手段は目的の達成度によって評価されるためである。このため、主流派経済学は当初の目的を達成しなかった産業政策には、失敗の烙印を押すだろう。しかし、プラグマティズムにとっては、当初に設定された目的は、現実社会に関する実践的知性を獲得し、問題解決の方法を模索するための手段なのである。そして、当初の政策の失敗によって現実社会に関する知見を得ることや、その知見に基づいて当初の目的に変更を加えることも、問題解決に向けた探求の中の重要な機能である。
 このため、主流派経済学が失敗とみなす産業政策の多くは、プラグマティズムにとっては、決して失敗ではなく、むしろ社会的知性の発展のために必要ですらあるのである。(p185)


 随分長い引用になってしまったが、ここ述べられる政策論の要点は広く、我々の生きる人生を考える上でも参考になるのではないだろうか?などと考えて引用させてもらった。

 中野剛志さんは、この文章で目的と手段が共に流動的に変化し得るプラグマティックな産業政策論と、固定的な目的に対して手段が従属する固定的な政策論とを対比させている。

 世の中に数多く存在する知性に対する定義の中の一つに、「ある目的を達成する能力」というものがあり、この定義について俺自信も含め多くの人はそれほど違和感を覚えることもないであろうが、このような硬直化した目的意識、目的設定は、目的と手段が相互に影響を与え柔軟な関係性を持つプラグマティックな思考を妨げる危険性が存在する。

 目的が硬直化した思考様式においては、目的設定そのものは知性との関係性の中で問われる事はなく、もっぱらその手段にのみ焦点が当てられる。一方、プラグマティックな思考様式においては、ある目的を達成するための手段と同様に、あるいはそれ以上にその手段よって達成させられるべき目的は何であるのか?ということそれ自体が問題となる。

 このような観点から物事を考える時、あまりにもありきたりで無内容に思える
「人生に無駄な事など何もない」
というような言葉も、また違った響きを持つ。

 人は何事かを達成しようと真剣に努力しはからずもそれが挫折した時、深い失望感に囚われる。そして、中にはそれまで行った努力や経験の全てが無駄になったと感じ、自暴自棄になる者もいる。もっとも、かくいう俺自身がまさにそのようなタイプであって、かつてさまざまな物事に挑戦しては挫折し(空手、ネットビジネス etc・・・)、そのたびに、それまで過ごした努力が全て無駄だったように感じ、「ああ、あの時に費やした時間と金と努力をもっと違う事に費やしていたら・・・」と嘆くようなことが多かった。あるいは、誰か友人や恋人等と別れたり、絶縁したりした際にも、それまで過ごした楽しかったハズの時間までもが全て無駄だったように感じなんともやりきれない気分に浸ることがしばしばあったのである。

 このような時に、大抵は今現在取り組んでいる物事に対して、「あれをやって無駄な時間を過ごしていた時期からこれに取り組んでいれば・・・」などと思うことが多いのだが、先に述べたプラグマティックな思考様式からすると、このような考え方は間違っている。

 人間誰しも、自分自身の持つ才能や個性、あるいは長期的な人生の展望などを完璧に捉えることなど不可能なのであって、そもそも最初から自分自身の才能や適性を正確に把握した上で全ての物事を決定することなど不可能なのである。

 だからこそ、「これこそが自分の天性の才能なのだ!!」「俺は自分の生涯をこれに費やすのだ!!」あるいは、「この人こそ自分の運命の人なのだ!!」などと思っても、その後、様々な経験、成功や挫折を体験していく中でその考えが、どうやら見込み違いであったようだ、などと気付くこともある。その時に、ある人はそれにしがみついて人生をメチャクチャにしたり、またある人は心の中でそれに対する執着を断ち切り、新しい目標に向かって進んでいく。

 この新たな目標へと進もうとする決意こそが、ある手段の執行の結果によって目的が変更されるという事なのだが、重要な事は新たな目的を設定するためにはそれに先立ってある手段の執行というプロセスが不可欠であったという事実である。つまり、先に書いたように、硬直的な目的意識に囚われた人間にとっては、ある手段の遂行の結果が思わしくなかった場合、それは単に挫折以外の何物でもないのであるが、目的と手段が相互に影響を与えあうプラグマティックな思考様式にあっては、この手段の執行は新しい目標を設定しそれに向かって突き進むための欠くべからざる必須のプロセスなのである。

 例えば、童話作家として有名なアンデルセンの悲劇の障害においては、数々の失恋と、文学者として挫折の二つが語られる事が多い。しかし、これらを単純な挫折して捉える見方はあまりにも一面的なモノの捉え方であると言わざるを得ないであろう。数々の失恋は彼の作品の表現に深みを与え、そしてなにより文学者としての挫折は彼を童話作家という真の才能へと導いた。

 もちろん、ほとんど全ての人間はアンデルセンのような偉大な才能を隠し持っているワケではないが、まあこのような物事の捉え方は、ある意味では完璧ではあり得ない自分自身の人生の在り方を考える上で、ある種の慰めやホッとした癒しを与えてくれるのではないだろうか?


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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 03:45 | 神奈川 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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