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2012年06月29日

消費税問題についてアレコレ・・・

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 ニコニコ生放送で消費税問題について、語ったので聞いてもらえればありがたいです(プレミアム会員のみ1週間アーカイブの視聴可能)。

消費税問題を切る放送!!(1)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv98277963?ref=community

消費税問題を切る放送!!(2)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv98283490?ref=community

消費税問題を切る放送!!(3)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv98293738?ref=community

 今回の消費税問題に関しては、言っておきたいポイントはいくつもあるが、真っ先に思ったのは「自民党は馬鹿な判断をしたな」という事。

 評論家の中には、「自民党は次に衆議院の選挙を行って、自分たちが政権復帰する前に、このやっかいな消費税問題を片づけておきたいのだ」などと言っている者もいるが、これを真に受けて
「そうだな、民主党政権である今のうちに消費税増税を決定してしまった方が都合が良い」
などと考える議員がいたとしたら、全くもって愚かだとしか言いようがない。理由は簡単で消費税が実際に上げられ景気に悪影響を与えるのは2014年以降、つまりは、自民党が政権復帰しているであろう、まさにその時に景気が悪化するであろう確率が非常に高いからである。自分たちが政権を担当している時期に、景気がみるみる悪化していくような状況で、
「いや、今現在景気が悪化しているのは、民主党政権時代に消費税増税を決定させたからだ!!」
などと言い訳したところで、
「そうか、それなら仕方ない、自民党は悪くないのだ・・・」
などと納得してくれるほど、国民はお人好しでも馬鹿でもない。衆院で消費税増税に全員で賛成したのは自民党であるし、何より、おそらくその時には民主党など党ごと空中分解して無くなっているであろうから。

 おそらくは失業率の上昇と、自殺数の増加を伴うであろう、景気の悪化は、どのような言い訳を並べ立てたところで、そんな努力も甲斐無く、政権の支持を失わせるだろう。

 そして、一方の民主党からすれば、増税決定による支持率の低下など蚊の食うほどにも気していない。何しろ、連中はいくら馬鹿で愚かでも、まさか増税が実際に行われる2014年2015年に自分たちが政権与党でい続ける事などあり得ないと理解できる程度の脳みそは持っているのだろうから。

 民主党の間にやっかいな消費税の問題を片づけておきたい自民党に。どうせ、消費税を増税させて景気が悪化した時には、自分たちは解体してるから関係ないと思ってとにかく増税を決定しておこうとする民主党・・・結論はどっちもクソで、馬鹿で、愚かである・・・

 それにしても、自民党の立場は、今回の全員賛成でややこしい事になった事は間違いない。一部報道によると、どうやら民主党の増税に反対を投じた造反組は地元選挙区で英雄扱いされ、一方で、賛成に投じた議員は国賊扱いされているとも言う。こんな状況の中で、もちろん、国民は自民党の衆議院議員が皆で消費税増税に賛成を投じた姿を見ている。

 さらに、問題はこれだけにはとどまらない。例えば、今現在自民党が、次期衆議院選挙のマニュフェストに掲げることを決定した国土強靭化法案(http://fujiisatoshifan.blog.fc2.com/blog-entry-148.html)という政策があるが、これの内容は東北復興及び、今後高確率で起ることが予測される大規模地震災害に備え、集中投資機関として今後10年間毎年20兆円、合計200兆円規模の復興事業及び、災害対策事業を大々的に行おうという計画である。

 非常に、優れた政策であるのは事実だが、このタイミングで、これを選挙公約として扱うことには、大変な困難が伴うことが予測される。
 例えばこちらの記事

自民党が「ガンダム」開発計画 ネット仰天、「消費税を使うのか?」「ふざけるな!」
http://www.j-cast.com/2012/06/26137112.html?p=1

↑具体的な内容は良く分からないが、当然の事ながら、消費税増税決定直後にこのような提案をした事で「こんなふざけた事に、増税した消費税のカネを使うのか?!」という批判も出ているという。当然ながら、国家の予算が賄えないととして、増税を衆院で可決した直後であるだけに、国民の予算に対する視線は、今後一層厳しくなることが当然に予想される。

 そんな、状況での、200兆円規模の集中的な公共事業への投資である。これがいくら正しくとも、マスコミのが取るであろう反応は容易に予測が出来る。

「増税した消費税のカネを土建屋にばら撒くのか?!」
「やはり自民党は旧来の利益誘導型の政治から脱却できていなかった!!」
などと徹底的に喚き立て、挙句の果てには
「旧来型の自民党政治には期待できない!!ここはひとつ、みんなの党の公務員改革に期待したい!!」
「若い力、新しい力が必要だ!!維新の会が、国政に新しい風を吹き込む!!」
などと言って、キチガイ集団共を持て囃す事は目に見えている。

 さて、このような状況で、なお正論を主張し続ける事。つまり
「とにかく、東北復興が最優先課題だ!!」
「今後の震災対策として、大規模な災害対策用の公共投資が不可欠だ!!」
「このデフレ不況を脱出するためには、積極財政を行うしかない!!」
などと言い続ける事は非常に困難だ。 同じ選挙区のノータリンみたいなアホ面した議員が、
「改革だ!!」
「道州制だ!!」
「経済特区だ!!」
などと騒ぎて、それをマスコミがこれでもかという程に大げさに取り上げて、持ち上げ、どんどん選挙区内での知名度も上げていくのを横目にしながらであれば尚更である。

 たとえ、どれだけ間違っていても、国民の選択により、政治家が決定されるのが民主主義のルールである。非常に困難な状況である事は理解しつつも、願わくば
「全く、みんなの党や、維新の会の絵に描いた餅のようなふざけた政策を支持する国民は、馬鹿で愚かだ!!」
などと言って、前回の衆院選同様に、国民にそっぽを向かれるようなヘマだけはしなければと思っている。

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2012年06月27日

『心の専門家はいらない?』を読んで・・・

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 色々検索してたら、昔自分が書いた文章が出てきた。4年前に書いたものだが、「なかなかしっかりした内容の文章を書いていたではないか!!」と思ったので、再度掲載してみる・・・


http://achichiachi.seesaa.net/article/80320042.html

先日『「心の専門家」はいらない』という本を読んだ。

内容的には現在のカウンセリングの問題点について指摘したものだが、セミナー、コーチング等にもそのまま当てはまる内容であったのが興味深い。

著者は元カウンセラーであるが、15年ほどカウンセリングの仕事をしていく中でこの学に疑問を持ち、しだいにはっきりとした批判の立場に移っていく。


著者がカウンセリングというものに疑問を持つきっかけの一つが、自身が初めてカウンセリングを受けたときに感じた違和感である。

「ある女の子の遊戯治療を担当していたとき、わたしは初めて自分がカウンセリングを受けることになった。
週1回の「治療場面」で相手の子供に混乱させられていたわたしは、指導を担当してもらっていた心理学者に助言を求めたのだった。その心理学者は、当時のカウンセリングの主流を占めていたC・ロジャースの非指示療法の手法にもとづいて、初心者研究生であるわたしの悩みを静かに聴きわたしの言葉と感情を鏡に映し出すように明確化しながら、わたしに返しつづけた。するとわたしはみるみるうちに自分の解答を見いだして、1時間ののちには「よくわかりました」と納得した。なんだか、魔法にかかったように、答えを探り当てたのだった。
(略)
いまのあの場面を、わたしはようやく説明する言葉を得ている。あれは模範的なカウンセラーと模範的なクライアントが作り出した場面だったのだ。どのような場面かといえば、権力関係の中で、クライエントが「相手に望まれる答え」を迅速に探り当てた場面である。恥をさらす気分だが、わたしはカウンセリング場面の期待に答えて「すぐれたクライエント」を演じ、暗黙に求められている答えを、わずか1時間で自発的に出したのであると思う。」(前掲書)

かなり、長い引用になってしまったが。これが、たいていの人にとってのカウンセリング(又はコーチング)を受けた時の正直な実感である。

色々とセミナーやらワークショップやら受講する過程で、個人的にカウンセリングやコーチングを受けたこともあるのだが、正直
「うーん、どうなのコレ?」
と、思うことが多い。
俺の場合は
「まあ、あんまり意味なかったけど相手の気分を害さないために、適当に褒めよう」
と思って。感想を聞かれたら大抵
「うん、良かったと思います。」
と答える。

特に、短期間で何かしらの成果があげられる事を期待され
「わずか1時間のコーチングで、こんな素晴らしい効果をあげられます」
と宣伝しているコーチには、この辺りのこともよく考慮して欲しいと願う。


この本は、他にもカウンセリングの問題点に社会学的・心理学的にアプローチしているのだが、何よりもカウンセリングの構造的な問題点を驚くほど客観的かつ的確に捉えている点に感心した。

2章の『「心の専門家」とその問題点』でカウンセリング技法のことを、はっきりと問題をずらす技法であると述べている。

「相談の場を自ら訪ねるクライエントの側は、相手が身方として自分を援助してくれることを期待する。一方カウンセラーは、さまざまな生活場面で発生する「困りごと」を「本人の内面=心」に焦点づけて扱いやすい形で管理する役割を負っている(略)
本人の生活全体に起こっている問題が心の問題に置き換えられ「深め」られ、本人自身の内面で問題が解消していったとき、カウンセリングは成功したと評価される。本人の周囲の状況は、依然として問題であったとしても。」

ちなみに、この「ずらし」はカウンセリング技法の中に構造的に組み込まれているという。

「ここで重要なのは話された内容や事柄ではなく、話している当人の感情である。感情に焦点化する作業が技法の根本にある。
たとえばある女性が「夫を許すことはできません!」と叫んだとする。日常生活であれば「どうしたんです、何があったのですか」と返す人が大部分であろう。一方「ご主人に対して怒っているんですね」と、感情に焦点を当てて返すのが、カウンセリング的な応じ方である。」

一般の対話であれば、基本的に問題となる事柄は3つ「自分」「相手」「事柄」である。日記を書く行為や思索であれば「自分」「事柄」の2つが問題となる。しかし、カウンセリングの場面では、「自分」のみが問題とされる。
つまりは問題を個人の内面に押し込める技法ともいえるだろう。
この技法大きな特徴の一つは、周囲は安泰であり現状を変える必要が無いところである。


少し前まではナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」。現在では「ザ・シークレット」が、自己啓発マニアやセミナーオタクの間で流行しているが、これらもカウンセリング等の問題点とよく似た問題を抱えている。
周囲の状況から切り離された思考は、ただの空想にすぎず、何の意味も持たない。

この『「心の専門家」はいらない』や『フロイト先生のウソ』は、心の専門家を自称する全ての人にとって必ず読んでおくべきリストであるとは思うが、まあ彼らがこのような本を手に取る可能性はかなり低いだろう。
人は得てして、自分の持っている世界観から反する価値や思想を受け付けないものであるから。



「周囲の状況と分離されたパーソナルな心理学や哲学には何の意味も無い」などという主張は、まさに今現在の自分が言っている事のまんまではないか・・・案外4年くらい経っても人間の頭の中なんて、そう大して進歩しないのではないのかもしれない。なんとなく、今俺が考えていることや書いてる文章の内容の基礎はやはり過去に学んだ事柄にあるのだなと再確認できた気がした。

 実は、昔は心理学の本を読むのが好きだったのだが、「フロイト先生のウソ」や「危ない精神分析―マインドハッカーたちの詐術」いった類の本を読み、さらには何人もの自称心理学の講師のインチキくさい講義を聞いてるうちに、どんどん心理学が嫌いになっていって、そのうちに政治とか経済とかに興味を持つようになったという過去の経緯を思いだした・・・

 今現在、再び、心理学や哲学に対する興味が復活してきたという事を思い、ふと、「この時から、ずっと心理学に対して興味を持ち続けていたら、もっと深い洞察を得ていたのではないだろうか?」などと思ったりもするが、しかし、同時に当時から「周囲の状況と分離されたパーソナルな心理学や哲学には何の意味も無い」と考えていた以上、やはり政治学や、経済学、社会学といういわば構造面から世の中の仕組みについて深く考えるようになっていったのもある種の必然だったのかな?とも思える。

 そのようなに考えた時、ある意味で、面白いなと感じたのが、当時は、心理学について勉強をしていて、「現実の社会や、周囲の現象との関係性を無視したパーソナルな心理学など無意味だ!!」という結論に達し、そして、次に経済学や、社会学について勉強をすると、今度は「個々の人間の心理や特性を無視した、経済学、社会学は無意味だ!!」という結論に達したという事である。このような説明のみを見れば、「そりゃあ、そうだ!!」と簡単に納得出来るような結論であるだけに、逆に実際に自分で勉強をした上で、それを実感できたことは、たとえ時間がかかったとしても、効率的でなかったとしても、やはり意味のある体験、必要な実感だったのだと思う。


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2012年06月26日

社会貢献を行う上での望ましい心構え・・・

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 前回の記事(『E・トッド『デモクラシー以後』を読んで・・・〜理想的な活動家について〜』http://achichiachi.seesaa.net/article/277114516.html)では、社会活動、社会貢献といったものに精を出す善良な市民が陥りがちなナルシシズムを批判し、社会貢献を行う上での望ましい心構えというものについて考察したつもりであったが、そのような記事を読んだ方から、このようなコメントをもらった。

 どうも最近のカツトシさんの言説は統計的裏付けに基付かない自己肯定の為の観念論になっていて残念です。(中略)カツトシさんが否定している人たちも選挙権を持っている国民だということを考えないと、全く無意味な遠吠えに、つまり、視野狭窄になります。あと、全ての人間に賢明さを求めるのは間違ってます。愚者と賢者は共存しているものであり、そこをまず理解しないと自己肯定論以外の何ものにもならないのではないかと思いますよ。

 ふむふむなるほど視野狭窄か・・・と。哲学というものは、そもすれば一歩間違えだけで、一般的な道徳観念から大幅に外れたユニークな道徳観を、如何に明快で筋道だっている確固としたロジックを用いて構築するか?を競うという、極めて不合理かつ非実用的な学問に陥ってしまうような危険性があるように思える。

 簡単に言えば、思索と現実との乖離と言えるが、例えば、三橋貴明さんなどは、そのような乖離を引き起こさないためのある種の重しとして、統計データというものを活用している。おそらく、経済学などは、そのような明らかに間違った学問的作法と、一方で如何に実用的、日用的、実践的な学問に近づけようとする努力とのせめぎ合いが起きているのだろう。

 俺が、ポランニーや、E・トッドの本などを読んで、そのような思索と現実の乖離現象を抑えるための重しとして活用できるのではないか?と考えたのが、現実の人間や、人間が生活する社会といったものを前提とするための、ある種の社会学であり、パーソナルな哲学のようなものであったのだが、一方で、哲学も哲学で、それ自体が経済という現実の現象や、統計データに基づかない限り、やはり一種の現実との乖離を引き起こすのかもしれない。俺自身が、ある意味での理想的な心の在り方というものについて考察する中で、もしかしたら、そのような乖離を引き起こしていたのかもしれないし、少なくとも、そのような現象が明らかに起きていると感じた人もいるのだろう。

 実は、今現在俺が考察を行っている問題は、ワリと昔に、もしかしたら中学校の時に読んだ本であるかもしれないが、加藤諦三さんがある本で提起していた問題「家事をほっぽりだして、子供の世話もロクにしないのにボランティア活動や、社会貢献活動に精を出す主婦」というもの問題の変形なのかもしれない。つまり、加藤諦三はこのような主婦の生活態度をオカシイと批判したワケであるが、俺が問いたいと思ったのは、では、この主婦がきちんと自分の家の家事も子育てもしっかりとこなす立派な主婦であったとしたらどうなのだろう?という事なのである。

 このような問題について考察するために、ナルシシズムという概念が不可欠だと俺は感じたのであるが、それについて考えるためにトッドは
>それにしても、健康な肉体を維持し、セックスに励み、美術館巡りをすることは、それほど理性にもとる、軽蔑すべきことなのだろうか。
と疑問を投げかけた。俺が考えようとしたのは、「立派に、家事と子育てに励み、その傍らで社会貢献活動に精を出す主婦は、それほど批判されるべきなのか?」という問題だ。

 「そりゃー、立派に主婦の仕事をこなした上で、社会貢献に精を出すならさぞかし立派な人間だろう!!」となるワケだが、俺の結論からすると、「それが正しいとされるには一定の条件が必要です」となる。もはや、普通の人からすれば、「んなどうでもいい事考えてる暇があったら、少しでも世の中の役に立つ活動しろよ!!」となるのだろうが、俺にとっては、そんな普通ならどうでもいいと思えるような事が物凄く重要な問いになっている。

 いわゆる、日本国内の政治的な話題のなかで、それなりに高度な議論や、考え方のヒントは、存在している。しかし、一方で、そもそも政治に関わったり、その周辺で活動をする上で、如何なる心構えを持ってなすべきか?つまり、ありていに言えば、何故、政治に関わるのか?何のために、それについて学ぶのか?という問題だが、これほど基本的な問題に関して意外な程に議論がされてこなかったのではないか?あるいは、あまりにも安易に、無私の奉公を期待し過ぎたのではないか?というのが俺の思いであり、それを少なくとも、自分なりの気持ちの整理としてやっておきたいというのが、俺の現在の心情なのだ。しかし、残念ながら、そのような思索について文章としてあらわす事が、ある種の自慰的で観念的な理想論と捉えられてしまうのも、まあ止む無しと思えるワケである。


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2012年06月25日

E・トッド『デモクラシー以後』を読んで・・・〜理想的な活動家について〜

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 前回、書いた記事(『社会的活動と自己実現の関係性の問題・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/276959983.html)では、社会的活動と、自らの自己実現をする、言い換えるならば、自分自身の内的な葛藤の解決を、自分以外の人間や社会を巻き込む事で図ろうとする人間を批判したワケであるが、実はこのような記事を書いたのにはワケがあって、それが何かというと、先日、読み終えたE・トッドの本『デモクラシー以後』に書かれた、理想的な活動家への皮肉を込めた批判文章の、俺なりの解釈と整理を行いたかったためである。

 トッドが、理想的な活動家への如何なる批判を行ったのか?少し長いが文章を引用してみたい

 以下は、リール市の社会党の戦闘的女性活動家による、自分の所属する支部の描写である。彼女はフランス
テレコム上級管理職だが、彼女の支部は、かつての社会党の地盤の労働者地域の核心部にある。

 ここでは従来からの区別は、一方にちょっとブルジョワのインテリがいて、もう一方に民衆的なのがいるということです。それは活動家によっても違うし、とりわけ支部によっても違います。こう言うと、ちょっと戯画化してることになるかな、と思いますけれど。でも同時に、私たちのところはインテリの、管理職の、教授たちの支部で、それは否定できません。実のところ、民主的な活動家というのは、私はうちの支部にいる数人しか知りません。しかし彼らが仕事をしている様を見れば、他のところでもどんな具合なのか想像がつきます。・・・三、四人います。みな親切で、何でもやってくれる重宝な人たちで、いつでもいます。・・・支部の下働きのお針子といったところですが、でも活動家というのは本当にそんなものでしょうか。拍手をしたり、賛成したり、サンドウィッチを作ったり、ワインの栓を抜いたりすることでは、彼女たちは働いてくれます。でも討論の場で、何かを考えなければならないとなると、もう誰もいません。・・・そりゃたしかに彼女たちは陣地を守ってくれます。彼女たちがでんと構えている。しかし陣地というのはそれ自体が目的ではありません。思想がなくては、何か言うことがなければなりません。・・・私に言わせれば、活動家というのは、じっくり考え、話し、文を書き、議論をし、意見を言い、考えを主張する人間の事です。ワインの栓を抜く人間のことではありません。・・・

 彼女のような理想的な活動家こそが、とりわけ国民戦線の出現を助長し、その後はサルコジ主義を助長したのである。なぜなら左派から民衆諸階層を積極的に排除したのが、この理想的活動家なのだから。
 それにしても支部活動の変貌についての描写は、目覚ましいまでに正確である。かつての活動家は、民衆タイプの者であれ、教師タイプの者であれ、教義に対しては受動的な関係にありつつ、自分は党のために働いている、大義のために働いている、と考えていた。件の近年の女性活動家は、かつては教師タイプの者までがそうであったことを知らない。しかしこうした活動家は、ポスター貼りや、ビラ配り、政治集会やフェスティバル―これには有難いことに、サンドウィッチ作りやワインの栓抜きも含まれる―の開催などを通しての普及には積極的だった。かつての活動家は、共同体の中で党が生き、党によって共同体が生きるようにさせていたのである。新たな活動家は、たしかに貢献するためにやって来たのだが、しかしとりわけ意見を表明するため、個人的に「自己実現」するためにやって来たのだ。社会党の支部の中で、こうした活動家は、高等教育革命によって育まれた数百万の新たなナルシシストの一人である。自分は教義の「クリエーター」であると考え、自分の「発言」の独創性が事を前進させると想像している。発言とは行動である、と考える、遂行的活動形態なのだと言うこともできよう。(『デモクラシー以後』E・トッド p119)


 実は、俺はつい先日、福沢諭吉の『学問のすすめ』を読んだばかりであり、まさにこのような「理想的な活動家」の「理想的な活動」つまり、「じっくり考え、話し、文を書き、議論をし、意見を言い、考えを主張する」ことこそが、素晴らしい創造的かつ文化的な活動なのだと考えていた(笑)福沢諭吉も、西部邁も、それから中野剛志さんはそう言っている。しかし、一方で、トッドはかの如き活動家を、明らかに嘲笑を込めつつ「理想的な活動家」であると揶揄し、彼らは、貢献を望むと同時に、とりわけ「自己実現する」ためにやってきた数百万のナルシシストの一人に過ぎないのだと指摘する。

 先に書いたような信念を有していた俺からすると、相当に衝撃を受けたものではあるが、同時に、言われてみれば非常に納得出来る指摘であり、多少の反発を覚えつつも「確かに、そう・・・かも・・・」と妙に納得させられたものである。それから、トッドは、次のような問題提起を行う。

 ナルシシズムという概念は、三〇年前にアメリカ合衆国で姿を現わし、現在のフランスでは至る所で見かけるようになったが、それは描写をするだけで、説明ということをしないのである。教育水準の上昇からは、己の責任性を自覚した、本当に上質の新たな上層階級、すなわちいつでも全体のために献身する構えの数百万の哲人たちが出現すると期待することもできたはずである。ところがわれわれが現に目にしているのは、内側に破裂した上層集団、すなわち、宗教からもイデオロギーからも無縁となり、獰猛なまでに己自身を気にかける、バラバラの個人の群なのである。彼らは肉体的、性的、美学的自己実現への執念に駆り立てられている。文化的悲観論者は、こうした風俗習慣を断罪する。多分、告発さえすれば、それだけでこの事態を変えることができると考えているのだろう。だから説明をしないのである。しかしそれにしても、健康な肉体を維持し、セックスに励み、美術館巡りをすることは、それほど理性にもとる、軽蔑すべきことなのだろうか。(前掲書 p123)

 このような新しいタイプの人間を、どのように評価すべきか?という問題は、非常に微妙な問題であるのだが、一つの判断としては、彼らの表面的な行動、つまり
>健康な肉体を維持し、セックスに励み、美術館巡りをすること
そのものについての裁定よりまず、むしろ彼ら心理、つまりそれを行う事の動機という観点から評価するという方法があり得るだろう。そのような観点からすれば、やはり彼らの心性は幼稚で目立ちたがり屋のナルシシズムから出来あがっており、これを克服する態度、あるいは心の在り方こそが、俺が前回の記事で書いたような
>自分のやるべき事を淡々と、やって、ただ死ぬべき時に死んでいく
という態度、心構えであり、トッドは、マルクス主義系列のアメリカの知識人、クリストファー・ライシュの説明を例に挙げているが、かつての庶民が持ち合わせていた、「老化の宿命と体力の減退の客観的現実性を、賢明な諦観をもって受け入れる」態度、あるいは、「共同体の存在と人間の条件という概念を受け入れた思慮分別ある個人主義」というものなのであろうと考える。

 戦後になり、教育水準の向上とともに、鼻持ちならない、軽率な進歩的文化人たちは、国家や共同体的価値観を否定するとともに、
「個性!!独創性!!創造性!!自己!!自我!!個人主義!!」
と叫び、そのような言葉を並べ立ててきた。

トッドは、
>教育水準の上昇からは、己の責任性を自覚した、本当に上質の新たな上層階級、すなわちいつでも全体のために献身する構えの数百万の哲人たちが出現すると期待することもできた
と書いたが、やはり現実に自分たちが直面している事態は、それとは全く異なったものである。この悲惨な状況の原因をどこに求めるか?という問題も、さまざまな要素が複雑に絡み合った非常に難しいものではあるが、一つには、彼らが叫ぶ、独創性や自我といったものを、自分たちがどのように慎重に取り扱い、どのようにそれと折り合いをつけていくのか?ということについて、真剣に考えなかったことではないだろうか?つまるところ、「自我だ!!個性だ!!個人主義だ!!」と騒ぎたてる連中は、その本質について深く考えを巡らせることがとうとうなかったのではないか?そのように思えるのである。

 であるならば、今後の課題はやはり明確で、一つには、ナルシシズムの克服であって、さらには、それらの価値自体が内包する弊害や危険性というものを確認することが出来た現在から、それらの本質について、もう一度一から徹底的に考えていくことであるだろう。


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2012年06月24日

社会的活動と自己実現の関係性の問題・・・

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 先日、村田春樹さんが出演したさくらじを聞いていたら、村田春樹さんがこんな事を言っていた。曰く、
「沖縄の基地問題で、散々に「危険だ!!危険だ!!子供たちが危ない!!」と叫んでいる連中がいるが、「では基地近くの小学校を移転させようか?」と提案すると、あいつらはそれには反対してくる。そんなに危険なんだったら、さっさと移転をすればいいのに・・・」
と。

 これを聞いた時には、妙に「ああ、そういう事ってあるんだろうなぁ・・・」と妙に納得してしまった。似たような現象は実は、慰安婦問題にも、反原発の問題にも同様に見られる。結局のところ、このような事が言えるのではないか?つまり、慰安婦問題で騒ぐ連中は、慰安婦問題の解決を望まない。沖縄の基地問題で騒ぐ連中は、基地近くにある小学校の移転を望まない。反原発を声高に訴える連中は、原発の徹底的な安全強化を望まない・・・と。

 なぜこのように「ある問題を解決しようと必死に活動している人間が、むしろ現実には最も、その問題に対する具体的な解決策が取られる事を望まない」などという逆説的な現象が発生するか?理由は単純である。一言で言うならば、それをされる事は活動家にとって自分の活動、あるいは自分の存在の意義そのものを否定されるに等しいからだ。

 実は、このような問題に関して俺はこのブログに以前書いた記事(『危機の思想と社会的存在意義について』http://achichiachi.seesaa.net/article/263180193.html)においても問題提起を行った事がある。この記事では、「危機の思想」というものを取り上げ、危機に対応するための思索を行うものこそが、逆説的に、潜在的に危機を待ち望み、そこで、「危機の思想」におけるもう一つの重大テーゼとなる、「何かを守りたい」とする目的と決定的な矛盾を引き起こす。という事に関しての指摘を行った。

 この時に、導き出した結論は

>(現実に)顕在化した危機がやってきたのだと考えるならば、先のような矛盾をひとまずは押し殺し、
「さあ、ようやく自分たちの出番がやってきたのだ!!」
との自覚のもと、出来る限り、全ての力を尽くすこと


であるとし、様々な過程、想定はひとまずわきに置き、現実に到来している危機への対応に集中するべきだとしたのではあるが、やはりここにおいても釈然としないものを感じていたのだと思う。特に、先に挙げた例を持ち出すならば、彼らは、自分たち自身の存在、あるいは、自分たちの活動の存在意義の縮小、あるいは消滅を拒否するがゆえに、現実的な解決手段の遂行すらも拒否するというこの上なく、非道徳的かつ、愚かな選択をおうおうにして行ってしまうのものなのである。

 つまり、自分の存在や、活動の存在意義を過剰に求めだすと、必ずある種の偽善や欺瞞に到達するのだ。そして、その偽善と欺瞞が一定の水準を超えた時点で、それ自体が、現実には極めて不合理な選択を行わざるを得ない状況へと活動家である人間を追い込む。

 であるならば、そのような陥穽に陥らず、かといってひねくれたニヒリズムや、ルサンチマンに浸る事も拒否するための、あるべき理想的なとり得る唯一の姿勢は、「自分のやるべき事を淡々と、やって、ただ死ぬべき時に死んでいく」という、これ以外にはないんじゃないかと感じた。

 こんな事、今より前の時代の人たちには、あらためて言うまでもない、当たり前の常識として受け入れられていたのではないだろうか?それが、段々と、利己的なナルシシストなガキみたいな連中が、個性だとか、本当の自分だとか言われてその気になって、何か自分がその他大勢とは違った素晴らしい本性を隠して持ってるか、あるいは素晴らしい運命が待ち受けているかのように思い、今の自分があたかも仮の姿化のように錯覚した。

 その意味で、現代は人類史上空前のナルシシズムの時代ではないかと思う。しかし残念ながら、これは映画のわき役があたかも自分が超人的な能力を持った素晴らしい主人公であるかのように勘違いするに等しい。現実を見れば、自分が天才であると錯覚している小市民ほど滑稽でかつ、自意識過剰で厄介な人間もいない。人類学者のE・トッドは、『デモクラシー以後』において、サルコジとセゴレーヌ・ロワイヤルの対決を「嘲笑にしか値しない人物同士の戦いを巨人族の闘いに演出するスペクタクル的選挙戦」と呼んだが、おそらくは、こういった小市民の錯覚もそれと非常に似た冷やかさを持って見られるべきなのだ。

 先に挙げた、現実的な問題解決を望まない活動家達は、活動の中に自分たちのアイデンティティーの拠り所を見出し、しばしば、公的活動と私的な自己実現の領域を被せ合わせよう、あるいは同化させようと企む。一言で言えばナルシシストであり、さらに問題なのは、彼らのナルシスティックな願望と、公的な利益が時として決定的な対立を引き起こすという事実なのである。

 もちろん、現代社会において、自意識の規模を適正範囲に保つ事は相当に困難であるように思えるが、それが出来ないと、いとも簡単にさっき説明したような矛盾や、あるいは滑稽さを自分の周りの全ての人に露呈することになるのであり、たとえ困難ではあっても、やはりそれこそが唯一現実的かつプラグマティックな態度、あるいはあるべき心の姿勢なのだ。


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2012年06月23日

オウム事件についてアレコレ・・・A〜ニヒリズムの進展、および深化について〜

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 前回の記事(『オウム事件についてアレコレ・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/276279647.html)で、少しオウムブームと実存的欲求不満の関係性について触れたが、今回もそれに関連する事柄について書いてみたい。

 前回は、いわゆる90年代半ばの学歴エリート達の抱えていた実存的欲求不満と、オウムブームとの関連性に触れ、その点に関してあまり掘り下げる事のないメディアの報道や言論の在り方について批判したのだが、今回は、またそのような転換して掘り下げた議論を展開してもなお、本質的な問題について追及するには不十分なのではないか?という問題を提起したいと思う。

 仮に、当時の学歴エリート達が抱いた、人生の無意味感、あるいは人生や社会に積極的な意味や意義を見出すことが出来なかった人間が数多く存在した事と、本来優秀な頭脳を持っていたハズの彼らが、異常なカルト宗教団体であるオウム真理教のもとに集まったという二つの事実の関連性についてある程度深く掘り下げたとしても、やはり俺にはその議論はどこか不十分というか、片手落ちであるような気がしてならないのである。

 かつて、早稲田大学の名誉教授である加藤諦三さんは、表層的な問題と、露見しにくいにもかかわらず深刻な問題に関して、このような比喩を用いて表現したことがある、「体に悪い食べ物をたくさん食べた時に起る肌荒れや、皮膚のできものは、すぐに分かってしまう嫌な気分にさせられるものではある。しかし、本当に怖いのは、肌荒れではなく、内臓の病気である。肌荒れは、すぐ自覚できるが故に大変な問題に発展することは、それほど多くない、しかし内臓の病気は気付かない間にゆっくりと進行し、気付いた時には深刻な事態となっている可能性が高い」と。

 この例を使って、例えるなら、オウム真理教の起こした事件というのは、非常にショッキングなモノではあったが、あくまで非常に分かり易く表面化しやすい、いわば肌荒れのような社会現象だったのではないかと思うのだ。では、この例での、表面化しにくいが、真に深刻な問題である内臓の病気とは一体なんなのか?と言えば
やはりそれはオウム事件の原因となった、当時の人々が抱いていた人生の無意味感や、実存的空虚の深刻化なのである。

「オウム事件では沢山の人が死んでるんだぞ!!それを大した問題ではないとは何事だ!?」
と思う人もいるかもしれないが、相対的に比較するなら、そこはやはり表面的に、非常に見えやすいカタチの問題に過ぎないのではないかと思えてしまうのだ。確かに、オウム事件は10人以上の死者を出し、さらに宗教テロリズムの先駆け的な事件として扱われる事もあり、社会的にも大変大きな衝撃を与えた事件であったのは間違いないのではあるが、一方で、実存的空虚の深刻化は見えにくくとも、もっとより大きな被害をすでに生み出しているであろう、というのが俺の考えだ。端的には、それは自殺者数の増加に現れる、もちろん、このようなニヒリズムのようなものが、自殺者数にどのような影響を与えたのかを正確に測る手段は存在しないし、また存在し得ないだろう。しかし、多くの人が「自分の人生に意味や意義を見いだせない人の数が増加することは自殺者数に影響を与えるだろう」という考えを直感的に受け入れてくれるのではないだろうか?

 それから、俺は現代の強欲な金融資本主義とその崩壊も、またニヒリズムと深い関係があると思っている。何かこう自分がいきいきと生きている実感や、生きている意義、確かさといった実感というものを欠乏していけばしていくほど、人は定量可能で、誰から見ても確かな客観的基準を過剰に求めだすのではないか?その最も典型的な例がお金であり、他にも、付き合った異性の数であったり、友人の数であったり、あるいははっきりとは数値化できなくても一定程度客観的要素である、社会的ステータスや、恋人の容姿や社会的ステータスであったりするでのある。非常に冷酷で冷淡な金銭至上主義も、一見不自然な程に情熱的に見える恋愛至上主義も、燃え上がるような野心的な上昇志向も、全て現代にありがちな現象であって、それぞれ非常に違った特性を持ったものであるかに見えるが、実存的空虚や、その裏返しの、確かなもの、客観的で定量可能性の高いモノを過剰に求めるという共通項で括るならば、それらもまた、同じ問題が、違った現象として表れたものに過ぎないのだと解釈し得る。

 中でも、現実的な問題として表れるのが、強欲な金銭至上主義の生んだ金融資本主義とその崩壊であるが、これもまた、如何なる手段によって金銭を得るのか?その手段は自らの生を充足し得るものであるか?といった本来人間らしい人間が持つべき、ある種のタガが外れた事の結果なのではないか?

 人類学者のE・トッドは金融資本主義の主役を担った金融家の道徳意識に対して、かのように痛烈な批判を行っている
「良き金融家、偉大なる金融家(伝記を書いたら、実に退屈な本ができるだろう)とは、本性からすれば略奪者なのであって、会社経営者もしくは経営陣の意志を踏みにじって財を獲得する時ほど生きていることを実感することはない、といった手合いなのである。金融資本は、血税を徴収することはできない。しかし、国家のように侵略を行ない、新たな領土の支配権を握ることができるのであり、工場を国外移転して数百、数千の労働者を路頭に迷わせる時には、己の行為者たちに権力観を抱かせることができるのである。金融資本主義の心性は、本質的に暴力的・暴行者的である。」(『デモクラシー以後』E・トッド)
トッドは、このように金融資本家を批判した上で、同時に、ある種のエリートの現実感の喪失や、苛立ちといったものにも言及している。

 社会の上層においては、このような金銭、あるいは社会的ステータスの追求、そして、それを望むべくもない中間層、および下層においては恋愛至上主義や、友達がいないと不安だ症候群(by明治大学教授 齋藤 孝)、さらにそれ以上の下層に至ればゲームのスコアにでもなるのだろうか?誰もが、他人に見せびらかすためのしょーもない何かを手にしようと必死にもがく。

 もっとも、現代の日本においては、これらの原因となっている心理的現象を、ニヒリズムの深化などと呼ぶのが適切であるのかも良く分からない。何かの概念を提唱する上では、大抵の場合、対立する概念を必要とする。「強さ」を語るためには「弱さ」が必要であり、「熱さ」を語るためには、それと対になる「寒さ」という概念を必要とする。

 仮にニヒリズムを虚無主義であるとするならば、それの対概念は、実存主義や哲学主義と表現され得る態度であるだろうか?そのなものは、戦後日本にはほとんど失われ、つゆほども見出すことが困難であり、であるならばその対になる概念であるニヒリズムが深刻化したなどと言っても、基準軸を失った、相当にぼんやりとした観念としか認識され得ないのではないかという不安を抱かずにはいられないのである。

 つまり、もはや、この国を全体として覆っているモノはそもそも空虚であり、何か、一方に生きる活力や情熱が存在し、もう一方の極として無気力や無意味感に打ちひしがれた空虚の存在といった在り方を想定すること自体が何かズレてるのだ。

 現実には、そんな対比は存在せず、ただただ全体を空虚が覆っている中で、ある者は、金銭や社会的ステータスを、ある者は、沢山のセックスやハイスペックな恋人を、またある者は現実から逃避して、中には異常なカルト集団に入り込む人間もいる。

 このような認識を持つのであれば、やはり10人以上の死者を出したとしても、やはりオウム事件は、非常に深刻な病のちょっとした表出に過ぎず、すでに、あまり表面化しないにもかかわらず、ほとんど改善不可能と思えるような深刻な病に侵された状況であると考えるのが妥当であると俺は考えてしまうのである・・・


↓なんか、全然考えがまとまってるワケでもなく、ぼんやりとしたイメージにそれっぽい言葉を沢山ちりばめてみただけの文章ですwあんまり真剣に読み解こうとせず、適当に流し読みしてもらえれば幸いですww


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2012年06月21日

オウム事件についてアレコレ・・・

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 先日の高橋容疑者逮捕の件で、再びにわかに話題になっているオウム事件であるが、当然ながら、各種メディアでは様々な面から解説がなされているようである。今日、ラジオを聞きながら出てきた話題は、最近の若者はオウム事件を知らないという事に関してであった。若い連中からしてみれば、「巧妙な勧誘手口により、オウムに騙されて入る事は多少理解出来るとしても、高学歴の人間が沢山自分から入っていったのは、どうにも理解出来ない」ということらしい。

 当然ながら、この点に関して、オウムを持て囃した言論人やマスコミの罪は重い、彼らが承認を与えたからこそ、ある種の安心感を持って入信した信者の数も決して少なくは無いハズである。高橋容疑者逮捕に関して、中にはしたり顔で「まあ、彼もオウムに騙されていた、という意味では被害者かもしれませんね・・・」などと語るコメンテーターもいたが。確かに、それは一面の真理であると認めるとしても、もし、彼が被害者ならかつてオウムを称賛した知識人とマスコミは間違いなく重大な加害者に違いない。

 自分が出ているTV局が、かつてオウムを称賛、あるいは出演させるというカタチで無言の承認を与えていた事実まるで無かったかのように振舞いながら、偉そうに「高橋容疑者もオウムに騙された被害者かもしれない」などと語るコメンテーターの欺瞞ときたら、相変わらず反吐が出るものであるが、まあ、彼らにも立場というものがあるし、中には養わなければならない家族を持った人間もいるのだろう。何より、彼らは、そんなしょーもないメディアの世界でしかまともに生活の為の糧を得られない程に無能である。あまり過激に責め立てるのも酷というものだ。

 また、別の見方をするならば、この時代にオウムに入った高学歴のエリートの連中は、既存の教育システムや社会システムの中に、人生の本質的な意味や意義を見いだせなかったのだろう。だからこそ、超常的な能力があるかのように思われたオウムの中に、救い、すなわち人生や意味や意義といったものの本質を求めた。だからこそ、彼らは自ら選択して(あるいは自分の意志であると思わされながらかもしれないが、ともかくも)そこに入信していった。

 ともすれば、先に挙げた、現代の若者たちの「何故、頭の良かった高学歴のエリートたちが自らの意志でそこに入っていったのか?」という問いに対しての掘り下げはそこそこに、早々に現代における新たな巧妙な勧誘の手口等々の説明をへと移り、現代の若者たちに危険なカルトへの警戒を促すといった極めて実利的な情報へと移ってしまいがちであるが、やはり、この問題について、本格的に本質論にまで掘り下げて行くのであれば、どうしても先に挙げた問題、つまり、当時の学歴エリート達が、既存の教育システム、社会システムの中に、人生の意義を見出すことが出来なかったという問題について掘り下げるべきなのではないかと思う。

 確かに、彼らは愚かであったし、あまりにも安易な道を選び過ぎた。科学で証明できない事も、科学で証明できなくても正しい事も確かにある。しかし、「俺の髪の毛を飲み込むと良い事があるから、ウン万円払って買え!!」と強制してくる髪の毛がボサボサでフケだらけの「尊師」を自称する男がいたら、誰だって、念のため、あるいは万が一を考えて疑ってみるべきだ。

 しかし、それを踏まえてもなお、彼らを世間知らずで愚かで騙されやすいナイ―ブに過ぎるおぼっちゃんであると扱うのには、俺はためらいを持つ。彼らの、現実に犯した犯罪や、現実に行ったイカれたカルト集団への入信という行為に対して、間違いを責めるのであれば、それは正しいだろう。しかし、彼らの本来的な動機、つまりは人生に何かしらの意義を求めるといった行為にまで、全く、無意味でバカな行為であると断ずるならば、絶望的な誤りを犯した彼ら以上に、俺はその断罪者を軽蔑する。

 つまるところ、彼らは、現実的な思考力、対応力といった点で、オウムを褒めそやした言論人と同程度に愚かであったと言えるのであるが、その本源的な姿勢、つまり宗教的、哲学的実存的探求、及び情熱においては、むしろ、彼らをいとも簡単に軽蔑する言論人以上に誠実であり、むしろ単に、彼らが失くした何かを、非常に間違ったカタチで体現したに過ぎないのでないか?あるいは、彼らの犯罪行為へと踏み切るその瞬間には、彼らはその何かを表現するための絶望的な叫び、あるいはあがきとしてそれを行ったのではないか?とそのようにも思えるのである。

 彼らは、ブームに乗っかって、オウムを褒めそやした連中や、自分の立場を意識的に、あるいは無意識に保護するため、かつてのメディアが犯した大罪をまるでなかったかのように、振舞いながら、「高橋容疑者もまた、オウムに騙された被害者の一人なのかもしれない・・・」などと、ぬけぬけともっともらしい事を言う連中より、少なくとも純粋ではあったし、何か人生において非常に重要なモノがあるハズだと信じたという意味では、完全なる虚無からは僅かばかり距離を保っており、それに完全に飲み込まれる事はなかったのだろう。

 もちろん、俺は、ここでオウムや、その信者の態度や、現実的な行動を肯定しようとする気など毛頭ない。ただし、少なくとも遠くから、それを褒めて、社会的な認知度を高め、ある種の承認や権威を与えるという罪を犯しながら、知らん顔して、ぬけぬけと、それまでとは全く真逆のもっともらしい正論を吐き続け、それを商売にしている極めて実利的で世知に長けた連中の方が、俺にはより不快に思えるという、ただそれだけである。


↓なんか、こういう話題になるとえらく話が抽象的になってしまってすいません・・・応援よろしくお願いします


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2012年06月20日

気分が重くはあるが・・・

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 数日前から、原発や、電力料金の問題についてブログで書くようになったと同時に、物凄い鬱と重苦しい気分を感じるようになり「なんなんだこの気分は?」疑問に思っていた。しかし、何人かの人たちが記事に書いてくれたコメントを読んで、この鬱な気分がどこから生じるのかが少し分かってきた・・・

 言うまでも無く、今のような深刻なデフレ不況下では、電力料金のコストアップは確実に中小企業の経営を圧迫し、不況を深刻化させ、倒産数や自殺者数を増加させる。脱原発とそれに伴うコスト増は確実に死者を増やす選択であり、もうすでに死人が増えるか増えないか、という深刻な問題になってしまている。

 そのような深刻な問題について語る上で「それでは・・・」と世の中の言論人の発言や、世論の意見を見ながら、そこまで深刻な問題として、この問題を取り扱って語ってる人間なんているのか?と考えた時、実際にはほとんどいないのではないかと思える。大抵の人間が、これほど重大な問題に関して、驚くほど軽薄なその場の思いつきでモノを語るようにしかかんじられないのだ。

 「子供をどうするんだー?!」「自然と国土を守るんだー!!」と叫んでる連中は、結局のところ、何一つまともに考えずに、このように現実に存在する極めて深刻な問題を全く無視したまま、平気で人道主義的なヒューマニストであるかのごとく振舞う。また「ちょっと政治的な問題について語ってる俺知的に見えるでしょ?」的なふざけた態度で得意げに語る奴もいる。そういうのを見るのが耐え難く不快に感じられるようになってきた。「東電は高給を取り過ぎててズルイぞー」などと言われると「はぁ?」としか言いようもない。

 一方で、アカウンタビリティー、つまり東電の説明責任に不完遂について責める人もいるようだが、それはそれで問題であると認めたとしても、そこで何故一気に全ての原発を停止という極端な結論に至るのかも、俺にはイマイチ理解出来ない。アカウンタビリティーの問題で原発を全て停止することが止む無しというのであれば、是非、電力料金の値上げによって経営が立ちいかなくなり、首をくくる羽目になった経営者に対し、「まあ、これも東電が説明責任を果たさなかったからだな・・・」と納得するか、もしくは「彼らは、東電が説明責任を果さなかったから死ぬ事になったのだ!!」と怒りを燃やすのだろうか?どちらも俺には正気の沙汰とは思えない(ちなみに、このアカウンタビリティーの問題については別の機会にもう少し詳しく説明したい)。

 ちなみに、もっと酷い例になると、ツイッター上でこのような事を言い出す人間までいた。曰く「東電は給与を350万円までカットすれば良い!!」と、ちなみに、これは東電の社員の給料を350万円までカットして電力料金の値上げをしないようにすべきという主張ではなく、「これくらいやらないと国民が納得しない」という例の納得感の議論である。そこで、俺は「突然、そこまで給料を大幅に下げられたら、生活出来ない社員も出てくるだろう」と言った(本来はそれ以前の問題ではあるのだが・・・)すると彼は、「年収350万で生活出来ないってどんな暮らしだよ?ww」とバカ丸出しの発言をしてきたので、「いや、元の給料でローンを組んで家や車を購入している社員もいるだろうから、それほどの贅沢を続けなくとも生活が破綻する人間も当然出てくるだろう」と、すると彼の返答は「だったら、そんな家と車売り飛ばせばいい!!」と・・・

 まさか、政府が決定した安全基準を守り、しかも、法律上、政府に補償の責任が移行している状況で、無理やりにその従業員の持つ財産を売り飛ばすべきだ!!と主張する人間がいるとは、彼は一体、基本的人権の一つである個人の財産権といったものについて少しでも考えているのか?(まあ、少しも頭を使ってないアホだということくらい重々承知しているのだが)彼が、まさか基本的人権等々に対して、これを期に堂々と挑戦してみせようとまでに、決意を固めているのであるならば、いざ知らず、正直なところ、こんな基本的な問題すら踏まえずにあまり適当な事ばかり抜かさないでくれというのが本音である。

 とはいっても、それほど政治について注意深く考えることが困難であるのが一般人の現実である。で、あるならば、せめて、言論人や政治家といった人たちには、それより遥かなに緻密な注意力、高度な判断力といったものを用いて議論や決断を行って欲しいと思う。

 なにしろ、これだけ不況が深刻化し長期化してしまうと、経済問題が国民の生命の問題と直結してしまっている。もちろん、原発の危険性は十分考慮されるべきであるが故に、とにかくどちらに決断を下すにしても真剣に徹底的に議論した上で決定して欲しいというのが、俺の願いではあるが、いわゆる言論人の中にも、軽率な発言、あるいは世間に迎合したような発言もやはり見られる。とにかくも、彼らには「自分たちの言論が国民の安全と生命と直接関わり得るのだ」という真剣さだけは持って、しっかりと欲しいものである。


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2012年06月17日

原発推進、および原発再稼働に対して文句を人に対しての文句・・・

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 今回も、前回に引き続き電力供給に関しての記事。なにやら、現在やたらと反原発デモが盛り上がっているようであり、何度か配信機材を持って、ニコニコ生放送を使ってデモの現場の取材でもしようかとも思ったが、どうせ原発擁護派である俺は、現場に行っても「安易な反原発論を唱える連中が如何に単純な理論や正義感を振りかざす、大局感を欠いたバカ共か」という事をグチグチ言うだけになりそうだったので自重した・・・

 別に、俺自身は原発擁護派であっても、反原発という意見や立場自体そのものが全て悪いと言ってるワケではない、様々な問題を総体的に考えた上で、それでも原発は無くした方がいいと言うなら、それは一つの意見として認める。しかし、見たところ、それほどしっかりとした理論的裏付けを持って反原発を唱えてる人はそれほど多くないように思えるのだ。

 急進的な反原発、脱原発論者の多くが掲げる論拠の一つが「原発事故は一発で日本を滅亡させる危険性があるからダメだ!!」というものであるが、このように騒ぐ人物の中で、本当にどの程度の可能性で1発で日本を壊滅させるほどの原発事故が起るのか科学的に検証した人を残念ながらお目にかかった事が無い。もちろん、原発は原子力というとてつもなく強大なエネルギーを用いている以上、どの程度かの確率でそのような事故が起こる可能性はゼロではないのだろう。しかし、そこまでの極論を言うのであれば、中国の原発が事故を起こして、日本が壊滅するリスクや、中国の核ミサイルが誤作動を起こし、日本に発射され日本が壊滅するリスク、あるいは日本に隕石が落ちて来て日本が壊滅するリスクもゼロではないハズだが、脱原発論者の中に、「そのようなリスクを想定して対策を打つべきだ!!」という人は当然ながら存在しない。

「日本を壊滅させるリスクを危惧するのであれば、これらの対策にもある程度費用や労力を掛けるべきだと思いませんか?」と問えば、彼らは「ノー」だと、そしてその根拠は「日本の原発事故で日本が壊滅する可能性と、それらの自体が発生して日本が壊滅する可能性は全然違う!!そんなもの論外である!!」という。「まあ、そうかもしれないな」と納得は出来るが、一方で、俺には同様に可能性は極めてゼロに近いように思える「日本の原発事故で日本壊滅!!」という事態が発生する可能性を検証した人もやはりいない。

 このように、原発での日本壊滅リスクはあくまでそういう可能性は、多分、きっとおそらくゼロではないのではないであろうか?という程度の極めて低い確率で発生する問題に過ぎないにもかかわらず、一方で原発停止や、東電の賠償問題に関わる電力料金の値上げ、これはすぐさま極めて重大な悪影響を確実にもたらす。例えば、法人の電力料金の20%値上げ、俺は仕事の営業で中小企業の経営者と話す機会が比較的多いのだが、「原発停止と電力料金値上げで、経営が立ちいかなくなるかもしれない・・・」という彼らの声をいくつか直接聞いたことがある。「この不景気に加えて、コスト増加で一体どうすればいいんだ!!」と。

 そんな彼らに対して正面から目を見て「原発は、日本を壊滅させる可能性があるので稼働できません!!残念ですが、あなた達中小企業の経営者と、従業員、それから、その家族の皆さんは、日本のために首をくくって下さい!!」と言えるなら、それはそれで人間のクズではあってもスジは通っている。

 しかし、脱原発を叫んでる連中のうちどれだけの人間がそれだけの覚悟を持って言っているのかは極めて疑問である。脱原発を叫ぶ連中の「日本壊滅リスク」はあくまでも可能性の話に過ぎない。一方で、中小企業で倒産数が増えて首をくくる人間が増加するのは確実だ。なので、最低限、本当に最低限でも日本壊滅事故が発生する可能性だけでも検証するのが、スジではないだろうか?つまるところ、原発稼働での危険性はあくまで確率論の話である一方、脱原発と東電バッシングの結果の悪影響は確実かつ極めて深刻であるという意味においては、明らかに非対称なのである。

 チャンネル桜の水島社長は、かつて震災後の脱原発派の連中の主張を聞いてこのように言った
「彼らは、ズルイ!!そりゃあ「子供が危ない!!」「国土を危険に晒すのか?」といった、誰もが真っ向から反論しにくいような意見をつらつら並べ立てていれば、良い人ぶって、善良なヒューマニストを気取れるが、一方で彼らは原発を止める事で生じる様々な障害や困難について何も具体的に触れないではないか!!」
と。まさに、正論であろう。その他にも、彼らの言動を少しばかり観察してみると、しばしば、「権威亡き時代」「権力亡き時代」における最後のあがき、最後の反権力ロマンチシズムの発露を脱原発の中に求めているのではないか?と思えるような人物をみかける事がある。

 ここで少しうがった見方をしてしまうのであれば、彼らの活動の原動力の本質は、つまるところ偽善や欺瞞、あるいはヒューマニストや反権力アイデンティティーといった歪な自己実現欲求に根ざしているのではないかと、そのように思えるのだ。

 そのような、歪んだ願望に対しても酷く嫌悪を感じる俺ではあっても、なお、そのような独りよがりな満足感も時としてある程度は必要なのでは?とも思う。しかし、前回の記事でも触れたように、電力供給は食糧や軍事と並んで国家の安全保障における最重要事項であるのだ。そのような国家の根幹に関わる問題を、あるいはそのような歪な自己の深層的願望などといった反吐の出るような欲求のフィルターを通して認識し、論じられては困る。というのが、またまた俺の結論なのである。


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2012年06月16日

東電の電気料金値上げに文句を言う人に対しての文句・・・

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 最近、ツイッター上で東電の電力料金値上げに関して色々と文句を書いている人もいるので、そういった問題について、とりあえず俺の感想を簡単にまとめてみる・・・

 まず、最初に俺の考えを説明すると、とりあえず電力料金の値上げはマズイと思っている。特に法人の電力料金の値上げは中小企業の経営をコスト面から圧迫し、経済に悪影響を与えるのは間違いない。

 しかし、そのような認識を持った上でも、一方で「東電の電力値上げが気に入らない!!東電はまず従業員の給与を大幅にカットすべきだ!!」という意見に対しては、「何言ってんだ?」としか言いようがない。彼らにしてみれば「東電がこれだけ問題を起こしたのに、大して責任も取らずに電力料金を上げるのは納得いかない!!全くけしからん!!」らしい。

 しかし、少し考えれば理解できるように、電力供給というのは、経済、産業、安全保障といった国家戦略の様々な分野における非常に重要な問題であり、「彼らがこんなに高給をもらい続けるのは納得いかない!!」とか、そんなレベルの話では到底あり得ないのだ。

 例えば、「ここで、東電が電力料金を上げると企業に打撃を与え、マクロ経済に重大な悪影響を与えるかもしれないので、電力料金の値上げはマズイ!!」と言うのであれば、そこから様々に議論を展開し得るが、一方で、最初から「東電が悪いんだ―!!責任問題だ―!!」などと言われても、「はぁ?こっちはそんなレベルの議論してるワケではないんだけど?」と思ってしまう。彼らには国家のマクロの視点が完全に欠如しているか、あるいは問題の重要度のプライオリティーというものを全く理解していない。ここで絶対に理解しなくてはいけないのは、軍事、食糧、エネルギーの問題は完全に国家の安全保障に関わる問題なので、他の一般的な企業とは同列に語ってはいけないという事である。それを理解した上で、それでも「電力の値上げはマズイ」と言うのであれば、議論し得るが、ここの共通認識が無いと、そもそも、そういった人物とは議論すること自体が難しい。

 しかし、ここの部分を理解しなかった言論人ばかりが何故か戦後日本では、やたらと持て囃された。平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼するお花畑左翼、ソロバン勘定でしか物事を認識できないエコノミスト、「庶民派!!主婦目線!!」をウリにする何が専門だか良くわかないジェネラリスト・・・一方で、国家の安全保障やセキュリティーを最優先に考える良識的、かつ常識感覚を持った言論人はマスコミから淘汰されていった。ハッキリ言って、こういった経緯の中で、ふざけた言論をまき散らし続けた言論人、及びマスコミの罪は限りなく重い。

 国家のマクロ経済の視点からの悪影響や、あるいはエネルギー安全保障に決定的に重大な影響を及ぼし得る課題において「電力10%値上げだ―!!酷いぞ―!!」で論じようとするのは、もうアホらしいとか、論じ方が浅いとかいう問題以前に、俺にとっては悪いジョークにしか思えないのだ。

結局のところ、「東電の社員の給料を大幅にカットすべきだ―!!」の主要な論拠は「俺達が納得いかないから!!」という、突き詰めるとこの「納得感」に到達するが、先ほど説明したように、電力問題は安全保障と密接に関わるので、「納得感」などと言ったしょーもない問題で語る事は出来ない。

 まあ、普通の庶民であれば、そも止む無しかとも思うが、最近では政治家にもそんなレベルでしか論じられない人間が出てくる。「首相は皆で決めた方が、みんな納得いくよね?だから首相公選制!!」「出来る限り、民意を直接反映させて政治した方が皆納得いくもんね!!だから参議院は廃止しよう!!」と。ちなみに、「この民主主義の政治で、一番大切なのは、みんなが納得するように政策決定することだ!!」は、本当に橋下現大阪市長がまさにその通りの事を語っていた。

 もちろん、民主主義政治において、国民の「納得感」というものは重要である。しかし、それは彼らのような大衆迎合のポピュリスト共が語るような意味においてではなく、むしろその真逆の意味においてだ。

 人間は、全能ではない以上、時として判断を誤り、ある時には国家の決定的な利益と、有権者の望みが分離する自体もしばしば存在する。そのような時の判断によって、軽薄かつ、無責任なポピュリストと、確たる意志力を持った強靭な政治家とを分かつことが可能になる。無論、ここで世間の意見に迎合してウケ狙いの政策を打ち出すのが無責任なポピュリストであり、国家の利益となる政策を選択し、可能な限り国民が納得できるよう説得するのが強靭な政治家である。

 もちろん、俺が重要であると考える民主主義における重要な「納得感」は後者の姿勢においてのみ体現し得るものだ。

 なんだか、取りとめのない文章になってしまったが、今回の記事の論点をまとめるとこうである。俺は電力料金の値上げには反対である、しかし、それは「東電の社員が贅沢な生活をしているのに、俺達庶民が苦しむのは許せ―ん!!」などという卑小な動機においてではなく、あくまで国家経済のマクロ的な視点から考えた上での結果である。先のような理由による電力値上げ反対の姿勢からは、生産的なものは何一つ生まれず、さらに「東電の社員の給与をカットすれば、電力を上げても構わない」という事にもなりかねないという意味では2重に危険であるという事。

 そもそも、電力供給という国家戦略の根幹に関わる問題において、このようなルサンチマン丸出しの卑小で低劣な感情論のみで語るのは「あまりにも物事の優先順位というものを理解しない、大局感を欠如した姿勢である」と言え、特に「それでは、国民が納得しなーい!!」などという幼稚な論理を振りかざすのは、せいぜい小学校中学年の道徳の授業までにしていてくれ・・・と、まあこういった感じであろうか・・・


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2012年06月14日

ロクでもない民主政治への批判及びなんちゃらかんちゃら・・・

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 先日、ツイッターで
「電力料金10%値上げするってどういう事やねええええええええええん!!!!」
みたいな事を、正義面(もちろんただの文字なので本当に正義面してたかは知らんが)してツイートしていた人がいたので、なんとなく気になって、今回はそういった問題について書いてみたいと思う。

 まず、このようなツイートを見て最初に俺が思った事が
「消費税増税関係無しに、こんだけ増税&保険料の値上げやってんのに、たかだか電力の10%値上げくらいでガタガタやってる奴の気がしれん・・・」
ということ、まあ、さほど政治意識の高くない連中の認識はこんなもんなのかなと納得するしかないのだろうが、どうにもただ世間の空気に順応してしか発言できない悲しさを感じてしまう。

 ちょっと、東電やら、生活保護やら、消費税増税やらに目を向けさせるだけで、他の所得税増税や、保険料の値上げはいとも簡単にスル―してしまうのであれば、増税したいと思ってる人間からしたら、これほどやり易い国民いないのではないだろうか。最近チャンネル桜でも活躍している、倉山満さんは、復興税という名目で政府が発表した増税案について、
「消費税を、あえて増税させなかった事によって、これらの一連の増税の負担増から世間の目を回避させる事に財務省は成功した」
といったような発言をしていたが、世間の反応を見るにまさにその通りだと思う。さらには、現在は東電の電力料金の値上げや、お笑い芸人の生活保護問題等にも大いに関心が移っており、別にそれ自体を「けしからん」とワーワー言うつもりもないが、この世間の世論の流され安さや、複数の問題に同時に関心を維持させることが出来ない粘りの無さにはある種の危機感を覚える。

 全体の関心がワーッと一気に移ること自体はある程度仕方ないにしても、一時的に注目されても、次に何かの出来ごとに関心が移った時に、もともと関心を持っていた事柄は、何もなかったかのように忘れ去られてしまうという点も如何にも気に入らない。具体的に言えば東北の復興問題である。今では一時は「絆だ!!」「日本全体で一致団結するんだ!!」と大騒ぎしていた事実など、まるでなかったかのように、さらには、未だ思うように復興が進まない状況で、まるですでに過ぎ去った過去の出来事であるかのように、あの震災を捉えている事だ。何かの機会で新聞やニュースで東北の問題が取り上げられ、皆でわざとらしくすらあるほどに過剰に同情して見せては、次の瞬間には、東電のバッシングや、さらには三流芸人の生活保護問題へと一気に関心が移る。現実の政治や社会をみるに気に入らない事は数あれど、これほどまでに偽善的であり、同時に嫌悪感を感じさせる大衆の振舞いはさすがに世界的にも稀なのではないだろうか?

 さらに驚くべきは、まあこんだけ目先の情報だけに過剰反応して右往左往してるような連中が、偉そうに「民意!!民意!!」などと叫んでいるという事実だ、よくもまあ自分たちの知性と理性の素晴らしさをそこまで確信できるものだと、逆に感心してしまう・・・

 一方で、「政治家なんて誰がなっても変わらない」とか「外圧がなければ日本は変わらない」なんて言ってる連中がいて、もう一方に「民意をより積極的に反映させることが良い選択を可能にするんだ」と無邪気に確信してる連中がいる。しかし、俺には何故「政治を誰に任せても関係ない」と言ってるような連中の民意を反映させることが善政に繋がるのかが全くもって理解出来ない。ほとんど国民的な精神分裂現象でも起こしてるのではないか?

 ならば、このイカれた分裂現象の正体は一体なんなのか?と考えてみた時に、俺の足りない頭で必死に考えだした結論は、結局のところ、皆が皆、各人どっかで聞いた事あるような受け売りの台詞を、あたかも自分が何か道理をわきまえてでもいるかのようにドヤ顔で語ってるに過ぎなのではないかとそんなふうに思えるのだ。

 だからこそ、ある者は「政治なんて誰がやっても変わらない」と言い、別の者は「民意を反映させろ!!」と叫ぶ、しかし、どいつもコイツもただの受け売りでその言葉が真に何を意味しているのか真剣に検討したことすらない。結局、そう考えるのであれば、どいつもこいつも大して何も考えてないんだなと思えるワケであり、やはり、そんな何も考えていないような連中の民意を積極的に反映させるの事が何故良い事なのかが、全く理解出来ないという最初の出発地点に戻ってきてしまうのだ・・・

 いい加減、「民意を反映させる事が素晴らしいんだ!!」なんて叫ぶ政治家連中がクリーンで誠実で立派な政治家だなんて幻想は止めてもらいたい、連中の中の大半はイカレタ偏執的進歩的民主主義論者か、異常な程のポピュリズムに走る大衆迎合型の政治家のどちらかで、どちらも自分の利益のためにそれを主張している。一見、どれだけ民意を重視する誠実で潔白な政治家であるように思えても、真実は全く違う。彼らは自分たちの異常な進歩主義的イデオロギーに凝り固まった徹底的なイデオローグであるか、もしくは自らの人気や利益の為に、長期的な国益やセキュリティーを犠牲にしてでも、ひたすら大衆迎合を繰り返す利己主義者に過ぎない。

 別に、反民主主義者を気取るつもりもないが、民主主義は構造的に様々な欠陥を抱えているという事がようやく理解出来るようになってきた。「民衆がバカだから」とか、そういったものとはまた別問題として、やはり民主主義にはシステムとして欠陥がはっきりと存在する・・・結局のところ、多数参加、全員平等を基本原則とする民主主義のシステムでは、トクヴィルが主張するように、容易に多数派の専制という現象が起こり、あっという間に間違った方向へと国家全体が舵を切り、さらにはそれを軌道修正することは非常に困難である。そして、ポピュリズム政治や、「民意の尊重」を金科玉条とする政治家や有権者たちによってその傾向はますます加速される。

 先日の記事でも書いたように、あまりにも民主主義というものの価値観が絶対視されているために、もはやそれに疑いをはさむことすら現代人には困難になっているのではないかと思う。

現代人は「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」というチャーチルの言葉を聞いて、何の疑いもなく「民主主義はよくないけどそれしかないんだ」と解釈してしまう。無論、民主主義や世論の尊重を全てひっくり返す事は不可能にしても、ここまで世界的に政治や経済が行き詰まった状況にある以上、現代人も、すでに過去に検討されたような民主主義の危険性や、欠陥に関する議論に少しは注目し、耳を傾けてみる必要があるのではないか?と思うワケである。


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2012年06月13日

多数参加、全員平等の原則・・・

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 先日、津田大輔というジャーナリストが、ツイッターでこのような発言をしていた

津田大介 ‏@tsuda
ホント政局ってくっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっだらねえな!!!!

津田大介 ‏@tsuda
くだらない政局ゲームから政策がクローズアップされる現代になって欲しいですだよ……。


↑このような発言を見た時に、ネット上に「その通りだ!!津田ちゃんの言ってる事はまさに正論だ!!」みたいな反応をする人もいるようだが、正直、俺からするとこれ以上に寒々しい思いをしてしまうような発言も無いのだ。

 たかに、前後の文脈を全て排除しこの発言だけを抜き出すなら、正しい事を言っているような気もしないでもないが、彼はこのツイートを行う前に、自ら延々、違法ダウンロード刑罰化が政局にどのような影響を及ぼすか、あるいは自民や民主、公明各党がどのように自分たちに有利になるように政局に利用しようとしているか?といった事についてツイートしてた。その直後に、「政局は下らない!!」「政策がクローズアップされるべきだ!!」などと呟いているのだから、正直、悪いジョークか、悪趣味な寒々しい自虐ネタであるようにしか思えなかった。

 そもそも、俺は彼が中川淳一郎さん(ライター、ネットニュース編集者)とやまもといちろう氏と共同で開催したトークライブで、この津田大輔という人物が、イベント終了間際に、
「もうすぐ田原総一郎が引退しそうだが、果たして、この人物の後を継ぐ司会者的ポジションにつく次世代の言論人は誰なのか?」
という話を延々10分以上行い、その場にいる観客全員を見事に白けさせていた現場を目撃したことがある。中川淳一郎さんのべらんめえ調のマシンガントークで会場を盛り上げた後に、バランスを取るためにクールダウンさせようとしたのであれば中々の配慮であると思えるが、あまりの寒々しさと、その内容の下らなさと低劣さに嫌気がさし、俺は途中で退席してしまった。

 結局、いい歳したまともな大人であれば、「政局なんて下らない!!」「政策がクローズアップされるべきだ!!」などと偉そうに語ったりしない、何故なら、そんな事はあまりにも分かり切った自明の理であり、言うなれば「人を殺しちゃいけません!!」「赤信号を渡ってはいけません!!」というのと全く同様に、当たり前だし無意味、無内容な主張であるからだ。すくなくとも知識人、言論人を自称するような人間がドヤ顔で偉そうに語るような御大層な発言ではない。

 でもって、このような書き込みを見て、「何言ってんだ?このバカは?」と思って俺もいくつかのツイートを行った。

レモン入りかったん(*≧∀≦)ノ☆・゚* ‏@KATSUNAMA
延々と政局の話と、言論人の世代交代(田原総一郎のポジションに次に就くのは誰か?!)等の言論商売の話が大好きな人間が「政局の話なんて下らない!!もう止めて欲しい」などと言ってしまえる滑稽さと、みっともなさときたら本当にこの上ない・・・

レモン入りかったん(*≧∀≦)ノ☆・゚* ‏@KATSUNAMA
政策論の話や、社会構造、民主主義のシステムそのものに関する高度な議論は、やられてる場所ではとっくにやられてますよ?アナタ達のような政局や、言論商売、政治商売の話が大好きな連中が、そういった高度な議論を徹底的に無視してるだけでしょう?

レモン入りかったん(*≧∀≦)ノ☆・゚* ‏@KATSUNAMA
別に、多数参加と、全員平等の民主政治において、高尚で深遠な議論が敬遠され、無視されるのは、ある意味で仕方ないとも思えるが、それらを徹底的に無視して、下らない議論に終始してる連中が「もっと、高度でしっかりした議論をしようよ!!」などと言っている様子を見ると、本当に反吐が出る


 すると、津田大輔のファンだかなんだかよく知らないバカが、横槍で、「それではアナタの言う高度な議論とはなんですか?」などと言ってきた。そこで、俺が、俺が高度な議論を行っている、あるいは行っていたと思う人物を何人か挙げると、今度は「私は、具体的な人物を挙げろと言っているワケでありません。その議論が、高度か、低度かを示す、客観的かつ、具体的な基準を示してください」という。

 「なんだ?このバカは?めんどくせーな?」と思いつつも、カールポランニーを例にとり、「津田大輔は、下らない政局の話ばかりしているが、ポランニーは市場経済と民主主義における政治の誤謬についての本質的欠陥にまで議論が及んでいて・・・」と説明しようとしたところ「そんな、具体的な細かい話を聞いていない。私はポランニーなど興味無いし、知ろうとも思わない!!さあ、客観的かつ具体的な・・・云々」などと言い続ける。

 議論の、質の高さについて論じる上で、個別具体論を抜きに、一般的かつ客観化された高度さの基準などあるハズが無い。もし仮に、少しでも、具体的な議論の上で例えば、「ポランニーは、こうこうこういう理由で大した洞察力が無かったと言えるのではないか?」という指摘を行うのであれば、そこからしっかりとした議論が可能になり得るが、そもそも「私はポランニーなど知らないし、興味もない、この先知ろうとも思わない。それを数行で分かり易く説明するのはアナタの義務だ!!それが出来ないならアナタは間違っている!!」と・・・

 よくもまあ、これほど自分の無知とバカさに関して開き直れるなと感心するが、結局のところ簡単にまとめれば、俺の意見はといえば「政局の話ばかりしててもダメだ!!具体的な政策の話をしなくては!!」などと偉そうに言ってるのは、「人を殺してはいけません!!」と言って得意になるのと同じくらいバカなのだという非常に単純なものであり、それに対し「バカだと?!下らないとは何事だ!!けしからん!!」などと言ってくる、これまたバカに対しては、「残念ながらそれを下らない何の意味も持たないバカな発言だと思えないのは、君がその発言者と同程度の思考力しか有しないからなんですよ」としか言いようがない・・・

 正直に言ってしまえば、こんなバカみたいな意見にいちいち反応しても仕方ないというのは理解している。インターネットというものは厄介なモノで、民主主義がそれまで政治的な権利を持たなかった一般大衆が参加することになり、これらの一般大衆の意見を集約しつつ、厳しい選挙にも勝ち抜き、内政、外交と様々な業務に精通しなくてはならなくなったという点で、地元の名士を中心に行われた寡頭制の政治から民主主義への移行以来、政治家にはまさに超人的な忍耐力、精神力が求められるようになったのと同様に、一方で中野剛志さんに言わせると、また同時に言論人にも、これに近い超人的な能力が求められるようになってきているのではないかと言う。特にインターネットの出現移行、様々な知的レベル、教育レベル、あるいは政治的信念の持ち主が、まさに好き勝手に発言、批判を行えるようにという点で、圧倒的に一定程度の地位を有する発言者の負担は増加したように思える。

 もちろん、中には優れた知識や情報収集能力、あるいは洞察力を持って、非常に有益な情報を発信できるアマチュアの言論家が一定数存在することを認めた上で、それにしてもあまりにも下らない、バカバカしい、取るに足らない意見に対し、言論人相当程度の負荷がかかってしまっているのも事実であろう。そもそも、政治空間、言論空間に、何の資格も無しに、誰でも労せず、最低限の手間でアクセスできるような状況にどれほどのメリット存在し、また同時にどのような弊害が存在するのか?やはり一度、このあたりで検討してみる必要性はあるのではないかと思う。そういった意味では、ネットで投票できるようになれば、もっと皆が選挙に関心を持ち、投票率も上がるのではないか?という議論に対し、冷や水を浴びせた中川淳一郎さんの見解は相当に妥当性を持っていたと俺は信じる。曰く
「おい、投票上にいくような手間すら惜しむようなバカ共に、ネットで自室から簡単に投票できる権利なんて与えちまったら、簡っ単にバカみたいな候補者に票が集まるぞ!!もしやまもといちろうみたいな奴が当選して政治家になっちまったりしたらどうするつもりなんだ!!」
と。

 もちろん、進歩主義者の信念であり、また一般大衆の漠たる常識と化している「多数参加、全員平等」の民主主義システムを根底から見直し、そのシステムを抜本的に改革したり、あるいは逆行させるような試みは、あまりに絶望的な挑戦であり、ほとんど無駄な努力となるだろう。しかし、それでも、最低限、健全な懐疑主義的姿勢を保持する良心的な思想家には、心のどこかで、このような政治的、言論的空間における、多数参加と平等原則に対する批判的精神を失くさずにいて欲しいと願うのである。


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2012年06月12日

学問と現実感覚との乖離現象・・・

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 今回のテーマは、現在の経済学と、現実の社会生活との遊離現象について、説明してみたいと思う。なんだか、このように概念と現実の遊離について書いている俺自身が、どんどん概念的、観念的、抽象的な議論へと突き進んでいっているという現実が、我ながら「滑稽であるなぁ」と思ったりもする。しかし、まあ同時に目の前に存在する現実の、あまりのバカバカしさに苛立ちや、吐き気を覚えるような俺に、一定程度、観念論、抽象論の世界へと逃避する事を許してほしいとも思う。

 最近、中野剛志さんと柴山啓太さんの対談に刺激を受けて、カール・ポランニーの『大転換』という読んでいるのだが、コレが意外な程に面白い。なんとなく、その本自体の分厚さに圧倒され、「さぞかし、高尚で壮大な理論が書かれているのだろうな?」と思っていたが、実際に読んでみると多少難解な部分が多いとはいえ、そのような印象とはむしろ逆で、人間や、社会、コミュニティーといった、現実の普通の生活に密接に関わってるような事柄が取り扱われている事に気付く、この辺りは、現在の「最先端の○○理論」や「××仮説」といったものを山ほど並べ立てる経済学の教科書や、経済に関する書籍とは全く違ったモノであるように感じる。おそらくポランニーや同時代の経済学者や社会学者の多くは「如何に生きるべきか?」あるいは「如何なる社会を目指すべきなのか?」といった事を土台にして、そこらか自らの理論を展開させていったのだろう。おそらく、もともとの古い経済学は、そのような学問だったのはないか?

 そういった意味では、今の経済学者の多くは、そういった昔の人たちの本質的な問いの部分を全部そぎ落とし、あるいはなにがしかの近代的な学問における本質的な劣等感故か、物理学者、数学者の真似ごとをして、ワケわからん最新のなんちゃら公式、なんちゃら仮説みたいなのを山ほど作りだしどんどん現実の生活から乖離していき、おそらく、自分たちでも、何やってるのかワケわからなくなっているのではないか?と、そのように思えるのである。

 しかし、経済学や、社会学が、学問の進歩それ自体ではなく、現実の世界を改善することを究極的な目的とするならば、当然ながら現実社会を出発点として、その理論を組み立てる必要がある。おそらく経済学を最初に作り出した人たちは、現実の社会とか人間とかを観察して、自分の理論を打ち立てた。しかし、現在の経済学者たちは、現実の社会ではなく、教科書を見て理論からスタートする、やはりこれがまずいんのではないかと俺には思える。さらに2重にまずかったのは、その教科書に描かれている人間は「自己利益のみに従って行動する完全に合理的な経済人」という現実には存在し得ない架空の存在だったわけである。この2点において、現在の経済学者はその出発地点から著しく現実との乖離を起こしてしまったのかもしれない。

 経済学を打ち立てた最初の方の経済学者は、まず現実に生きている人間ありきで、次に金銭的、経済的利益の存在があったのだろう。一方で、現在の経済学は金銭的、経済的利益というものを絶対不変の真理として捉え、そこから「多分、人間はその真理に対して合理的に行動するだろう」という過程のもとに理論を組み立てる・・・こう言えば言い過ぎかもしれないが、客観性や再現性というものを重視するあまり、非常に分かりやすい、しかし間違った前提、土台を作り出してしまい、その間違った土台の上に、物凄く膨大かつ、壮大な、しかしやはり間違った理論体型を築き上げてしまったのが現代の経済学なのではないかと、そのように思えて仕方がない。

 こういった点で、興味深いのは、現在の日本経済、世界経済の状況の分析において、一方では三橋貴明さんや中野剛志さんといった経済学自体を専門としない人々と、もう一方でジョセフスティグリッツやポール・クルーグマンといった超一流のおそらくは定式化出来る理論を超えた感性を持っているであろう優れた経済学者が共通の認識に達し、その中間に位置すると思われる、そこそこの専門知識を有し、まあまあの業績を残しているのであろう平均的な経済学者がそれらとは全く違った現状認識を示しているという点である。

 一方で、ガチガチに経済学の専門知識を徹底的に叩きこまれる事のなかったある意味でアウトサイダーである評論家や学者と、徹底的に経済学という学問を追求しきり、その理論の限界を超え得た人物が共通の認識に達し、ガチガチに専門知識を叩き込まれた秀才が、その知識体系の檻を抜け切れない。さらには、先に説明したように、大変な欠陥を抱えた檻なのだ。

 結局のところ、中野剛志さんが言うように、本当に経済学が三流学問であるとするなら、おそらくそれを三流学問たらしてめている主要な原因の一つは、経済学におけるこういった、人間不在、社会的コミュニティー不在に違いない。で、あるならば、今後の経済学の課題は、その理論の洗礼化、先鋭化ではなくむしろ逆で、もっとドロドロとしてあいまいな人間的要素、社会的要素をどのように組み込んでいくかにあるのではないか?とそんなふうに思ったりもするのである。


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2012年06月11日

政治、社会、哲学等を学ぶ理由・・・

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 先日、いつものようにニコニコ動画で中野剛志さんの動画を見ていたら、母親が「何で、そんなモノ見てるの?何か騙されてるんじゃないの?」と言ってきた。どうやら、母親は政治系の動画も、怪しげなカルト宗教の動画も全く同じものに見えるようである。

 よくもまあと思える程に、ここまでバカな発想しかできない人間のもとで生まれてきた不運を嘆きつつ、
「あのさぁ・・・少しでも、理解しようとするつもりがあるの?あるんだったら、一から全部説明してあげるけど?どうする?」
とだけ言った、当然ながら、母親の答えは、
「いや、別にいい・・・」
である。結局、口では「何で?」と言いながらも、現実には言いたい事は、「そんな無駄にしかならない下らない知識を身学ぶくらいなら、少しでも働いてカネを稼ぐか、スキルアップにつながるような資格の勉強をしろ」という事であろう。そのように、思う根拠は極々単純で、「何で、そんなもの見てるの?」と言う母親の言葉の端々に、「そんなもの学んだって無駄で何の役にも立たないでしょう?」というバカにするようなニュアンスが多分に感じ取れるからである。

 もっとも、それでも俺は母親を批判する気にもならない。すぐに、出世や、カネの獲得に繋がるような実利的な知識のみをひたすら追求し、そのような姿勢を持つ自身を合理的で、現実的で、賢く、優秀だと確信しているような人間は、俺から見れば、薄っぺらな人生観しか持ち得ない、底の浅い人間にしか思えないのだが、それが何故愚かであるか?という事を説明するためには、彼らはあまりにも想像力や抽象的思考能力に欠けるのではないか?と思えてしまうのである。

 「足るを知る」という言葉、あるいは「水を飲みて笑う人あり、錦を着て憂える人あり」という言葉があり、さらには、この言葉を、何か道理をわきまえたかのような面をしながら、得意げに「これこそが人生の本質であり、奥義なのだ!!」などと偉そうに語る言論家がいる。一見、「ああなるほど、そうかもしれないな」などと思わされそうになる理屈ではあるが、以前から、俺はどうもこのように語る人間が胡散臭く思えてならなかった。

 たしかに、これが、「人間、あまり金銭や名誉をむやみに求めるものではありませんよ」程度の戒めを意味した教えであるというなら、ある程度は納得出来るし、かなりの程度俺も同意しよう。しかし、仮にこれが「人間は、たとえ粗末であっても衣食住さえあれば、それで幸せなのですよ」あるいは、「それで、満足して幸せだと思わなければいけませんよ」といった教えであるというのならば、俺はこの言葉を断固拒絶し、反対し、彼らこそ、人間を生理的要素に還元された動物や家畜と同等の生物に貶める、無気力な虚無主義者であると非難する。

 少し考えても見て欲しい、人間が仮に、食い物と住み処と着るものさえ揃っていれば幸せだというのなら、そこに少しでも動物や家畜との何らかの違いが存在するのであろうか?あるいは、俺はかつて書いた記事(『近代合理主義批判・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/245959014.html)にて、「金さえあれば女はついてくる!!」といったホリエモンや「人の悩みってのは、ほとんどがお金か恋愛にまつわるもので、この二つさせ満足すれば、ほとんど全ての悩みから解放される」と言い切った自己啓発家の言葉を批判したが、「足るを知る」という思想から、そのような言葉や思想に対する本質的な批判が可能となるだろうか?

「衣食住さえ揃えば人間は幸せであるべきだ!!」という思想から「カネと女さえあれば、人生完璧だ!!」という考えを批判する時、その内容はせいぜいちゃちな僻み根性以上のものを含み得ないのではないか?

 結局のところ、人間を生物学的な存在に過ぎないものとする、生物学的還元主義の罠に陥った時、先のホリエモンや自己啓発家の事を批判する上で、せいぜいしみったれた嫉妬や僻み根性を多分に含んだ文句を越えるものは何一つ出てこないのである。

 では、これらの思考や思想を本質的な意味において批判を行うには、如何なる説明がふさわしいのか?確かに簡単な問題ではないが、これこそが本質的な意味において、人間を他の動物から隔絶し、人間を真の意味で人間的なものとして捉えるために欠くべからざる問いであると俺は考える。

 そして、その答えこそ、まさにフランクルが意味への意志と呼んだもの、そして、中野剛志さんが「俺達は何のために生きるべきなんだ?」と問うた例の問いなのである。

 確かに、このような問いを発することは、何ら実利的な利益をもたらさない可能性は大いにある。普通に考えて、学校で出されたテストの問題を解くためには、先生に教えられた問題と答えに何の疑問も抱かず、それをそのまま受け入れてしまい、全て飲み込んで暗記してしまうのが一番である。そこで、「先生の言っている事は、本当に正しいのだろうか?」とか、あるいは「このような問題と解決策は、現実の社会において、どのような位置付け、あるいは意味付けがなされるべきであるか?」などと考えるのは、如何にも時間と労力の無駄である。

 しかし・・・テストで良い成績を収めるという意味では、それが、どれだけ無駄であっても、なおそのような問いのみが人生に意味を付与するのものであると俺は考える。

 効率的に、富を得るための格別の知識、経験知といったものを有する事、あるいは、社会的地位や魅力的な異性を手っ取り早く手に入れるのが得意になる事。これらのコツを体得した人物は、それらの目標をいとも容易に達成することだろう。そして、世間的に見れば、それらの所有物こそまさに勝ち組の証なのである。

 しかし、一見どれだけ、彼らが満たされて見えようが、物質的に豊かであろうが、自らが豊富に持つ所有物や、あるいは自分自身の存在意義について真剣に考え、思い悩む事が無いという意味において、彼らは所詮どこまで行っても肥えた豚の域を超える事が無いのである。

 あるいは、世事を驚くほど上手くこなす彼らは、本質的には非常に沢山の餌と、豚社会における高い地位と、異性の豚を確保するのに非常に長けているのみであるのだが、あるいは、その中には、非常にシェイプアップされ、健康かつ、魅力的なスタイルを保つ者もいるであろう。さらには、ファッション的に哲学や社会学の諸々の本を読む者もいるかもしれない。

 しかし、より深く彼らを観察しようと思うのであれば、やはり、肥えた豚が、必死に他の豚に認められようと、ダイエットに励み、時には哲学書を読みふけるかの如きその姿に、ある種の滑稽さを見出さなければならぬように思える。あるいは、唯一そうすることで、そんな事をするのに意味があるのかは何とも難しい問題ではあるが、自分の中にある肥えた豚的な要素をあらためて見出す事が可能になるかもしれないのだ。

 一人ひとり、非常に個性的な多様な在り方をもつ人間の人生には、人類共通、かつ普遍の意味と意義を見出しにくいと仮定し、結局はそれぞれ各人が、それぞれ各人固有の人生の意義を発見しなくてはならないと考えた時、この自身の中にある肥えた豚的な要素、あるいは他の豚からの羨望のまなざしを受けたいと思う心は如何にも邪魔である。

 そして、人間は、絶対にそれ自体が完全に独立的な個としては存在し得ない。必ず、現実の社会の中での位置付けでしか、自分の生の意義を定義できないのが人間なのである。であるなら、ここで最初の問いに戻ってくるのであるが、自分の人生の意義や本質について考える上では、必ず同時に社会の意味、意義、仕組みについて学ぶのが不可欠なのである。人間、あるいはその人生というものが社会に組み込まれている時、その社会に対しての曖昧模糊とした認識という土台の上に、個の人間の確たる意義というものを強烈に規定することはほとんど不可能なのだ。

 むろん、ここまで、考えてもなお、肥えた豚として生きようとする者たちにを、直接的に批判することにさほど意味は無いと考える。このように主張する俺でさえ、肥えて、満足し切っている豚の餌を取り上げて
「貴様は肥えた豚に過ぎない!!今からでも遅くはない!!人間的な生の充足を目指すべきだ!!」
と説教を唱え、哲学書を与えるようとするほどには野暮ではない。そんなことをしても、せいぜい、
「一体、なんて事するんだブ―、まったく、これだからロクに餌も与えられない痩せ細った落ちこぼれ豚は嫌だブ―。全く、連中こそルサンチマンの塊だブ―」
と文句を言われるだけである。何一つに感謝されないのに、これだけ難儀なことなどすべきではないし、する必要があるのかすら疑問である。結局は、またこれらの事柄は、全て個人的な哲学に関する者に留めるべきであるとも俺は信じる。


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2012年06月09日

未来を見通す能力を身につける法・・・A

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 前回書いたの記事(『未来を見通す能力を身につける法・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/273955012.html)では、柴山啓太さんが説明した、過去の優れた思想家の予見力と、如何にして、現代人がそれに近い予見力を身につけ得るか?という問題に対して解説した。そして、実は前回紹介したトークセッションでは中野剛志さんも、柴山啓太さんと同様に、言論人が持つべき予見力というものについて解説している。



中野剛志「一つですね、(我々は)予見力がある人たちが好きなんですけど、もう一つ加えると、今のエドマンド・バークがそうなんですけど、もちろん予見力を付けるためには相当賢くなきゃいけないんですよ。でも、そんなに賢くなくても、ワリと簡単に予見力の訓練をする事は、実は出来るんですね。

 もちろん、古典を読むってのもあるんですけど、どうやるかっていうと、予見力のある人の本を読めば分かるんですけど、大抵、世の中がこっちを向いてる時に、反対を向いてるんですよ。だから予見出来るんで。ていう事は、先は読めないかもしれませんが、一つの手としては、世の中がこっちを向いているときには、あえて逆の方向を向いた仮説を立てておいて、それで頭の中で議論をしてみると、意外とその逆を向いた方の意見の方が強かったり。

 あるいは世間がこっち向いてる時に、少数派の人がいて、そういう人たちが一生懸命何かを言っている。そういう時、特に日本ではありがちですけど多数派の方が少数派の事をバカにするわけですが、まあ、普通はその多数派に乗った方が勝ち馬に乗れるわけですね。にもかかわらず、少数派でですね、一生懸命言ってるって事は、普通はですね、自分の立場を不利にしてでも何かを訴えてるって事は、何かコイツに見えてるモノがあるんじゃないか?と思って耳を傾けてみるってのが大事で、私は別に西洋かぶれじゃないですけど、その点においては日本人よりもヨーロッパ人の方が、私はまあ、ヨーロッパっていうかイギリスにちょっとだけいたんですが、イギリス人の方が、やっぱり上だなと。

 つまり、彼らは、そういう少数派の意見を、「まあ、お前とは意見は違うけど、お前は面白い」とか、むちょっとですね、耳を傾ける風習があるワケですね。これを自由主義でいう自由っていうワケですよ。ところが、どうもね気に入らないのは、日本っていうのは少数派の意見を、「空気を読んでない」とかですね、いとも簡単にバカにするワケです。ところが、バカにされるべきは多数派の方であって、そういうふうな訓練を、まあ少数派の意見を聞いてみる、少数派の方に耳を傾けてみる。ありていにいうと新聞を読まないとかですね、あるいは新聞を裏にするっていうそういう感じで訓練をしていると、まあ目利きが段々ついてくるかなぁっていうのが私の感じなんですね。」


 時おり、ネット上で中野剛志さんへの批判として、「逆張り評論家」などと書かれているのを見かけるが、これは全くもって批判にならないどころか、むしろ褒め言葉にすらなり得ると思っている。何故なら、理由は簡単、中野剛志さんは世間とは逆の方向の予測を立てながら、常にその予測を的中させてきたからだ。というか、そもそも、世間と同じような事を言っていて、その通りに実現したとしても、それは予測でも予見でもなんでもない、当たり前の事が、当たり前に起っただけである。おそらくは、言葉の定義上、他の人が、考えもしなかった、あるいは、そんな事あり得ないろうと思っていた事を予測して的中させることが予見である。

 中野剛志さんは、言論活動を本格的に展開した期間はわずかに1年と少しでしかないが、その間に当てた予測は数多い、そして何より重要なのは、それらの予測は、どれもことごとく世間の一般常識の逆をいっているものが多かったという事である。

 TPP議論では、「推進派は議論が劣勢に立たされた場合、「とりあえず交渉にだけでも参加しましょう、ダメなら抜ければいいだけですから」と言いだだろう」と予測し、その数カ月後、実際に推進派の評論家や政治家が口を揃えてそのような事を言い出した。

 震災直後には、日本中が「東北を応援しよう!!日本人は皆で団結して行こう!!」という空気で盛り上がっていたにも関わらず、これは一時的な場の空気でそうなってるに過ぎない。これまでの議論やイデオロギーの流れを振り返って、反省しない限り、こんなものは思想的な一貫性を持たない精神分裂か、あるいは偽善に過ぎず、このままでは東北は見捨てられるだろう。と言い切り、その後実際に復興は遅々として進まなかった。

 震災で被害を受けた東北には農業県が多いため、誰もが「さすがに復興しなくてはいけない東北の農家を苦しめるようなTPPには、もう入ろうとしないだろう」と思っていた時に、必ずTPP参加の議論はまた持ち上がる、これは極めて危険である。と言い、現実に震災の数カ月後に突然TPP参加の議論が再び持ち上がった。

 本当は、東北の復興や今後の地震対策、デフレ脱却の政策等々に関し、建設国債を発行し、必要な事業を見つけてインフラ投資していくという極めて地味で凡庸な政策を一つ一つ実行していかなければならなかったのだが、おそらくは、そのような地味な事を粘り強く主張し続ける政治家が敗北し、極めて苦しい状況の中で、皆が安易な解決策を唱える政治家をワーッと勢いで支持をし出す危険性がある。と言い、2011年の11月に行われた選挙では、「道州制!!」「公務員改革!!」「首相公選制!!」「ベーシックインカム!!」と非常に安易な政策を掲げる橋下徹率いる維新の会が大躍進した。

 他にも挙げていけばキリがないが、おそらく2011年の重要な出来事のほとんど全てを、ある程度大雑把なカタチでは予見していたように思う。逆張りと言われればそうであろう、世間の常識の前提となるものに、疑いを抱き、あえてその逆の仮説を立てる。そのように聞けば比較的簡単そうにも思えるものであっても、ここで、現実にそれを実行しようとすれば、そこにある非常に困難な事実の存在に気付かされる、われわれ一般人が、まさにその世間の中に埋没しているからこそ、その世間の間に流通している常識がまるで空気のように見えにくいのである。例えば、それはあたかも外国人には日本人の変わった常識がよく見えて、それをはっきりと認識出来るのに対し、日本人には、その常識がまさに「常識=当たり前のモノ」として受け入れてしまっているために、それに疑いを抱く事はおろか、気付く事すら困難なのだという様子に似ている。

 中野剛志さんは、『考えるヒントで考える』という本の中で、このように書いている

「大衆とは、イデオロギーや世論という外から与えられた意見を自分の考えと思うようにし、自己の力で考えることをやめた人間たちのことである。ソクラテスの自己とは、大衆が依存している世論やイデオロギーを徹底的に疑い、批判する精神であった。それは徹底的に懐疑し、批判することによって、自己を取り戻そうとする精神である。
 ソクラテスの闘い方は、議論の前提を突き、それを問いただすというものであった。大衆の意見の前提とは世論である。自分の意見だと思っていたものの前提には、根拠不明な世論や風潮がある。そこを崩すのが、ソクラテスの戦法だった。」(『考えるヒントで考える』 中野剛志 著)


 もちろん、ソクラテスのように賢くない我々が、このような闘い方を身につけるのは容易ではない。上にも書いた通り、そもそも自分たちの属する世界における間違った常識などというものは、それを認識することそれ自体が極めて困難なのだ。やはり、常日頃から思考の訓練を積み、いつでも常識を疑う思考の習慣を身につける事が必要であろう。そして、そのような容易ならざる訓練を継続し続けた結果、一体何が手に入るのか?実は、先の中野剛志さんの発言には、続いて重要な話が存在する

「まあ、そういった事を古典なんかで読んでると、私の好きな洞察力のある古典とか歴史の人物ってね、あーこうなりたいなって思うヤツって、みんな大体不幸な結末で、フリードリッヒ・リストは自殺でしょ?アレクサンダー・ハミルトンは決闘して死んでるでしょ?(笑)なんかね、ろくな死に方をしてないんですが、なんかそういう人間じゃないとやっぱりね、だから洞察力を身につけるには、結構リスクがあるワケですよ。」

 ああ、そういえばソクラテスも、最後は世間を惑わせたといったような理由で、死刑で死んでいたような・・・「肥えた豚より、不幸なソクラテスであれ」と言ったのは、J・S・ミルだが、実は、最近の心理学の実験では、人間は楽観的で幸福な思考の持ち主より、うつ病に苦しむ不幸な思考の持ち主の方がより現実を正確に見通す力がある事が発見されたという。おそらくは、ある種の根拠なき楽観主義は神様が絶望に打ち勝つために人間に与えてくれた一種の麻薬のようなものなのではないだろうか?

 そして、幸か不幸か、明晰な思考能力と、その楽観的思考を与えてくれる麻薬を与えられなかったごく少数のみが、幸福と引き換えに極めて優れた洞察力を手に入れることが出来る。と・・・

 まあ、あまり愉快でウキウキと希望に沸き立つような話ではないが、こんなところにもある種の人生の妙というか、面白さがあったりするのではないかなと、そんなふうにも思えるワケである。


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2012年06月08日

未来を見通す能力を身につける法・・・

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 先日、『グローバル恐慌の真相』の刊行記念として、『「グローバル恐慌」を日本は生き抜くことができるのか?』と題した、中野剛志さんと柴山啓太さんのトークセッションが行われた。

 『「グローバル恐慌」を日本は生き抜くことができるのか?』と題されたトークセッションであるが、仮に副題を付けるとしたら、『中野剛志と柴山啓太の学問のすすめ』といったところだろうか?特に、このトークセッションでは「現代において、古典を読み、学習する事の意義」について、様々な事が語られており、そのうちの一つの事項として、過去の非常に優れた思想家達が持っていた予測力、予見力といったものについてもそれぞれが語っていた



柴山啓太「で、見通すにはどうすればいいかっていうと、それは、もちろん神様ではないですから、もちろん間違いとかもあるでしょうし、もしかすると外れるかもしれません。ただ、どういうふうになるかってのを、ちゃんと見通そうとすると、どうしても、ただ単純に「経済学のなんとか定義」とかですね「政治学のなんとか仮説」っていうものを、ただ単純に積み上げていけば見えてくるってものでもないだろうっていうのが、私の考え方で、、まあおそらく中野さんもそうだと思うんですけど、なんで古典っていうか古い人の本を熱心に読んでるかっていうと、やはり、そういうものの中に
「ああ、歴史って繰り返してるなぁ」
っていう、やっぱり
「昔にも、こういう時代、こういう危機があって、その時にこういう見通しがあったんだ」
って、そういう事が見えてくる。

 で、古典って大体、こう、結構予測してるモノってありますよね?中野さんも僕も、結構エドマンド・バークっていう人が好きなんですが、フランス革命が起った時に、フランス革命で皆盛り上がってる時に
「コレは絶対に失敗する!!」
と、
「必ずフランス革命は、いずれお祭り騒ぎから、血を見るような殺し合いが始まる。で、最後は軍事独裁で終わるだろう」
と、ナポレオンの出現まで予測してるんですね。これをフランス革命が起こった直後に言ってるっていう、物凄い洞察力。

 それから、後で言うかもしれませんが、トクヴィルっていう19世紀のアメリカの人は、建国直後のアメリカを色々見聞して、アメリカ人の習性なり、アメリカ社会の特質について書いた、現代でもなお、これ以上のアメリカ論はないって程の凄まじい傑作ですけれども、その本の第一部の後半でこう言ってるんですよ。
「おそらく、19世紀においてヨーロッパの世紀は終わって、20世紀には、アメリカとロシアが世界を半分ずつ分け合う時代が来るだろう」
って、完璧に当たってるんですよね。

 僕はなんか、学問っていうのは本当に極めると、まあ僕が言うのもおこがましいですが、本当に極めると物凄い予測力ですよね。何か歴史というものが、本当に何かを捕まえると、物凄く未来っていうものに対して、もちろん大雑把ではありますけど、かなり正確な見通しというものに辿りつくんじゃないかな?という気がしてるんです。」


 ここで、柴山啓太さんは

>「ああ、歴史って繰り返してるなぁ」
っていう、やっぱり
「昔にも、こういう時代、こういう危機があって、その時にこういう見通しがあったんだ」
って、そういう事が見えてくる。


と言っているが、実際に古典を読むとそれがよく理解出来る。例えば、俺は現在、ウィーン出身の、かつて大恐慌を研究したカール・ポランニーという経済学者が書いた『大転換』という本を読んでいるが、この本の中で、ポランニーはかつての大恐慌時、あるいはそれ以前の経済的自由主義者(現在の新自由主義ではない)やマルクス主義者が共通で陥っていた認識、言論の陥穽について解説した一文が存在する

「かくして自由主義者の経済観は、偏狭な階級理論に強力な支持を見出した。対立する諸階級という観点を掲げる点において、自由主義者とマルクス主義者は同一の立場に立っていたのである。彼らはともに、一九世紀の保護主義は階級行動の結果であり、このような行動は何よりもまず、それぞれの階級構成員の経済的利害に奉仕したにちがいないとする隙のない議論をつくりあげた。これら二つの勢力が存在したために、市場社会についての理解、さらにまた市場社会における保護主義の機能についての全体的な理解はほぼ完全に妨げられたのである。」(前掲書)

 これは、80年前の大恐慌を研究したポランニーの書いた一文だが、現在の状況の説明であると言われても全く違和感を覚える事は無い。自由主義者を新自由主義者に、マルクス主義を左翼あるいはグローバリストに、そして一九世紀を二〇世紀に変えれば、まさに現代の言論状況を極めて正確に説明した預言の言葉に早変わりするではないか・・・

 時代は繰り返す。何故なら、あたかもリンゴがいつの時代においても木から落ちてくるように、世界、あるいは社会には、いつの時代にも存在する法則、あるいは作用が存在するからだ。一九世紀の時代に、自由主義者の経済観は、偏狭な階級理論に強力な支持を見出したが、全く同じように二〇世紀と二一世紀の時代にも、あるいは呼び名は少し変わったが、その頭の中身は古い自由主義者たちと何ら変わらない新自由主義者と呼ばれる連中が偏狭な階級理論を唱え、「利権を壊せ!!」「既得権は悪だ!!」と騒いでいる。この様子を見るにつけ、何よりも滑稽に思えるのは、彼らの100年前の自由主義者となんら変わらぬ過ちを犯しながら、時代の変化を強調するという、その姿勢である。彼らに言わせれば「時代は、変わったのだが、古い既得権の連中をのうのうと生きながらえさせるわけにはいかない!!」という事なのだろうが、残念ながら、生きながらえさせるべきではない人種は、時代の重要な転換点において100年前と全く同じ過ちを繰り返そうとしている彼ら新自由主義者たちの方であろう。

 柴山啓太さんは、古典を読む事で、時代の先を読むためのヒントが隠されているのではないか?といった事を考えているようだが、まさにその通りであろうと俺も思う。先ほど、「いつの時代にも存在する法則、あるいは作用」というものについて、少しふれたが、結局のところ、時代の先を読む能力は、これらの法則を発見、あるいは体得出来るか否かにかかっているように思えてならない。いつの時代にも「時代は変わった!!」と大騒ぎし、「我こそ、新時代の法則の発見者だ!!」と名乗りを挙げるペテン師は存在するものだが、彼らは現実には、先の予測に関して何一つ正確な見通しを立てられていない事が実に多い。なぜこのような革新者を自称する人間が現在の認識や、将来の見通しについて何一つ優れた見識を持たない事が多いのか?と思った時に、まず分かるのは、彼らがあまりにも現在の目先の問題にとらわれがちであるという事だ。

 世の中には、ほぼ無限であると思える程に情報が存在する。その情報を自分の力で取捨選択し、さらにはその無限の情報の中から、古今に通ずる重要かつ、普遍的な法則を見出すことなど、とてもではないが人間個人の持ちうる能力の限界を遥かに超えているように思われる。まして、今現在の、目先の情報に振り回され右往左往する改革者に、そのような能力を求めるのはあまりにも酷である。しかし、実は、世の中には、そのような重要かつ、おそらくは非常に強力な普遍性を持つ情報として、取捨選択された情報群が存在するのだ。それが、何かと言えば、ズバリ古典なのである。

 古典というものは、言うまでもなく歴史の淘汰を生き延びてきた、いわば情報や書物の中の王様である。そして、それらの古典が書かれたのちの人々は、一体、何を基準にして、その書物等に価値を見出し、次世代に残そうと考えるのか?俺が思うに、おそらくそれは、現代にも通じる重要な情報が記されているか?という基準なのではないか?と思う。

 それが書かれた当時に、どれほど価値があるとして持て囃されたとしても、後の時代において、誰一人として、その書物に価値を見出すことが無ければ、その瞬間に、その古典は消滅する。つまり、古典とは、それが古典として残っている時点で、過去の時代の人々の選別を通過し、それが書かれた時代にも、そののちの選別が行われた時代にも、そして現代においても通用する、何らかの普遍性を持った真理が記されているハズなのだ。そして、何より重要な事は、それほど強力な普遍性を持った真理は、おそらく現代より先の時代、つまり未来においても通用する真理である可能性が高い。

 カールポランニーは、一九世紀の経済的自由主義者の議論に、その後の二〇世紀の新自由主義者たちも共通して陥るであろう誤謬を見出した。彼の思索を辿る事で、現代の新自由主義者たちの議論や影響力の危うさというものが非常に理解を容易にし、おそらくは、次の時代の見通しをたとえぼんやりとではあっても立てることが可能になる。

 中野剛志さんは、原発事故の直後に、東電を悪の巨大利権集団に仕立て上げ、ありもしないデタラメをまき散らし東電バッシングを先導した岸や古賀のような論者を徹底的に批判したが、同時に、この人は彼らのような偏狭な階級理論の唱道者で、中間団体やコミュニティーを利権団体として偏執的に叩きまくるような論者の存在の根拠を、もしかしたら歴史的普遍性の中に見出し可能性もある。中野剛志さんは、東日本大震災直後に、偏狭な階級史観論者の出現により、東電バッシングが引き起こされ、さらには利権を問題にする連中が速やかな東北復興を妨げ、さらに、当時一時的に議論が中断されてきたTPP問題が必ず再び浮上してくるだろうといった事を全て予言していたが、どうやらカールポランニーを大変に尊敬していたようである。

 たしかに、ポランニーの本を読めば、過去の大恐慌という危機の時代において、偏狭な階級理論の唱道者によって、ますます議論や、世論を混乱させ、危機を深刻ささせた事例が克明に描かれている事が理解出来る。中野剛志さんには、ポランニーが描いた当時の姿と、震災直後の日本が全くダブって見えていたのだろう。ちなみに、このように後付けで、アレコレと解説するのはいとも簡単ではあるが、実際に、当時これほど正確に先を予見できていた人物は中野剛志さんただ一人であったという事は非常に重大な事実である。やはり、未来を見通すこと、特に他の人物には見通す事の出来ないような事象を見通すことは、当然ながら容易ではないのだ。

 今回の記事では、紹介した人物が、バーク、トクヴィル、ポランニーとあまりにも偉大な人物ばかりであって、なんだかすごく高尚な話のようになってしまったが、次回以降では、もう少し単純な方法による、未来の予見力の身につけ方について解説してみたい。


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2012年06月05日

何故、笑ったのか?

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 今回も、先日行われた中野剛志さんが出演したチャンネル桜の討論について。中野剛志さんは、
「何で、誰にでも保障されてるハズの言論の自由を行使しただけで、別に対して変な事言ってるワケでもないに、こんなシンドイ思いしなけりゃいけないんだ?」
という事を言い、さらには、
「もう自分はこれ以上言論活動を続けることはしんどいので官僚に戻る」
とも言っていた・・・。

 こういった一連の発言や、官僚に戻ってしまうという事実に関し、俺自身は、大変なショックを受けたのではあるが、一方で、「ああ、別にこの人は絶望して、全てに嫌気がさして、言論活動を放棄し、一官僚の身分に戻るワケではないな」と思えるようなシーンもあった。



「いや、私はね、全体の底上げっていうと気が遠くなっちゃうワケですよ。1億何人も、で、有権者だけでも7千万人くらいいるわけですから。そうすると、でも皆が政治に興味を持ってるワケではないですよね?日本をぶっ壊そうとしてる異常な人たちとか、ワケの分からない理想主義者が非常に政治に興味を持っているんですけど、そうじゃなくて、良い方向になんとかしようってしてる人たちってのは、多分、数が少なくても力を発揮するような気がしてまして。

 特に、それっていうのは、だって投票率だって別にそんなに高いワケじゃないわけです。で、ここがやっぱり間接民主主義、議会制民主主義の良いところで、最後はマスメディアが、誘導するとか、偏向報道するってのは変えられないんですけれども、議会制民主主義ってそこが良いところで、永田町にいる5百何十人かの過半数さえ取っちまえばなんとかなると。

 そこのところ、もちろん彼らだって、票とか世論を気にするし、小選挙区制になって、ますますそうなってるんですけど、それでもなお、あの人たちが、世の中がこっち向いてても、こっちが正しければ頑張れるように、まあ渡辺先生はもうやっておられるんでしょうけど、こう色々知恵とかを授けるとかですね、まあ指示するとか、そういうふうなテってのがあるかな?って。ちょっとですね、日本人って賢いので、全体の底上げも出来るのかもしれないんですけどね。」

>良い方向になんとかしようってしてる人たちってのは、多分、数が少なくても力を発揮するような気がしてまして。 


↑おそらく、こういった発言というのは、現在参議院で活躍されている西田昌司さん、現在自民党が次期選挙のマニュフェストに組み込む事を決定した「国土強靭化法案」の原案を作り、その制定を訴え続けた藤井聡さん、バブル崩壊以降、しつこ過ぎる程に、幾度となく繰り返され、そのたびに日本人の気持ちをなんとも暗く重苦しいものにさせてきてくれた「日本破綻論」を否定し、それが間違っているのだという事実を一定程度世間に広めていった三橋貴明さんといった仲間の活躍を見てしたのだろう。

 特に、西田さんや、藤井聡さんは国会議員に直接訴える事で内部から変えていった。7千人の有権者のうち半数の三千五百人の意見を変えさせるのは、ほとんど不可能だと思えるほどに気の遠くなる試みだが、一方で、真剣に日本を良くしようと考えている国会議員のうち全国会議員五百何十人かの半数を直接説得することで意見を変えさせる事で国家を良い方向に持って行けるかもしれない。そのようなアプローチ方法もあるのではないか?というのが、中野剛志さんが考えている事だろう。

「基本的には、常に非常に忙しく、中にはガチガチにイデオロギーに凝り固まり、重たい岩の如く自分の考えや立ち位置を頑として変えようとしないような人物もいる国会議員の先生のうち半数以上の意見を変えさせることなど、本当に可能なのか?」という点では非常に困難である事に間違いはないのだが、それでも中野剛志さんは勝算があると思っているのだろう。何しろ、中野剛志さんは、自民党の勉強会にも招かれ講義を行い、実際に国会議員の先生と直接に接触を行っている。その上で、様々な場所で、
「有権者の多くが、政治家は無能で卑怯で、どうしようもないような人間だと思っているようであるが、現実はそうではなく、非常に真剣に日本を変えようと必死に努力している議員も沢山いる」
と言っている。直接会い、話をした上でそのように言うのであるから、ある種の実感があるのだろう。

 それから、もう一つ、希望を持っていることがうかがえるのが、やはりこの話をしている時の表情である。動画では17分頃から喋っているが、その時の表情が非常に活き活きしているのだ。一方で口では
「あーあー、負けた。お前らアンチ共の勝ちだ!!良かったな!!w」
と言っているが、上の話をしている時の目は、とても絶望し切った、惨めな敗残者のそれとは思えない。明らかに、自分が何かを成し遂げることが出来るかもしれない、といった希望を秘めた目にしか俺には見えないのだ。

 まあ、「だからどうしたんだ?」と思う人もいるかもしれないが、要は、俺にとってはこれらの事実そのものが嬉しいのだ。前回の記事(『人はパンのみにて生きるにあらず・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/273377562.html)でも書いたように「俺達は何のために生きるべきなんだ?」なんて事を探し求める連中に対して、そんな問いを真剣に、真正面から受け止めようなどと考えるような人物が、一方で、官僚という立場から、政治家に直接訴えかける事で、国家を良い方向に変えようと努力している。

 そもそも、これほどの人物が
「あーあー、負けた。お前らアンチ共の勝ちだ!!良かったな!!w俺は諦めたww」
などと言っているのを、文字通りに真に受けるのが間違っている。そもそも、いつでもこの人は、いつも保守の主流派と思われていた集団の議論に対して、2歩も3歩も先を行っていた。

 小泉構造改革で日本中が
「自民党をぶっ壊せ!!」
と大合唱してた時期に、間違いを理解し、苦々しい思いで、その状況を観察していた。

 保守派の重鎮を自認する白髪交じりのジジイどもが、揃いも揃って
「アメリカにつくべきか?中国につくべきか?」
などといった議論を行っている中で、
「もはや、そんな時代ではない。現在の欧米の知的エリートの主要な関心としている対立軸は、グローバル資本主義VS各国民主主義の対立である」
と宣言していた。

 主要なマスメディアが、揃いも揃って、TPPとグローバル化を礼賛していた時に、真っ向からTPP反対の言論を展開し、国民世論に多大な影響を与えた。

 今現在、実際のところ、この人が頭の中で何を考えているのかは分からない。しかし、まあどうせ必要な時には、また表舞台に出て来て、俺達をアッと驚かせてくれるのだろう。別に俺が心配する必要など全くない。

 前回の記事では、また、「現代はシラケの時代である」と書いたが、正直なところ、
「この世で大切なのは、カネと女と社会的なステータスのみだ!!」
と言い、現実にそのように考え、人生の意味について考えるような人間を、ダサくて、堅苦しくて、イケてない人間だと、いとも簡単にバカにするような連中で溢れかえっている状況で、それでも自分たった一人で、真実や本質について、どこまでも真剣に考え続けるのは、いかにも辛い・・・

 しかし、物質的には何の役も経たない、しょーもないモノかもしれないと思われるような問いに対して、真剣に向き合おうとしてくれるような男が、確かにこの日本列島に存在し、しかも、この国家を良い方向へ導こうと努力している。その考えるだけでも、ややもすれば暗く、絶望的な気分に沈みがちな、延々と続く思索の中で、わずかながらでも何かこう明るい気持ちにさせてくれるものが確かにあるのだ。

 で、あるならば、今自分がすべき事は、「あー、中野剛志さんの言論に触れる機会も減ってしまうのか・・・」と悲観に暮れる事ではなく、良い方向になんとかしいようと力を発揮できる人間になるべく、出来る限り努力をする事以外ではあり得ないのだと、何か良き予感のようなものを持って確信するのである。


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2012年06月04日

人はパンのみにて生きるにあらず・・・

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 先週の土曜日に公開されたチャンネル桜の討論は、「思想・論壇に新しい潮流は生まれたか?」というテーマで行われ、現在チャンネル桜の中でも特に若手の論客数人が集められた中で行われた討論であった。そして、一応表のテーマとしては「現在注目の若手の論客による討論」であったが、一方、裏のテーマというか、司会の水島社長含め、参加者のうち何人かは「古巣の経産省に戻る中野剛志さんへの送別会」といった意識を持っていた人もいたんじゃないかなぁ、と思う。

 中野剛志さんにとっては、経産省に戻る前の最後の討論であり、いつも以上にはっちゃけるというか、ぶっちゃけモードに入っていた印象もあり、そして同時に、やはりいつものように様々な鋭い分析を行っていた中野剛志さんであるが、俺にとって、今回、他とは突出して格別に印象に残ったフレーズがあった・・・



「若い世代の学生っていうのは、大学に入ってきて「俺達は何のために生きるべきなんだ?」って事を探し求めて来てるのに、教えてる連中はヘラヘラしてるワケですよ」

 大体、いつも毎回長ーい台詞を引用するのであるが、今回は引用するのは、本当に短いこのたった一言である。しかし、俺には、このたった一言の短いフレーズの中に、中野剛志さんの優れた思想、信条、あるいは学問の理想や本質のほぼ全てを説明し切る100万語を費やしても説明し切れないほどの意味が込められているように思えた。

 結局の、ところこの人の思想の全ては、「俺達は何のために生きるべきなんだ?」という問いのためにこそ費やされていたのだな・・・と。それと同時に、俺は、この人がTPP問題を論じ、言論界の異端児として華々しく登場して以来、1年間一貫して、格別な思想家として特別視し、さらには俺自身の学究、思索の指針と定めてきさえしていたのだが、「ああ、やはり俺の直感は間違っていなかったな・・・」と確信することが出来た。

 いや、正確には、「中野剛志さんは凄い」と真に思ったのは、TPP問題を論ずるために討論に参加した時ではなく、日比谷公会堂で行われた、このような講演の演説を聞いた時かもしれない



(TPP参加による国内のデフレ問題深刻化について解説した後に)ここから何が分かるかって言うと、日本人全体が賃金が下がるっていうことなんですけれども、気に入らないのは、その日本人一般、とりわけですね、製造業とか輸出企業に勤めている労働者・・・この人たちって、単純に言えばですよ
「農業を犠牲にしたら、輸出が伸びるかもしれない」
って思ってるわけでしょ?

 つまり、人が苦しんで、人が痛みを伴って、それで自分が楽になるかもしれないって、こう思ってるわけですよね。小泉構造改革とか、ずーっとその路線なワケですよ・・・
「郵政が悪い!!官僚が悪い!!自民党が悪い!!土建が美味しい汁を吸ってる!!それがいけないんだ!!そこを叩けば(全体の)効率性が良くなって・・・」
って、ずーっとその議論をやって叩き続けたんですよ、その間、ずーっとこの日本人って誰かが美味しい汁を吸ってるかもしれないけど、そいつらが叩かれて犠牲になれば皆が楽になるかもしれない、そこで失業者が出てもそれは
「企業努力が足りなかったんだ!!効率性が悪くて淘汰されて当然なんだ!!非効率な奴らはおかしいんだ足を引っ張ってるだけなんだから!!」
って、こうやって来たんですよ。

 でも、そういうのはまず道徳の問題として不道徳なんですけど、それ以前にですね、そういう事やってると必ず報いが来るわけですよ、つまりデフレ。今言ったのと同じで、
「農業を叩いて輸出が伸びて自分たちが楽になるかもしれないんだからTPPに賛成しておこう」
って、判断してる製造業、輸出企業の労働者はデフレに巻き込まれ、次にTPPで移民にやられて自分たちが失業するんですよ、で、賃金も上がらないんですよ。だから人を潰して自分が楽になろうとした報いが必ず来るんですよ・・・ざまあみろと。

 つまり、ここもコモンセンスの問題で余計な事を考えなくっても、人をね・・・人が苦労して潰れてったら自分が楽になるって考えちゃいかんって、なんか僕、お袋にはそう習ったことあるんですけど、なんでそんな事も分からないのかと。

 だから、もっと極論を言うとですよ、
「何で、たかだか非効率なだけだってくらいで路頭に迷わなきゃいけないんだよ?!」
と、おかしいだろ?!

 だって、みなさんもそうかもしれないし、僕の近所だって、僕の親戚だってそりゃ働いてますよ。だけど、デフレで色々あるし、そりゃ能力の問題だってあるから、一生懸命働いたって効率性なんか上がんないですよ。非効率だけれども、まじめに働いて、家族を養って、子や孫養って貯金してるでしょ?なんで、それが路頭に迷わなきゃいけないんだ?!おかしいじゃないか、だって・・・そういうことなんですよ。

 ね?皆さん拍手してますけれど、ここ10年20年、そういう論理で誰かを叩き続けてきたんだぜ?おかしいじゃないか?と・・・コレ以上しゃべると、またちょっとトランス状態に入ってしまうのでこの辺でちょっと止めておきます(笑)


 現代は、相も変わらず、いやむしろバブル期や、その時期以前以上に、しらけの時代である。ややもすれば、先に掲げたような「俺達は何のために生きるべきなんだ?」と言った問いに対し、真剣に考える人物に対し、「ダサい」とか「今時、そんな事真剣に考えたところで何も得しないよ」と言って、いとも簡単にバカにしがちであったりもする。しかし、ここでもやはり現実には、中野剛志さんが言うように「むしろ、バカにされるべきは多数派の方」なのである。そもそも、そのような問いなしには、人間の存在は根底から意味を失うように思える。もし仮に、「俺達は何のために生きるべきなんだ?」といった問いに対し、真正面から真剣に向き合うのが、「バカバカしく、何の意味も無い」のであれば、「ダサい」とか「今時、そんな事真剣に考えたところで何も得しないよ」等と言って、茶化したり、いとも簡単にバカにするような連中の人生も、おそらくはそれと非常によく似た理由により無意味なのである。

 ちなみに、この中野剛志さんの師匠である、西部邁さんは、かつてとある討論にて、
「そもそも、保守思想とは、何のために生きるのか?といった実存思想と表裏一体の関係にある。連中は「安全!!安全!!」「生存!!生存!!」と叫ぶが、では一体「何のための安全と生存なのか?」といった問いを無視した時、その言葉自体が本質的な意味を失った空語と化す」
といった事を話したが、やはり中野剛志さんは、このような思想を忠実に受け継いだ非常に優れた感性を備えた学習者であったのだろう。

 現代社会においては、「安全!!」「生命尊重!!」「戦争反対!!」「平和!!」「人権!!」などと叫んでいれば、それだけで、あたかも非常に温和な人道主義者とあるかのごとくみなされがちであるが、ここでもやはり、それが「何のための安全なのか?」「何のための平和と人権なのか?」という問いに裏付けられない単なるフレーズに過ぎないのだと見抜けた瞬間に、彼らは人道主義者でもヒューマニストでもなく、単なる良く聞くお題目をバカみたいに繰り返すノータリンに過ぎないのだと理解出来る。「それが、何故必要なのか?」という問いと表裏の関係に無い「平和思想」「人権思想」など、人間を動物や家畜と何ら変わる事のない、生理学的要素のみに還元され得る、非理性的動物とみなす、ある種の虚無主義の裏返しに過ぎないのである。

 一方では、このように人生に本質的にはなんの意義も見出し得ない空虚なお花畑思想の似非ヒューマニストが存在し、また一方で、人文科学を「人生の本質的意義」から完全に隔離し、それをファッション化しては、AKBやらアニメやらオタク文化やらについて、一見気の効いたようにも見える極めて単純化されたフレーズを用いながら、ドヤ顔で語るような不真面目で不誠実で、ふざけた連中がいる。おそらく、中野剛志さんはこういう連中に心底ムカついていたのではないだろうか?この人はよく講演や討論で「一体なんなんだ?このふざけた考え方は?」だとか「もっと真剣に考えろよ!!」といった台詞を吐くが、「俺達は何のために生きるべきなんだ?」といった問いに真剣に向かい合い、そして若い学生たちにとっての同じような問いに対しても真摯に向かい合おうとする彼にとって、もはや、極めて耐えがたく、同時に許し難い連中に思えた事だろう。

 確かに、中野剛志さんは、優れた分析力、説明能力の高さ、ユーモアセンスの高さなど、学者、言論人として非常に優れた特質を数多く、兼ね備えている。しかし、この極めて優れた思想家を他の凡百の評論家連中と隔絶せしめる真の本質的要因は、やはり「何のために生きるのか?」といった実存思想に真正面から取り組むその姿勢にあったのはないかと思う。

 先日発売された雑誌「アエラ」で、中野剛志さんの特集を行っていた。記事によれば、やはり経産省に戻れば、今までのように何でも自由に喋れる状態ではなくなり、ある程度、発言に制限がかけられてしまうようである。しかし、おそらく経産省に戻る前の最後の討論での
「若い世代の学生っていうのは、大学に入ってきて「俺達は何のために生きるべきなんだ?」って事を探し求めて来てるのに、教えてる連中はヘラヘラしてるワケですよ」
という台詞は俺の中に、他の凡庸な評論家、言論人が100万の言葉を費やしても、与えられないであろう、強烈なインスピレーションを与えてくれた(ように思えるが、まあ錯覚かもしれないw)。たしかに、中野剛志さんが経産省に戻ってしまうのは悲しいが、これほど優れた人物が自身で決断した事であるのだから、やはり何か考えがあっての事であると思っている。現在は、本当に存分に頑張って活躍してほしいと願うばかりである。


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2012年06月02日

菅直人元首相、福島での原発対応からの考察・・・

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 先月の28日に、非常に気になったニュースがあったので、今回はそれについて取り上げてみたい。

海水注入「私の発言と違う」 声あらげこぶし振る

 菅直人前首相が28日、国会の東京電力福島原発事故調査委員会の公開聴取に応じた。「レベル7」という最悪の原発事故に直面した政府首脳の対応は適切だったのか。国民が注視する中、当時の“最高指揮官”は「情報が上がってこなかった」「事故は日本の病根を照らした」などと、自己弁護や持論の展開に終始した。

 会場となった東京・永田町の参議院議員会館講堂には、報道陣と一般傍聴合わせ約230人が詰めかけた。

 菅氏は濃紺のスーツに白いシャツ、ストライプのネクタイ姿で開始時刻より1分早く会場に登場。一斉にフラッシュがたかれると口を真一文字に結び緊張した表情で参考人席へ。

 冒頭、委員から「当時のことを聞くので『菅総理』と呼ばせていただきたい」と聞かれると、笑みを浮かべながら断る余裕の表情を浮かべた。

 だが、事故直後の状況について、現地視察の是非や避難区域の設定など細部に質問が及ぶと、穏やかな表情は一変し、用意した資料に視線を落としながら説明した。

 菅氏が最も声を荒らげたのが、菅氏による海水注入停止指示があったかとの質問の時だった。「私の発言とは違う。そこだけははっきりとしてほしい」と、左手でこぶしを振りながら語気を強めて気色ばんだ。

 聴取は予定時間の2時間を50分も超えた。最後に発言を求められた菅氏は、「批判を封じてきた」と産官学の“原子力ムラ”を戦時中の軍部になぞらえて批判。「脱原発」を訴える一方で、多くの疑問を残したまま退席した。

MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120528/plc12052821570027-n1.htm


 読むだけでも、何とも、不愉快な気分にさせられるニュースだが、今回取り上げたい問題は後半部分の「海水注入停止指示」に関する問題。実は、この震災と原発事故が起きた1ヶ月後の討論で中野剛志さんが、これに関係しそうな問題に関し鋭い指摘を行っていた・・・



「これは、私は報道ベースで見てますから、滅多なことは言えないですけど、福島第一に総理が視察をした。その事の影響をあるかないか?っていう検証をしないとですね、それは、確かに冷却装置を動かすための非常用電源が止まった、でもその次にベントを開けるとか、次のマニュアルが二の矢、三の矢と用意されていたシナリオが狂わせた、もしそこが狂うと、さすがに政治的に狂わされるって事は想定できないので、その後の対応は、普通に考えると後手後手になるんですよ。

 ところが、妙なとこがいくつかあって、一二日の12時半に、政府は東電にベントを開くように指示をした、にも関わらず、8時半くらいまで放置した事になっているんですよね。でも私はですね、東京電力のこの事態で、もし政府の指示でベントを開けると、確かにベントを開けると放射線物質が出るとか問題があるんですけど、政府の指示なんで、責任は政府の責任に覆いかぶせる事が出来るんですよ。ところが、それにそんなに長時間背くと、政府の指示に背いたってリスクと、自分でリスクを全部負わなきゃいけないって、二つのリスクをですね、言い方悪いですけど、東電の幹部たちがそんな事思うだろうか?というふうに思うんですね。

 そこら辺っていうのを、もうちょっと検証した方が良いんじゃないかと、そんなふうに思います。」


 なにやら菅直人は海水注入中断について「東電から官邸に派遣された人が自分の判断で行ったことだ。」と言っているようであるが、先の中野剛志さんの指摘を考慮するとこの点は疑問が残る。結局のところ、今回の原発問題は、国家的な危機と言っても過言ではないような状態であり、そもそも東電という一企業の判断で好き勝手に色々と対応するのは明らかに困難であったハズであり、その後の東電バッシング等を見ても、出来るだけ非難を避けたいという想いが強かったはずであり、であればこそ、あえて一度実行した海水注入を途中で中断するなどといったイレギュラーな対応を東電の自主的な判断で行うのだろうか?と・・・。世間では東電が物凄い怪物のような利権集団でもあるかのごとく騒いでいるが、実際にはただのサラリーマンと大した違いは無い。

 もちろん、俺には真相はわからない。ざっとネット上で記事を集めるだけでも、東電を批判する内容、菅直人を批判する内容と、ブログ等で様々な意見が書かれている。しかし、確かに言える事は一つあって、それが何かと言えば、
「このような様々なリスクが伴う危機的状況において、東電が政府の指示に背いてでも勝手な事を行うことはあり得ない」
という事である。

 非常に月並みな結論で恐縮だが、結局のところ、東電にどのような判断ミス、対応ミスがあったとしても、先の議論を踏まえるならば、それ自体、政府から的確な指示が無かった事の証明に近いものであり、であるならば、首相自身が現場に駆けつけて散々に東電の事故対応を邪魔して計画を狂わせた上に、自分たちで的確な判断が全く取れなかったにも関わらず後付けで、
「東電のアレが悪かった、コレが悪かった」
と・・・ハッキリ言って、それは卑怯だろうと思うし、国家の全体的な運営に関して責任を負うべき首相の態度としてはあまりにも不適切ではないか?と思うのだ。

 そもそも、適切な判断を下すためにこそ、菅直人自身が事故の状況を自分の目で見たいと言って現場に行ったのだろう。その時点で、もう東電は精神的に相当に自主的な自由な判断を行うことが困難になる事は明白である。何しろ、首相が、「自分の指示の判断材料とするために現場を視察する」と言ったのだから、東電としては、首相から、何らかの指示が下されるかもしれないと考えるハズだ。そこで、何一つロクな指示を出せずに、うろうろされていては困る。そのような妨害行為をしておきながら、後になって、「東電のアレが悪かった、コレが悪かった。私は悪くない!!悪いのは東電と原子力ムラだ!!」と、もういい加減にしてくれ。

 なんというか、もう全体的な印象としてあまりにも振舞いがガキっぽいのだ。事故が起った直後に、官邸で情報を収集して指示を出すという責任を放棄して、事故直後に現場を視察。視察の後は、大した知識も無いくせにドヤ顔で「僕は原子力に詳しいんだ!!」とマスコミ記者に言い放つ。そして、当然ながら適切な指示など何一つ出来なかった、にもかかわらず、自らの無能や対応のマズさは棚に上げて、後付けで東電が悪いんだ!!と批判に終始、そして、その後、一連の震災、原発対応のマズさを野党に批判される過程で、辞任する事をほのめかしながら、仲間にまで嘘をつき、一定期間首相の座に執着・・・

 傲慢、無能、無責任、責任転嫁、強欲、ペテン・・・数え上げたらキリがない程の多くの性質の悪さと、無能力を見せつけてくれた首相である。

 ちなみに、菅直人は、東工大から出た初の首相らしいのだが、東工大の院に通う友人曰く
「よりによって、この大学から出た初の首相がこんなのとは・・・コイツは、東工大の恥だ!!」
との事である・・・

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posted by 古谷経衡と倉山満による不当な言論弾圧を許さない市民の会 at 13:16 | 神奈川 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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