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2013年04月22日

『日本の宿命』(佐伯啓志 著)を読んで・・・〜ポストモダンと思想・言論の衰退について〜

 80年代とは、思想的にいえば「ポスト・モダン」の時代です。「ポスト・モダン」とは、人々が共通にもちうる大きな価値観などもはや存在しない、ということです。「カラスの勝手でしょ」というわけで、皆が「カア、カア」と勝手に鳴くことをよしとする時代だった。東向いて鳴くカラスもいれば西向きのカラスもいる。下向きもいれば上向きもいる。地声のカラスもいれば裏声のカラスもいるというわけで、なんでもありで、しかもそれでよい。かくて、戦後の理想だった「自由」や「平等」が徹底して実現したのです。アメリカ以上に実現したのです。
 こうして、もはやあの戦後日本の根底に流れていた「疾しさ」や「後ろめたさ」は消え去っていった。それとともに、「戦後」の出生にまつわるあの不透明さも、捩じれもわれわれの意識の視野からは失せてゆきました。
 そもそも、ポスト・モダンとは、一貫した価値観の存在を否定するものです。価値など人によって違うし、しかも今日と明日では違っている。それでいいではないか、というわけです。こうなると、戦後を称揚するも批判するもカラスの勝手ということになり、それにそもそも戦後40年もたって、あの戦争の意味や戦後の意味などということ自体がもはや意味をなしません。価値とともに思想も終わるのです。
(『日本の宿命』佐伯啓志 著 p214)


 この文章の中で、佐伯啓志さんは、人々の共通の価値観、一貫した価値観の存在の否定であるポスト・モダンが、思想や意味を消滅させたと述べているが、このような問題については、佐伯啓志さんの弟子である、柴山桂太さんが、以前行われた中野剛志さんとのトークセッションで詳しく述べている。



柴山桂太 なんで、昔のものの方が良かったのかというと、昔の書き手、昔の人の方が我々なんかよりも教養が遥かに高かったっていうのもあるのだけれど、でも、逆に言うと、何で難しいものが読まれてたかっていうとそれは、やっぱり書き手や読み手の方にも共通の感覚っていうか、まあ常識ですよね、常識っていうものがあったからじゃないかっていうふうに思うんですよ。だって、資本主義がバブル化しやすいとか、今日も話してたけど、中間団体っていうか、我々がなんかの団体に属して、その中で、そうすることが政治活動に繋がるんだって、そんなの日常的な常識ですよね。

 そういうものの上に、偉い思想家がいるとか、そういう感覚を延長していくと、古典の知恵とか、なんか理論とかに繋がっていくって時代が、まあ本当にあったかは知らないですけれど、今よりはまだそういう時代だったのかなぁっていう気がしてるんです。で、それに比べると、今の、まあ我々も含めていいんですけど、なんか知識人の言葉って凄く軽いし、なんか我々が生きてるって事と全然繋がってこないような、そういうふうな印象を僕は持つんですよね。

 で、それはやっぱり常識、でも、常識って何かって考えるんですけど、常識って英語で言うとコモンセンスですよね。だから、センスですよね。つまりセンスなんですよ、センスって英語では分別って意味があるんですよね、もちろん「あの人センスが良いよね」っていう感覚って意味と同時に、センスってものを腑分けするっていう分別ですよ。「これが大事」「これが重要」とかっていうね。

 例えば、常識っていえば、今日本が抱えている危機っていっぱいありますよね。それこそ震災復興から、構造改革、道州制、それからTPP色々あって、で、センスってコモン、我々の共通したものの分別能力って何が大事なのかって事をなんとなく直感するって事ですよ。でも、どう考えても、今震災復興じゃないですか、震災復興を後回しにして、TPPとか道州制ってあるんですかね?

中野剛志 消費税増税とかね、「社会保障は先送り出来ない課題とかなんか言うんですけど、震災復興のために3年間くらい先送りしたって何の問題もないハズなんですよね。なんで、それが優先されて消費税なのかね?

柴山桂太 そうなんですよね。それはだからコモンセンスですよね、だからセンスなんです。それがなんか知識人とか、読み手の人とか、政治かなんかに共通されてれば話が早いワケですよね、優先順位が決まってるワケですから。

 だから、今の問題は、常識がなくなって、つまり物事の分別能力が、もちろん本を書く人も読む人も、それから政治家とか弱ってきて、何が優先順位の1番なのかって事が分からなくなってるから、話がなんかこう、色んな議論があるんだけど全然まとまりがないし、なんか全部繋がってこないし、その結果資源の無駄使いになって、こんだけ、だってTPPって官僚も相当動員されるんですよね。対外交渉が23分野もあるんだから、そんなところに官僚を張り付けてる場合なのか、だから、官僚だって大変ですよ、全部やらなきゃいけないんだから、だって電力から何から、だって優先順位が、政治家っていうか我々が作らない、社会の中で優先順位やコモンセンスが無くなってるワケだから、あらゆる問題に全力投球しろってなったら、そりゃあ官僚も疲れちゃうし、マスコミだってね、もう何を言って良いか分からなくなっちゃうし。で、その中で、なんか知識人言うとワーッて言うんだけど、それは全然世の中を動かす力が無い。そういう時代に入っちゃってる。
(26:20〜)


 ここでの柴山桂太さんが言っている、コモンセンスの消失とは、おそらく佐伯啓志さんが書いた人々の共通の価値観、一貫した価値観の存在の否定とほぼ同じ意味であ。果たして、ポストモダン的な思想の流行が、コモンセンスの消失を招いたのか、それとも、コモンセンスの消失がポストモダン的な思想を受け入れる土壌を作ったのか。まあ、この点に関しては鶏が先か卵が先か?といった問題だが、ともかくも、ポストモダン的な思想の流行と、コモンセンスの消失は分かちがたく結びついている。そして、何よりも問題なのは、これらが、現在の日本が抱えている様々な問題や危機の解決をことごとく困難なものにしているという事実である。

 そもそも、大きな共通の価値観、重要な価値というものを否定するポスト・モダンという思想自体がふざけた考えだというほかないが、結局のところ、このような思想が流行した背景には、非常に恵まれたある意味でぬるま湯とも僥倖とも言えるような様々な幸運や好条件が日本に空前の平和と物質的繁栄をもたらした、要はイージーな時代であったという事が背景にある。冷戦構造の中で、軍事問題はアメリカに庇護の下にあり、経済でも、アメリカの経済力が衰退していく最中で、どんどん日本は製造業で優位に立っていった。比較的安定した経済システムの中で、大きな混乱もなく、何の危機も感じる事も無い中で、ただただ平和と繁栄を享受していたような時代の思想なのであった。このような、時代背景にあって、知識人の多くは、まともに物事を突き詰めて考える能力を劣化させていった。社会は安定し、経済も反映して、うなるように金が余っていた時代、何をしてもそれなりに上手くいくような時代にあって、人々は何をしても、何を考えて生きていってもいいじゃないかと思うようになることに不思議はない。

 このようなぬるま湯の中で、育った連中が現在のような危機の時代に、それなりの社会的影響力を持ってしまっているのだから、まあ現代の若者が悲惨な境遇の中に置かれるのは無理のないことと言えるだろう。まあ、常識の感覚の欠如したふざけた連中がデカイ顔して、適当に偉そうな事を抜かしては、それらの意見が、それなりに世の中に影響力を持ってしまうという、そんな地獄のような状況が日本の惨憺たる状況を生み出しているといえば、その悲惨さが良く分かるのではないか。

 まあ、ありていに分かり易くいってしまえば、例えばTPPのような主権や、国体、あるいは国防安全保障に直結するような問題を語る上で、良い歳をしながら真顔で「TPPで、コミケがダメになる―!!大変だー!!」などと騒いでるような連中が、それなりの影響力をもってしまうような状況はマズイと思うワケである。危機であればあるほどなおさらだ。

 以前、シラケ世代などという言葉が流行ったらしいが、俺は、それにならって、東や宮台のような連中をフザケ世代とでも呼んでみたい、しかも、性質の悪いことに『絶望の国の幸福な若者たち』というような本を書いた古市憲寿のようなフザケ二世とでもいうような人間すら出てきて論壇で持て囃される次第である。彼等は、国家や歴史といった大きな問題について、語らないのではなく、語れないのである。それを可能にするだけの知識や経験の蓄積もなく、コモンセンスも傷んでいるために、それについて語ることが何故必要なのかも理解することが出来ない。

 中野剛志さんは、『反官反民』に収録している『代表的戦後日本の「開国病」』という文章の中で、このような「甘やかされて育った梨園の御曹司のような無責任な戦後世代の連中を「代表的戦後日本人」として批判しているが、この文章の中で、最後にこのように書いている。

 このTPPは、代表的戦後日本人たちに押し切られ、参加の方向に向かう可能性が極めて大きい。開国病は不治の病なので、どうしようもない。しかし、悲観することはない。あと十数年もすれば、代表的戦後日本人たちは、開国病が治らなくても、世の中から自然と退場していく。代表的戦後日本人以外の有志は、その後のために、この厳しい時代で経験を積み、思想と精神を鍛えようではないか。
(『反官反民』中野剛志 p305)


 現実の日本の状況を考えれば、先に書いたようにフザケ二世のような連中さえ現れてきているワケで、上の世代がいなくなる事で綺麗さっぱり新しい時代を迎える事が出来るだろうなどと楽観することは出来ない。しかし、それでも、少なくとも、自分だけでも意志を強くもって、思想と精神を鍛えようと強く思う次第である。


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2013年04月18日

民主主義といじめの構造の類似性について・・・



中野剛志「で、彼(トクヴィル)が言ったのが、多数派が何でも決めて、少数派を弾圧するというような、つまり大勢の意見がワーッと国を支配しちゃって、少数がいくら「コレはヤバい」と言っても聞かなくなる。これは一種の専制だと、「そんな馬鹿な意見オカシイじゃないか」と言っても、皆空気で流される(中略)

 (これを)多数者の専制という。で、この専制というのはトクヴィルはこうも言ってるんですよ。昔の独裁者の専制というのは、少数派とか反対派を黙らせるために、火あぶりにしたり弾圧したり、暴力を行使したワケですね。ところが、民主主義における多数者の専制というのは、そういう武力、暴力はいらないって言うんですよ。じゃあ、どうやって少数派を黙らせるか?皆で無視すりゃいいって言ってたんですよ。

 皆で無視して、いくら少数派がワーワーワーワー言ってもシカトすればいい。そうすれば少数派は、そのうち自分の意見を言うのに疲れて嫌になって勝手に黙るだろうって言ったんですね。これが、社会学に応用されてって沈黙の螺旋って理論があるんですよね。」


 先日、ニコニコ生放送で、My日本の会員の梅園さん(現在 野田総理BKDという名前でニコニコ生放送をやっている)とスカイプで雑談放送をやっていて、俺が
「いやー、日本のある種のコミュニティーっていうのには、すごく嫌な側面がありますよね。大体において、何かはみ出し者が出てきた時には、それを皆で一斉に叩く。その時に、そのはみ出し者とみなされた人間がどんなに頑張って何を言おうとしても、結局、数の論理で押し切られて、その主張はほとんど実質的に無視される。それでいて、多数の側に付きながら、そのはみ出し者をバッシングする事で、お手軽に、自分は正義の側に立つ事が出来る。これぞ、多数派の意見こそが正しいという民主主義教育の素晴らしい成果だと思いますよ。」
と言ったら、梅園さんは
「うん、結局、この民主主義的な考え方とイジメってのは同じ構造なんだよね」
と答えた。

 確かに、この二つの構造はそっくりである。ただ、それが多数派の意見、あるいは選択であるという事実のみに基づいて、どれだけトチ狂った選択をも受け入れるという点などは全く同様の病理と言って良いだろう。

 かつて、俺が小学生や、中学生だった頃には、よく先生たちが
「イジメを無くしましょう!!イジメを見て見ぬふりをするのも同罪です!!」
などと言っていたものだが、一方では、普段から、民主主義が大事だの、皆の意見を集めてそれに従う事が大事だのと、要は、長いモノには巻かれろ的な処世術しか教えてこなかったくせに、このようなハードな状況(イジメられっ子を助けると、今度は逆に自分がイジメられるかもしれない)において、唐突に
「見て見ぬふりも同罪です!!弱いものを助けましょう」
などと言ったところで、何の説得力も影響力も持つ事はない。ただただ、子供ながらに(明確な論理構造は分からなくとも)なんとなく「胡散臭いなぁ」「綺麗事を言っているなぁ」という印象を植え付けるだけであろう。

 結局のところ、イジメ問題が浮上するたびに、毎度毎度「イジメを止めよう!!」とか、あるいは「イジメに打ち勝とう!!」みたいな事が言われたりするものの、多数派の意見こそが正しいという(低劣な意味における)民主主義的な考えが理想だとされてる教え込まれている限り、あるいはそれが社会的なコンセンサスとなっている限りそのどちらも実現しないだろう。

 多数派の意見が正しいなら、何故、「みんなが苛めてるのに」自分がそれに加担するのが悪い事なのかを理解しようもないし、苛められてる側も、「多数派が正義」という発想から抜け出せない限り、それに打ち勝つなんて事は到底不可能。まして、自分が不利になることを覚悟してでも苛められている子供を助けるようなことなど出来るはずもない。

 日本では、もともといじめられっ子だった子が、いじめっ子に変わるってパターンが多いと聞くが、1度このような構造が思考のベースになってしまえば、少数派になって苛められるか、多数派になって、少数派を苛めるかという二者択一しか(頭の中の)選択肢がなくなるというのは、全く自然な現象であると思える。

 結局、イジメに打ち勝つための思考というものがあり得るとするならば、それは唯一、自分が圧倒的に少数派であり、同時に多数派からどれほど否定され、どのような仕打ちを受けたとしても、自分こそが正しく、多数派の連中こそが愚かであり得るのだという自意識。あるいはそのような状況において、自分一人でも真実を貫き通すのだという強烈な意志こそが求められるのである。

 結局のところ、穏便な方法で、皆仲良くハッピーな生活で、イジメの無い社会などは実現できない。ある種の強烈な意志の対立的な構造においてのみ、それは克服可能であると俺は信じる。

 もっとも、現在のぬるま湯のような社会や教育の構造において、それぞれ個々人にそれほど強烈な意志力、自意識の強さなど求めるべくもないかもしれないが。

 しかし、それでも、少しずつでも、このぬるま湯のような教育や社会の構造を改善するよう努力する必要はあるのだと思う。


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2013年04月10日

『トクヴィルが見たアメリカ 現代デモクラシーの誕生』(著 レオ・ダムロッシュ 訳 永井大輔 高山裕二)を読んで・・・



柴山桂太「それから、後で言うかもしれませんけどトクヴィルっていうね、19世紀のアメリカの人は、建国後のアメリカをちょっと見聞して、アメリカ人の習性なり、アメリカ社会の特質なりを書いた、現代にもこれ以上のアメリカ論はないっていうくらいの凄まじい傑作ですけれども。その本の第一部の後半で、こう言ってるんですよ。
 おそらく一九世紀においてヨーロッパの世紀は終わって、二〇世紀にはアメリカとロシアが世界を半分ずつ分け合う時代が来るだろうって、完璧に当たってるんですよ。
 僕は、なんか学問っていうのは、これを僕が言うのもおこがましいですけど、本当に極めるとなんか物凄い予測力って言いますかね、何か歴史というものの、本当に根本の何かをつかまえると物凄く未来っていうものに対して、かなり、もちろん大雑把ですけど、的確な見通しっていうものに辿りつくんじゃないかなって気がしてるんです。」


 俺は、トクヴィルの『アメリカンデモクラシー』は読んでいないのだが、この『トクヴィルが見たアメリカ 現代デモクラシーの誕生』という本の中に、柴山桂太さんが指摘した箇所であろう記述が引用されていたので紹介したい。

 アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、ロシア人のそれは兵士の剣で行われる。目的の達成のために、前者は私人の利害に訴え、個人が力をふるい、理性を働かせるのにまかせ、指令はしない。後者は、いわば社会の全権を一人の男に集中させる。一方の主な行動手段は自由であり、他方のそれは隷従である。両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。(『アメリカのデモクラシー 第一巻』)

 これが書かれたのが1835年なのだから、その予見力は恐ろしいものがある。特に、この二つの国家が力に加え、それぞれの持つイデオロギーによって世界の半分を手中に収めるという予測はまさに正確な予測であるように思われる。西側資本主義圏、東側共産圏という言葉はそれを典型的に示している。

 残念ながら、Gゼロなどと揶揄される今日の世界は、この東西冷戦構造のように、ハッキリと分かりやすいカタチで世界の構造を区分けすることは出来ないだろう。しかし、それでも、いやむしろだからこそ今日の国家にとって何かしらの予見力あるいは、そこそこに的確な見通しを持って、様々な現象に対処するという重要性はますます高まっているだろう。


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2013年04月08日

踊ってみたの新作動画投稿しました!!



↑ブレイクダンスをやってる友達と撮ったんで、結構勢いある感じです!!今までで一番お気に入りです!!

 ニコニコ動画のいわゆる「踊ってみた」は、結構決められた曲で、決められた振り付けを踊るというのが一般的なのですが、今回はあえて、フリーパートの多い振り付けを選びました!!再生したり、コメントしたり、マイリス登録とかしてもらえると凄く嬉しいです+。:.゚ヽ(*´∀)ノ゚.:。


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2013年04月06日

偽善は、悪徳であるのか?

 前回、書いた記事(『TPP参加擁護の欺瞞』http://achichiachi.seesaa.net/article/351555047.html)では、最後に

>日本のこれらの臆病さ、精神的知的なひ弱さから正直、偽善や自己欺瞞もまた治癒が極めて困難な滅びの兆候なのではないだろうか。俺には、そのように思えてならないのである。

と書いたのだが、今回は、この偽善について、果たしてそれは悪徳であるのか?また悪徳であるとするなら、なぜ悪徳であるのか?について考えてみたい。

 今回は、まず偽善をむしろ積極的に進める論を紹介することにする。

 じつは、一九五〇から六〇年代に活躍した日本の学者や評論家には、偽善をすすめたり、その効果を高く評価している人が何人もいたんです。
 詳しく引用しよう・・・と思ったのですが、それは宿題にしましょう。偽善に味方した人の名前だけあげておきますと、丸山真男、中野好夫、福田定良、中村光夫、三島由紀夫など。(中略)
 彼らの意見を読んで、あらためて偽善というものについて考えてみてください。さらに余裕がある人は、なぜ70年代以降、偽善をすすめる人が減ってしまったのか。その理由を考えるのもいいでしょう。
(『13歳からの反社会学』著 パオロ・マッツァリーノ p282)


 ちなみに、ここで名前を挙げられているうちの一人である三島由紀夫は、『文武両道と死の哲学』と題された福田恆存との対談の中で、偽善についてこのように述べている。

三島 ぼくはね、福田さんの考えているのね、非常に美しいところだと思ふけど、ぼくは、敵がこれだけ偽善を利用しやがつたんだから、こつちも偽善で行かなきやならんといふ戦術的な考へになつちやつた。といふのはね、美濃部都知事といふものは、最も美しい偽善の象徴だよね。あそこまでいつちやつたんだよ。ウソでね。つまりあれがいまの国民の平均的な感性と密着しています。日本的感性と密着している
 つまり、われわれは平和をまもりませう。平和憲法を守りませう。九条は絶対に守らなければなりません。新島を基地にすることは、日本の美しい風土を汚すことになるでせう―ニコニコ、ニコニコして―だからわれわれは、どうしても基地に反対しませう―ニコニコ、ニコニコして―さういう日本的なものとソシャリズム(社会主義)との結合形態が、こんなに効果を発揮しているところならば、もう一種の対抗的にだね、そんなわれわれも偽善で行かうぢやないかとふ気になつちやう。そして偽善の効用といふものを、もつと徹底的に利用したらどうだと。そして偽善に対するにシンセリティー(誠実)をもちだしたら、シンセリティーは傷つくにきまつているんだ。シンセリティーは大事にとつておかねばならん。(中略)

 しかしぼくは、“おかはいさうに”を、こつちでつかまにやいかんと思ふね。つまり、戦争中でもアメリカの捕虜に、“おかはいさうに”と言つた女がいた。さういふ女がいて、軍部がおこつたけど、おこつた軍部は負けだよ。アメリカの捕虜を“おかはいさうに”と言つた女が勝つちやつて、この二十年間そのまま勝つちやたんだ。
 ぼくは、あのときから思つているんだが、“おかはいさうに”といふやつをこちらへちつちやはなきやいかんと。
 いまは、“おかはいさうに”と、せつかく日本人のうるはしき人情をだね、向かうがとつちやつた。“ベトナムがおかはいさうに”“美濃部さんがおかはいさうに”“原爆がおかはいさうに”。“おかはいさう”を全部向かう様でとつちやつちやつたよ。それをこつちへとり返さなくちや。
(『若きサムライのために』著 三島由紀夫 p223)


 俺は、三島由紀夫の本を、ほとんど読んだ事がないので、この文章の他にも、偽善を勧めている文章があるのかもしれないので、なんとも言えないのであるが、少なくともこの文章を読む限り、三島は真に積極的な意味においては偽善を勧めているワケではないように思える。ある種の便宜、つまり相手が偽善を活用しているのであれば、こちらもそれを活用しようではないか、偽善に対して、真っ向から誠実をぶつけるのであれば、その誠実さは確実に傷つくならば・・・という代替案、次善の策としての偽善の活用を提唱しているように読みとれなくもない。

 もちろん、三島が想定したような、左翼との対決という文脈においてのみではなく、より日常的な場面においても偽善というものは、適切に用いるならば社会を円滑に回していくための潤滑剤となる。「他人にケチと思われて、悪い評判が立ったり、嫌われたりしたら面倒であるから」良い事をする。「本当は、それをしたとは思わないけど、この人には借りがあるので」親切にする。どちらも大いに結構である。むしろ、それをするのが社会的に正しいような行為であれば、「本当は、やりたくないけど」やるというのは正しい行為である。そもそも、そのような社会的に望ましい規範や義務というものは、大抵は、大変であったり、辛いものである。それを大変だから、辛いから、やりたくなからしないというのは、全く間違っている。

 そのような意味においては、偽善は必ずしも悪徳であるとは限らない、しかし、偽善が人間の精神や社会を蝕む病とならないためには一つの条件を必要とする。同じ対談の中で福田恆存はこのように言っている。

 さういふ意味で、いまの憲法をそのままにしておいて、自衛隊をつくつても合憲、何をしても合憲、核兵器を持っても合憲といふやうなことをやつていくのは、縄抜けではなくて籠抜けになつてしまふんだが、これはある意味で言ふと日本的なんだ。問題はこの日本的であることの弱点と長所なんです。ある面では、日本的であるといふことは長所でもあるんだけれど、そこから偽善が生まれるんだな。現状のままで自衛隊合憲説を唱えていると、はじめのうちは嘘と意識していても、そのうちに本当にそんな気になつてしまふ。理想はやつぱり武装放棄にあると思つたりし始めちやふ。
 かういふ道徳的鈍感が恐ろしいんだが、その偽善を正当化する最後の根拠があの憲法に出てると思ふんだ。革新派だつて、あんなもの信じてはいないからね。その点はかれらも偽善者さ。すべての偽善の発生は、敗戦のときから始まった。憲法もその一つ。それから原爆反対運動もさうなんだ。日本人だって原爆つくりたかつたんだ。つくらうともしてたさ、つくれたら先に使つたよ。先につくれなかつたから、先にやられちやつただけだよ(笑)。それを日本は、まるで良心的であつたかのやうに、ヒューマニストであつたかのやうに、世界唯一の被爆国だ、なんて妙なことを自慢の種にしはじめる。戦争中と同様、鬼畜米英とくる。ぼくは、さういう偽善をなんとか直さなきやいかんと思ふんだ、日本人の道徳観を。(中略)
 1番困るのは、偽善であることを自分ではチットも意識しない人種がふえてくることなんだよ。
(p222)


 俺としても、この福田恆存の意見には、全く同意である。最初は、便宜として使っていたはずの偽善がいつの間にか、偽の善であるという意識が薄れていき、しまいには、偽善がその人物を飲み込む。知性の欠如か、自己欺瞞か、あるいは単なる忘却がそうさせるのかはわからないが、とにかくも、最初は意識していたはずの偽善がいつのまにか、その人物の体質と一体化してしまう。

 多くの場合、偽善は容易に自己欺瞞と結びつく。常に自分自身を批判的に眺める事が出来るだけの、並はずれた知性と精神力と注意深さがない限り、そのような事態を避ける事は不可能に近い。

 オルテガは『大衆の反逆』で「馬鹿は、邪悪な者より始末が悪い。邪悪な者は、ときどき邪悪でなくなる時があるが、馬鹿は一瞬たりとも馬鹿でなくなる事がないからだ」と書いた。なぜ、邪悪な者は邪悪でなくなる時があるのに、馬鹿はいついかなる時でも馬鹿なのか?それは、おそらく邪悪な者は、自身の邪悪な性質を自覚しているのに対し、馬鹿は自分の馬鹿さを全く自覚しない、人間は自覚しない性質を反省など出来るワケがない。

 偽善の問題に話を戻せば、そもそも、自分が善良であると信じるなら、誰がわざわざその善良であるハズの自分自身に疑いの目を向けるだろうか?

 もしかしたら、三島はこの対談を行った時点では、ある種の人間が、賢明にも自分の中にある偽善というものを飼いならしそれを有効に活用することすら可能であり得ると信じたのかもしれない。しかし、結局は、その後、三島が書いた次のような事態を招くだけの結果に終わったというのが正当な評価であると思える。

「二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら」
(1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」『果たし得てゐない約束』)


 結局、日本人は、「自分が善良であると信じたい」という抗しがたい欲求に負け、自分自身の偽善に目をつむった。

「二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」

 文章の最後で、このように日本の将来への絶望を吐露しているが、このようなどうしようもない事態を招いたものの本質こそ、まさに偽善と自己欺瞞の結合なのではないかと俺は考えるのである。


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