社会主義、弱者保護は経済に悪影響を及ぼす@

第一には、社会主義や弱者保護は経済効率に反するということ、

「田中角栄が、生涯を通じてこの「農村工業論」以上の経済認識に到達したとは考えられない。一連の「過密と過疎の同時解消」政策を推進する上で、一瞬たりとも、「都市に人口が集中するのは、経済効率がいいからではないか」といった疑念に駆られた形跡はない。彼にとっては人口密度が高くて経済活動も停滞している地域があれば、人口の多いところから少ないところへ人間を移住させるほうが効率的だ」というのは、疑問の余地のない自明の前提だった。(中略)
「政治家や官僚からの特別待遇や早耳情報で他人を出し抜いていれば、多くの同業者との厳しい競争を勝ち抜ける」なんて発想で経営が務まるのは、地場の中小ゼネコンぐらいのものだ。日本経済の中でいちばん効率的な大都市圏にある大企業同士の勝負がこんなちゃちな理由で決まるものなら苦労はない」(『高度経済成長は復活できる』増田悦佐)

かつて「日本は世界で唯一成功した社会主義の国だ」などと言われることがあった。多くの日本人はこれを「豊かさと平等さを兼ね備えた素晴らしい国」であることの褒め言葉であったと思っているかもしれないが実際は違う、「高度な技術を要する製造業でトップに立っていながら、経済効率に反する愚かな政策をとっている国」を皮肉った言葉であると言ったほうが真実に近いだろう。

「金は金のあるところに集まる」
よく言われる言葉であり、確かに真理の一面を表現しているだろう。しかし、これを貧乏な人が貧乏であり続ける言い訳として使うのは適切ではない。なぜなら
「金が増えるところに金が集まる」
というのもまた真理であるからだ。どういうことかというと、金があるところに金が集まるのではなく、そもそも金が集まるような場所に金があるだけだ。という考え方もできるということだ。

資本主義(市場主義)は自然に効率化(生産性の向上)や最適化(価格の適正化)を促すが、決して富の分配は促さない。一方社会主義は経済効率を犠牲にして富の分配・平等を促す。

資本主義を徹底的に突き詰めれば、格差が拡大し労働者の貧困化を招くかもしれない。しかし、経済効率や生産性の向上を犠牲にする社会主義国家は現代のグローバル経済競争のなかでは勝ち抜けずに、全員を貧しくする結果となる。

残念ながら世界は現在、競争に勝とうという意欲を全く持たない全ての人々を養っていける(あるいは豊かな生活を保障できる)ほどには豊かではない。


↓また面倒くさそうなシリーズを初めてしまった・・・応援よろしくお願いします

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『フロイト先生のウソ』の一文から・・・



↑現代心理学を痛烈に批判する本。まあ、心を治す特効薬などないわけで・・・


「しかし、見捨てられて(誰に?神に?)傷ついた子どもというフロイトの神話の原型からは、心を打つ比喩も伝わってくる。それは心理学界が標榜している自由や開放という流行に矛盾するからというのでフロイトの弟子たちはこのメッセージを表に出したがらない。(中略)それは「人生は悲惨だ。限界は現実に存在する。どんなことにも代償はある。何事もタダでは得られない。われわれは生きている限りこの状態から脱することはできない」というものである。」(『フロイト先生のウソ』ロルフ・ローデン)


俺は、母親と色々な面で考え方が対立することが多いが、中には非常に似た考えを持っている部分もある。その共通する考えの中でも最も根本的な部分にあるのがこの「人生は悲惨だ」という考えだと思う。

ただ同じ認識の中から、母親は
「それなら周りに協調して、波風立たせず暮らすことが良い」
と考え、俺は
「それなら、せめて自分のやりたいことをやりたい」
と考えた。

とは言っても、特別俺が平均的な日本の若者に比べ、実質的な負担を親に強いているワケではない。

突然、高校を辞めたり、自分で商売やりたいからと言って大学に行かなくなったりしたが、結局高校を辞めた後もすぐに高認(俺が取った時は大剣と呼ばれていた)を取得し、同級生と同じ年に大学に入学したし、大学1年延長が決まってもその分の学費は自分で負担しているし、夏休み春休みには家の仕事の手伝いもする。(結果的にではあるが)高校卒業しても小遣いやらなんやらもらってる奴よりは多少マシだろう。

まあ、それはいいいとして。なんとなく保守的な考えの人たちの多くに感じるのが「普通にしてれば、普通になんとかなるだろう」という意識である。

普通に社会で生活していれば、色々な人がいろいろなアドバイスをしてくる。俺はよく「人の意見を聞かない」と言われることが多いが、別にワザと天の邪鬼のように振舞っているワケではない。自分の中にあるいくつか考えが安易に人の意見に流されないように自分自身を規制している。その考えの一つ目は
「他人は自分の行動の責任を決してとってはくれない」
というものだ。
取ってくれないというよりも取りようがない。

進学、就職あるいはそれほど大きくない些細に思える事柄であっても、自分の行動を決定するのは自分自身であり、その結果に対する責任を負うのも自分自身である。少なくとも18を超えても自分の行動の結果に対する責任を他人に求めるのはフェアではない。(心理的にはどうあれ)現実には他人はそれほどの影響力を持たない。

それから、二つ目は「機会損失」という考え方である。もともと小売業で考え出されたものだと思うが、(小売業の例で)簡単に説明すると客が求めているのに在庫を切らせてしまい、もし在庫が残っていれば売れていたであろう売上のことである。

この言葉を聞いた時なんとなく「面白い言葉だな」と思った。実際には何も損はしていない。しかし、もし、在庫を補充していれば発生していたであろう売上分を損失と考えるのである。

あまり、○○の分野の例で人生を例える系の話は好きではないのだが、あえて使わせてもらうと、人生でAの道を選ぶか、Bの道を選ぶかという選択を迫られたときに、「皆がAの方が安全だからAを選んだ方がいいよ」と言ったから、という理由でAを選んだとする。この選択が可もなく不可もなくといった無難な結果をもたらしたとするなら、一見損はないように思える。しかし、機会損失という考え方を用いるなら、このときもしかしたらBを選んだとしたらもたらされていたはずの素晴らしい何かを失ってしまったかもしれない(あくまで「かも」であるが)。

それから最後の考えは
「自分以上に自分のことを分かっている人間はいない」
というものである。当然自分にとって何が最善であるかを(おそらく)最も理解しているのは自分である。

他人が自分に押し付けようとする意見はあくまで一般論であり、それが「自分にとって」最善である保証はどこにもないい。


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夏休みだな、菅谷

という一部狼住人にしか理解できないネタは置いといて・・・

先週の日曜から夏休みが始まった。

母親に、どうせ暇なんでしょ?というニュアンスを含んだ感じに
「夏休み、何するの?」
と聞かれたが、別にそれほど暇なわけではない。生活費を全て自分で稼がなければならないのは夏休みであっても変わらないし、はっきり言って授業期間中が異常に忙しかっただけで、それと比較して楽になったに過ぎない。

とは言っても、授業期間中に学校に行ってた時間をまるまる好きなことに使えるわけで、やはり今までできなかったことをやりたいとは思っている。

とりあえず、忙しくなった時に真っ先にカットした、セミナーや勉強会に行ってみたり、知人と街をフラフラしてみたりした。

以前作ったが、忙しくなり完全放置状態になったサイトの更新や、今後やっていきたいと考えている計画の準備等、やりたい事やらなければいけないことは多い。

大学の夏休みは長いといっても、2ヶ月程度しかないのでいろいろと急ぎでやらなくてはならないことも多く。まあ、結論を言えば
「どうやら、夏休み中も忙しそうだ・・・」
ということ。まあ、忙しくはあるが誰に強制されるでもなく自分の意思でやることなので楽しみながらやれれば、とは思っている。


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posted by TAKA at 18:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | その他

日銀が発行した紙幣はその後どうやって社会に流通するのか?

先日書いた『民富論D』(http://achichiachi.seesaa.net/article/102756271.html)は補足したい項目がわりと多い。

まず、『民富論D』では、投資の金額が貯蓄の増加とイコールで結ばれる。と解説したが、現実の日本経済をみたときの民間の貯蓄(あるいは企業の内部留保)の増加は投資のみでは説明できない。

日本(人、企業)貯蓄の源泉の代表的なものの一つは、貿易黒字であり、それから政府つまり官の赤字である。
これらについても、おいおい書くとして、今回のテーマは
「日銀の発行した通貨がいかにして社会に流通するのか?」
である。

「日銀は日本で唯一の発券銀行である」これは、中学卒業以上の者であれば誰でも知っている事実だ。しかし、先ほど「日銀の発行した通貨がいかにして社会に流通するのか?」の問いについては誰もが答えられるワケではない。
非常に基本的でありながら、意外と知らない人も多い問いであろう。
まさか、日銀が発行した通貨を空からばら撒くと思っている人はいないだろうが・・・。

ちなみに、この後に続く文章は全てが何かしらの資料で確認をとった事実ではない。経済やお金についていろいろ調べているうちに俺が「いろいろなデータを総合してみるとどうやら日銀から始まるお金の流れはこのようになっているようだ」と推測した箇所も多く含まれるので承知しておいてほしい。


この問いの答えは一つではない、まず一つ目は日銀が銀行にお金を貸す。そして日銀からお金を借りた銀行が民間に貸し出すことで社会に金を流通させるという方法。この機能こそが日銀が銀行の銀行と呼ばれる理由である。

それから、もう2つ目は国債買い取り。日銀(又は日銀からお金を借りたその他の銀行)が国債を買い取る、そうして日銀から直接あるいは間接的にお金を受け取った政府が国家予算として使用したお金が民間に流れる。

それから、3つ目が日銀が民間から直接的に資産を買い取る方法。これは公園であろうがビルであろうがなんでもかまわない。とにかく日銀が資産を民間から買い取ることでこれまた社会にお金が流通する。

他にも、日銀が消耗品を買うこともあれば、日銀の行員の給与の支払いもある。ただ、これらのことはあまり重要とは思いにくいので解説は省略。とにかくお金を貸すか、使うかすることによって社会にお金が流通するのである。

しかし、ここで一つの疑問が残る。
「たとえ、日銀がこれらの方法で金を社会に流通させたとしても、社会の富の量自体は変わらないのではないか」
と、しかし、現実にはバブル崩壊まで日本経済はひたすらに富を増加させてきた、当然お金の量もである。

例えば、日銀がお金を他の銀行に貸し出してその銀行のお金が増えたとしても、同じ額だけ借金という負債も増えるので富の資産の量は変化しない。さらには当然のことながらこのお金はいつか返さなくてはいけない(とされている)ものである。

民間からの資産の買い取りにしても、不景気で通貨の流通量を増やすために資産を買ったとしても、その後景気が過熱気味になり通貨の流通量を減らしたいとなったときに再び民間に売り戻すこととなる。もしこの時に買い取り金額と販売金額が同額であるならやはり社会の富は増加しないことになるのだ。

この疑問の答えは先に挙げた『民富論D』の中にある。
つまり、『民富論D』のなかで説明したように投資家や企業家が投資を行いその分だけ社会の富が増加する。
その新たに増加した富(資産)を日銀が買い取ることで社会のお金も増加するのである。

と、ここまで書いておいて実は「すまん」と謝っておきたいことがある。というのも先に書いたように、この理屈が全て正しいという確証は実はないのである。何かの本に書いてあったワケでもなく、いろいろな情報をつなぎあわせて俺自身が考えだした理屈である。
もし
「この他に社会のお金の量を増やす方法はないのか?」
と問われれば、
「あると思う」
と俺は答えるだろう。
たとえば、今までは無価値なゴミでしかないと思われていた物質が新たなエネルギー燃料の素材であると判明すれば、(不思議なことだが)その判明した瞬間に社会の富は増加することになる。


宇宙のすべての真理を理解している者はいない。その例えがオーバーであるというなら、現代のPCの仕組みを完全に理解している人間は存在しない。
それと同じように社会のお金の流れをすべて理解している者は存在しないのである。

だから、こそこのような一部推測的な議論はどうしても必要なのではないかと思っている。

「一般にいって、いわゆる働き盛りといわれる年齢の人は、一生懸命働いて貯蓄します。(中略)このため、働き盛りの人がたくさんいる社会は貯蓄がたくさんあることになります」(『竹中教授のみんなの経済学』竹中平蔵)

少なくとも、こんな文章を恥ずかしげもなく披露し、それでいて偉そうに経済の専門家を名乗るよりは、100パーセント正しいという保証はなくとも情報を集めたり、分析したり、推論をたててみたり、少しでも真実に近いと思われる認識を獲得に向けて努力する。それこそが探究者として正しいあり方なのではないだろうか。


↓あー、なんかだんだん文章が難解になってきた・・・応援よろしくお願いします

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posted by TAKA at 02:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

飲み会

俺は、生まれつきアルコールに弱いわけではないと思っている。
しかし、両親からの遺伝か、酒はあまり好きではない。よって、自然酒に強くもないので、飲み会があるといわれると「よし、今週の○曜日は飲み会だ!!」と覚悟を決める。

道場での飲み会は、1次会はなんだかんだで、責任者、先生のいる手前周りの人たちもペースを考えてくれる。そこで俺は調子に乗ってこう思う。
「ふふふ、俺も飲み会を経るたびに強くなっていくのだよ・・・」
と。

2次会は、
「いやいや、無理っすよ、こんなの!!」
と、口では言いながらも、、なんだかんだで飲む。
しかし、この時点での「無理ですよ」という言葉は、「明日も午前から用事あるし・・・」という意味を暗に含んでいる。

3次会は正直言って・・・。

「いやいや、未だかつてそんな色した飲み物見たことないんですけど・・・」
というレベルに達する・・・。

「せーかーいーーがーぐーるーぐーるー回ってるよ〜〜〜〜♪」
自宅に帰宅するときにはそんな歌が頭の中で鳴り響く。

何があっても家には帰り着く。
他人にとっては、ただのオンボロアパートであったとしても、俺にとって自分のかけがえのないHomeである。

引きこもり検定準1級の俺にとって、自宅とは聖地と言っても過言ではない。

「1日を終えて、家に帰り2chをチェックする」
そんな幸せがあってもいいんじゃないかと思えたある夏の夜。


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posted by TAKA at 01:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | その他

民富論D

今回の記事に副題をつけるとしたら、
「誰も不思議に思わない「貯蓄はなぜ可能か」」
となる(まあ、これも例の本の章題なのだが・・・)

「すべての企業が儲け、かつすべての個人が貯蓄を増やすには条件があります。しかし、多くの人は、まじめに働けばおのずと儲かり、節約すれば必ず貯金できると思い込んでいます。経済入門書にも、儲けと貯蓄の仕掛けを簡明に説明した例を見たことがありません。「貯蓄はなぜ可能か」という素人的かつ基本的視点が欠落しています。(中略)
@なぜ企業は儲かるか?それは消費者に原価より高く売るから
Aなぜ消費者は貯蓄できるか?それは給料より少なく買うから
しかし、この2項は矛盾します。共に相手から余分のカネを得るつもりです。これで儲けと貯蓄が同時に成立することは不可能です。」(『日本を滅ぼす経済学の錯覚』堂免信義)

日本人の多くは給与所得者であり、給与所得者が貯蓄するには支出を給与所得より少なくしなければならない。一方、給与は企業の売上かあら支給される。
売上の一部から支給される給与の、さらに(貯蓄を除いた)一部しか消費に回らないとすると、企業の売上は減り、給与の支払いも減ることになり、継続的貯蓄は不可能になる。

企業間の取引においても、全企業が原価に利益を上乗せして販売するなら、その金額は誰かが負担しなくてはならない。原価分のカネは企業から外に流れているので、原価で誰かが買ってくれる可能性はあるが、利益分の金額は最終的には消費者が負担しなくてはならない。ところが、その消費者の多くは企業から給与を支給されている。ここに矛盾が存在ると堂免氏は指摘する。

「一般にいって、いわゆる働き盛りといわれる年齢の人は、一生懸命働いて貯蓄します。(中略)このため、働き盛りの人がたくさんいる社会は貯蓄がたくさんあることになります」(『竹中教授のみんなの経済学』竹中平蔵)

この文章を引用し堂免氏は「著者は貯蓄がなぜ可能であるかについて疑念を抱いていないようにみえます。」とやんわりと批判している(何故か堂免氏はこの竹中平蔵の文章を何度も引用しては批判を繰り返している、おそらく嫌いなのだろう・・・)。

以前書いた記事(http://achichiachi.seesaa.net/article/102177147.html)に示したように、単純な商品のやりとりだけでは、社会のカネの量は増えないし、個人の自発的な意思による自発貯蓄は経済を縮小させると説明した。

しかし、現実に日本人は延々と貯蓄してきた。ではいったいこの貯蓄の源泉は何なのだろうか?その答えを堂免氏はこのように説明する。

「企業の儲けと個人の貯蓄は成立しません。個人が貯蓄すれば、企業は赤字になります。個人貯蓄ゼロでも企業の儲けの合計はゼロです。ある企業が巨額の利益を上げれば、多くの企業が赤字になるのです。全企業が黒字になるためには個人の貯蓄を取り崩す必要があります。要するに、誰かが儲かれば、その分誰かが損するのです。(中略)
ところが、赤字企業が1社もなく、個人も貯蓄を減らさず、全企業が儲ける方法があります。それが投資です。(中略)
ある企業、たとえばA社が過去に蓄積した資金または銀行からの借入金を利用し、100億円のビルを建てるとします。ビル建設に必要な技術、資材、労力はすべてこの社会内部で調達可能とします。これが重要な前提です。
ビル建設にかかった費用は、期首早々の設計開始から、A社から社会に流れていき、A社以外の社会の貨幣残高が少しずつ増えていきます。期末直前に完成したとすると、A社以外の社会全体では、
期末の貨幣残高−期首の貨幣残高=100億円
となり、これが企業貯蓄と個人貯蓄に分配されます。すなわち、
企業貯蓄+個人貯蓄=100億円
が成立するのです。この100億円は、どう使われても社会の中を移動するだけであり、消滅することなく誰かの貯蓄になります。
この式は、社会に100億円分の富が増えたことを意味します。」(前掲書)

つまり、めちゃくちゃ簡単に説明すると、A社からはビルの建設費の100億円のお金が出ていくが、100億円分のビル(資産)が新たに手に入るので、A社の富の量は変わらない、しかし、A社の使った100億円はA社の属する社会に分配されるので、社会全体で見て100億円の富が生み出されたことになる。

そしてこの100億円こそが貯蓄の供給元であるということである。


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posted by TAKA at 01:48 | Comment(2) | TrackBack(0) | その他

ようやく2ch狼飽きてきた

俺は基本的に、特定のゲームとかにハマると、時間の無駄とは分かっていても連日何時間もプレイする。

当然、こういう時に、
「どーせ、時間の無駄だし止めよ。」
と思って、すぐに中断するのが当然理想なのだが、案外難しかったりする。

だから、俺はとことんやる、ずっとやってればそのうち必ず飽きてくる(これと同じことを無限に終わらないネトゲでやると悲惨なことになるらしいが・・)。
「あー、もう飽きたな」
と思った時にはできるだけスパッと止めて、できたらもうそのゲームは一生やらない。

これと似たことを、今回2chの某掲示板でもやった。

色々とコメント見たり、書き込んだりしてる時に、突然
「こんなことして何か意味あるの?」
ともう一人の自分が話しかけてきた。

答えは言うまでもない。


さあ、大学英語の課題やるか・・・


↓応援よろしくお願いします。

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posted by TAKA at 14:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

やっぱ自分はアイドル好きなんだなぁと・・・

新しいPCが届いてから、共有ソフトで大量に音楽等を落としているのだが、1番多く落としているのがハロプロ系の音楽(本当はPVが欲しいのだが無かった)。

以前は
「逆境に負けるな」とか
「苦しくても頑張れ」とか
ロック系に多い、
「人生基本的に苦しいけど、その中にも希望を見出そうぜ!!」
的な歌詞(?)の曲ばかりを好んで聴いていたのがだ、数か月前からもっと単純でお軽い感じのアニソンやアイドル系の曲の良さを認められるようになってきた(それと同時に何か大切なモノを失った気もするのだが・・・)。

まあ、今でも「人生基本的に苦しいけど、その中にも希望を見出そうぜ!!」的な曲はよく聴くのだが、なんというか実際の人生望まずとも辛いことや苦しい出来事なんていくらでも身の回りに起きるのだから、音楽くらいはバカらしいくらいにストレートな歌詞で、明るくて楽しい気分にしてくれる曲もいいんじゃないかと。


まあ、結局何が言いたいのかというと・・・
「ハロプロ最高!!」


↓「ハロプロの良さを理解するということは、精神的に一段階成長したことを意味する」(ポポルキウス)・・・応援よろしくお願いします

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posted by TAKA at 03:37 | Comment(5) | TrackBack(0) | その他

民富論C

「貨幣経済では、支出は必ず誰かの収入になります。逆に収入は、必ず誰かの支出を必要とします。(中略)
企業や個人が年間収入と年間支出を一致させれば、GDPは維持されます。誰かが収入の一部を貯蓄に回すとその分だけ別の誰かの収入が減り、GDPも減ります。貯蓄は経済の縮小を伴います。経済縮小を伴わない貯蓄には、社会の外からの投資が必要です。後に示すように、投資はそのまま社会の所得となり、全額が社会の貯蓄増加になります。」(『日本を滅ぼす経済学の錯覚』堂免信義)

「投資はそのまま社会の所得となり、全額が社会の貯蓄増加になります。」
この事実を経済学では

貯蓄=投資

と表現する。
「投資活動により貯蓄が自然に増えるので“投資→貯蓄”となる」というのが先日紹介した堂免理論の定義の一つである。

堂免氏は増加原因に応じて貯蓄を二つの種類に分けている。

@自発貯蓄:各人が自分の意思で貯める貯蓄
A自然貯蓄:投資により社会に自然に溜まる貯蓄

このうち自発貯蓄は、他人の収入を減らし、社会全体の貯蓄を増やすことはできず、経済の縮小を伴うと指摘する。

ところで、先にあげた本のタイトルでもある経済学の錯覚だが、この重要な錯覚とは
「現在の経済学の第1の錯覚は、「自発貯蓄が無条件に可能である」としていることです。
第2の錯覚は、“貯蓄→投資”(=貯蓄から投資へ。貯蓄が投資資金になる)としていることです。」(前掲書)
この2つである。

まず、1つ目の錯覚については堂免氏は江戸町人を例に挙げ、このようにせつめいしている
「江戸時代、江戸の町人は宵越しのカネをもたないことを自慢しました。稼いだカネをその日のうちに使うのです。ただし、それでは翌日何も買えなくなり、商売不能になりますから、稼いだカネは手元の財布で一夜を越し、翌日使い切ったのでしょう。

それでは、ある日突然、すべての江戸町人が稼ぎの5%を貯める決意をしたとします。銀行も郵便局もない時代ですから、タンス預金になるでしょう。5%のカネが財布からタンスに移り、翌日の町人の稼ぎは、前日の95%まで落ち込みます(江戸には旗本、大名も多く住んでいましたが、ここでは考慮の対象外とします。落ち込んでもまたその日の稼ぎの5%を貯める。この調子で「5%貯めこみを10日間続けると、1日の稼ぎは以前の6割弱(0.95の10乗は0.58)に急落します。10日間で稼ぎ1日分の4割強、年収比にして0.1%が貯まりますが、これでは貯蓄どころか暮らしが成り立たなくなってしまいます。」

ここから堂免氏は、個人の自発的な意思による自発貯蓄はうまくいかないと結論付ける。

当然、江戸時代と現代ではまったく事情が違うのでこの例をそのまま当てはめるのは無理がある。現在銀行に貯蓄されたお金は、銀行が企業等に貸し出すことで誰かが貯蓄している間でも社会に出まわるので、貯蓄額がそのまま社会に出まわるお金の減少につながるワケではないし、銀行の信用創造という機能も存在する。
なので、あまり細かくに考えずに貯蓄(使われないお金)が増えるほど社会に出まわるお金の量が減ると理解すればいいだろう。

このように、個人の自発的な意思による自発貯蓄はうまくいかないが、備蓄であればそれは可能である

「「5%貯めこみ」が不可能なことがわかった江戸町人は、そこで決心を変え、江戸前で獲れた魚の日干しを、月初めに1匹備蓄することにします。消費を減らして備蓄するのではなく、1匹余計に買うのです。この「魚の日干し備蓄」は日干しが品薄にならない限り永続可能です。江戸の漁師の収入が増え彼らはそれを、宵を越さずに使うので、回りまわって一般の町人に還元されます。漁師以外の町人の仕事も増え、月間所得は日干し1匹分増えます。こうしてカネが回転し、魚の「日干し備蓄」が永続性を得ます。」(前掲書)

備蓄は永続可能であるが、貯蓄はどこかで継続不可能になる。無理な貯蓄は社会全体の収入を減らし、失業者を増やす結果となる。自力に頼る自発貯蓄は、社会全体としては不可能であるということだ。

堂免氏は、効果のない貯蓄で売上を急減させ、暮らしにも事欠くようになる江戸町人の5%貯蓄は、「正真正銘の愚行である」と断じている。


↓あー、このシリーズかなり長くなりそう。今度こそ途中で投げ出さないようにしなくては・・・応援よろしくお願いします

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posted by TAKA at 02:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

這い上がる力



↑このブログでもたびたび引用させてもらっている藤井厳喜氏の最新の著書。


まあ、先日この本を駅の本屋で見かけたのだがとりあえず、最初の感想としては
「えええぇぇ・・・」
といった感じ。

というのも、この著者の本は以前から何冊か読んでいるのだが、著者の基本に日本経済の現状と今後を非常に悲観的に捉えており、鋭い分析と比較的硬派な文章が売りであった。

そして、基本的には巷に溢れている、金持ち本、自己啓発本を嫌っていたはずなのだが、今回はあまりにも今まで書いていた本とのギャップが大きかったので驚いてしまった。

「最近、巷間では日本の国家破産に関するいろいろなタイプの本が売られている。国家破産を警告する書から、やがてくるそのときに起こるであろう「預金封鎖」や「ハイイパーインフレ」などへの対処法を書いた本などである。
さらにこの期におよんでまで、一般庶民に向かって「必ず成功する方法」とか「金持ちになれる方法」を説く本まである。悪い冗談としか言いようがない。(中略)
では、いったい本書では何が書かれてえいるのか?
それは、身も蓋もない「絶望的未来」である。生活がどんどん貧しくなり、やっとの思いで暮さなければならないあなたと著者の未来だ。(中略)
実際のところ、この手の話を書くときには、最後は少しでも明るい方向へ持っていく方が本は売れる。「こうすればトクできる」ということを、さも初公開するようなふりをして、「今からでもなんとかなる」と言って、資産倍増法とか株の投資法を書いた方が読者は買ってくれる。
しかし、いま進行中の事実を見れば、どうしてこんな馬鹿げたことが言えるだろう?」(『新円切り替え』藤井厳喜)

こう書いていたのが4年前。

俺はどちらかといえば日本経済に関しては楽観的な認識を持っているので、著者とは意見の違う部分も多々あるのだが、『総下流時代』に書かれた、
「グローバル化に伴う世界経済のフラット化」

「かつての共産国や低開発国までもが市場経済に参入することで世界的な経済競争が激化し、今以上に経済格差は大きくなる」
等の理論展開は面白かった。

それにしても、一体どのような心境、あるいは認識の変化があったのか?と気になりこの本も買って読んでみたのだが、そういった部分の説明は特になし、まえがきに
「さて、超・格差社会の本格的到来を、私は以前「這い上がれない未来」として説いた」(『這い上がる力』)
とあるのだが、さてはて「どうやら頑張れば個人の努力で這い上がることが可能なようだ」と考えが変わったのだろうか?

まあ、そうういう解釈ももちろん可能だが、基本的には一般ウケを狙って書いてみたというのが事実に近いだろう。

ある分野で活躍した人物が、出版社勧めなのか突然いわゆる「よくある成功本」を書いたりすることは多々ある。

別にそれ自体は無条件に非難されるべきことではないが、この人の場合、どうにも他の著作との整合性がなぁ・・・

まあ、内容としては、まあまあそれなりに面白かったが、今までの主張を覆してまで書くべき一冊であったかという点には疑問を持たざるを得なかった・・・


↓応援よろしくお願いします

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posted by TAKA at 20:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | ウラ技