「永久国債の研究」を読んで・・・




実はまだ数十ページしか読んでいないのだが、どうにも言いたいことがあるので、解説してみることに。

「それでは、現時点で、なにか有効なアイディアがあるのだろうか?
2009年になって自民党内で急激に浮上してきたのが、「政府紙幣」と「無利子国債」である。(中略)
しかし、政府紙幣というのは、中央銀行発行以外のもう一つの紙幣が存在するわけで、大量発行するとマネーサプライが激増して、収束不能のインフレ、つまりハイパーインフレを招く危険性が高い。また、円高是正という目先のことより、日本の通貨である「円」の価値が下がる可能性が高く、このこともインフレを誘発しかねない。」(前掲書)

ふう、「なんだかいかにもお偉いさんが書いた本だなぁ・・・」というのが正直な感想である。
「マネーサプライの増加→通貨価値の下落」
いかにも分かりやすい公式だが一つの重要な要素が欠けている。
その重要な要素が何かというと、需要、消費量に比べ、生産性が高く供給量が多いほどインフレが起きにくいというごくごく単純な真理である。

いわゆるモノ余りと言われる今の日本で、ある程度の規模のマネーサプライの増加があったとする。
その時に例えば、パソコンメーカーのA社がここぞとばかりにパソコンの価格の値上げを(品質の向上無しに)するのであれば、A社はほぼ確実に淘汰されるであろう。

つまり、簡単に言えば日本では現在供給過剰により、多くの産業で常に価格下落圧力がかかっていると言える。

歴史上のハイパーインフレを起こした多くの国々とは全く違う状況にあるのだ。

「国債を刷れ!」(廣宮孝信 著)はこのことをオークションに喩えて説明している。つまり、需要が多いのに供給が少ない状態はオークションでレアアイテムに多くの入札者が殺到し価格が跳ね上がるのと同じ状態。供給が多いのに需要が少ない状態は誰も買ってくれないので数百円で投げ売りしているのと同じ状態と説明しているのだ。

何にしても、重要なポイントは3つ、
1 現在日本は世界でも最低レベルのインフレ率であり、普通の先進国並のインフレ率になるまではマネーサプライを増やし多少のインフレを起こしても大した問題にはならないだろうということ。

2 日本の国際は超低金利であるがそれでも十分に買い手がつくのであり、日本政府の財政は危機的状況とは言えないということ。

3 円の価値はマネーサプライのみならず、日本の技術力、日本の製品の競争力に大きく関連しており、日本が高付加価値の製品を作り続ける限りちょっとやそっとで日本円の価値が暴落するということもほぼあり得ないということ。


とりあえず、自分の意見をまとめてみた。


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ヒマだよ・・・
posted by TAKA at 18:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

かなり久々にラジオ・・・

今回は普通に真面目に日本経済についてしゃべってみた。

国債を刷れ!」(廣宮孝信 著)を参考に「日本が破綻することはないよ」という説明をしてみた。

要点は二つ

「日本政府の借金は全て日本円建てであり、自国通貨の発行権を持つ政府が破綻することはあり得ないということ」

「日本政府の国債はそのほとんどが国内の投資家が買っている対内債務でありマスコミが日本の借金でありいつか国民が返済しなければならないとしている借金は国民の負債であるどころか資産である」
ということ。

これだけのことをしゃべえるのに20分ほどかかってしまったのだが、まあ1回目だしできるだけ録り直し無しでやろうとおもったのでこんなもんかなとも。とりあえず今後話の要点を手短にまとめて、聴く人にとって聴きやすいような話をできるようにしたい。





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普通に真面目に・・・
posted by TAKA at 07:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

いい人生とは何か?

まあ、色んな人が色んな意見を主張しているのだが、俺の現時点での考えを少し・・・

俺はかつて高校を中退して、その時から色んな本を読んで勉強したり、身体的なトレーニングを積んだり、大学に入ってからは小規模ながらも自分で商売を始めたりと、まあなんやかんやでこれまでの人生色々なことをやってきた。

そんな中で最近まで良く考えた疑問の一つが、
「果たしてこれまで自分のやってきたことに何か価値があったのだろうか?」
ということ。

結論から先に言うと
「価値はある(あった)」
ということになる。

「何で?」
と問われれば、その説明は難しい。ただ、非常に単純に考えて高校中退後実家で引き籠って睡眠とネットとゲームだけの人生(ほんの少し状況が違えばきっとそうなっていただろう)よりは、色んなことに挑戦したり努力したりした自分の人生の方が価値があると言える。

ただ、
「普通に高校大学と楽しく生活してそこそこの会社に就職する人生とどちらが良いのか?」
と問うのであれば(少なくとも客観的には)その答えは簡単には出ない。

結局身も蓋もない話になってしまうのだが、何もない人生より何かがある人生の方が(まだ)価値があるということである。

例えば、(一部の人にとっては)嫌な例かもしれないが、多くの女性にとって幸せな結婚生活というものは価値のあることだと思う。しかし、当然独身女性の人生には価値が無いのかといえばそんなことはない。それでも仮にいい歳して結婚も恋愛もしてない、仕事も趣味も中途半端な女性の人生よりは幸せな結婚生活を送っている女性の人生の方が高い価値をもっていると考えられる。結局、どうしても女性にとって結婚というものが価値を持つ以上、それが出来てないのであればそれに代わる何らかの業績をもって初めて対等の価値の人生であるだろう。

結婚や恋愛と違う例を挙げるなら、友達100人いて楽しく過ごしている人の人生と、友人はほとんどいなくとも仕事等に打ち込特定の分野でその功績を認められるようになった人の人生ではどちらに価値があるのかは分からない。
ただ、引き籠って1日中ネットとゲームばかりしている人間には
「友達が沢山いたってしょうがない、そんな人生くだらない」
と言ったり
「毎日毎日仕事ばかりしてる人生なんてくだらない、人生損してるよ」
などと批判する資格は持たない。当然どちらもその価値(そのもの)を客観的に定量化する手段は存在しないが、何も持ってないような人生よりずっとましなのは確かである。

「死んだら全ては無だ」
哲学者の中島義道がよく主張することではあるが、この種の
「人生のすべてのことには何の価値も無い、(よってあらゆる行動は無意味である)」
といういわゆる消極的ニヒリズムに近い思想を俺は敗北主義と呼んでいる(実際にはこの言葉の定義はもっと広いのであるが・・・)。

敗北主義の問題点は非常に明快である。
「敗北主義はなにものももたらさない」
これに尽きる。もっとも、この敗北主義な中に一種の安らぎや精神的安定を見出すというのであれば、また話は変わってくるのだが、まあ長い目で見て大抵の場合敗北主義はロクな結果を生み出さない。

「それでも、結局死んだらすべて無なんだよ」
と言われるなら、それはそうかもしれないのであるが・・・


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果たして答えになってるのかどうか・・・
posted by TAKA at 00:40 | Comment(1) | TrackBack(0) | その他

秘拳鞭打って・・・

まぁ今週のチャンピオンのバキの話なのだが、いくらなんでも酷い。
死刑囚編で「女子供の護身技」などとバカにされていた技がここにきてまさかの秘拳として復活。

一応説明としては
「赤ん坊から範馬勇次郎まで平等に有効な打撃」
とのことだが、どうにも納得いかない。

以前の説明としては皮膚筋肉と同じように鍛えて強化することが出来ないという意味において「誰にでも等しくダメージを与えられる」とのことだったハズだが、そもそもピクルのようにもともと圧倒的な耐久性(当然皮膚も常人より圧倒的に丈夫だろう)を持った相手には等しくダメージというわけにはいかないハズなのだが・・・。

なんとなく、克己VSピクルの戦いがこの漫画における最後の盛り上がりになりそうな予感がかなり現実的になってきた・・・。


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これぞ無駄足・・・

posted by TAKA at 02:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 駄文

自惚れにくい時代・・・

なんとなく以前から考えていたことを少し・・・

現代という時代はありとあらゆるチャンスに囲まれた時代なのではないかなぁと思う。
「歌手になりたい」「タレントになりたい」「バンドをやって有名になりたい」と思う人間のためにいつでもどこかでオーディションが開催されているし、ストリートミュージシャンからスターになった人間もいる。「レコード会社は無能だから誰も俺の才能を認めてくれない」などと考えるに人間にもそれほど金をかけずともインディーズでCDを出す道も存在する。

野球をやっている人間であれば、例えば以前であればどれほど優秀な選手であっても地方の無名高校であれば甲子園に行かなくてはスカウトの目に止まらなかったのが、今では当たり前のようにスカウトが優秀な選手を求めて地方までやってくる。

仮にもっとずっとマイナーな分野であっても、その内部で最も評価されているような人間であれば、マスコミに注目されちょっとした有名人になることも多い。

かつては3つか、4つしかなかった職業が今では100もある。

起業にしたって、少し前までは30年、40年はかかったであろうレベルの成功をわずか数年で手に入れられるようになった。

なるほど、実力と才能を持った人間にとってはどこにでもチャンスは転がっている社会であるようだ。しかし、こんな素晴らしいチャンスに恵まれた時代であっても、そのように誰にでも成功への道が開かれていること自体が非常に都合の悪いという奇異な人間も(案外多数)存在する。

「俺にもチャンスさえあれば・・・」
「少し、状況が違えば俺だってスターになれたかもしれないのに・・・」

こう言って社会、あるいは自分の周りの環境を嘆き、非難する人間たちである。

こういった人たちにとっては結局のところ
「そうなんですかー、本当は凄い人だったんですねー!!」
というよく分からない称賛か
「いやー、あなたほどの人物が成功できないなんて本当に環境や運が悪かったんですねー」
というこれまたよく分からん同情しか求めていない。結局称賛か労いの一言を求めているだけなのだが、このような人が今の時代に昔と同じようにぼやくと非常に面倒なことになる。

もし、この人が
「俺は本当は、このテレビに出てる連中よりずっと歌もうまくて素晴らしいパフォーマンスを見せられるのになぁ」
と言えば
「じゃあ、どっかの芸能事務所のオーディションでも受けに行けば?」
となるし
「俺は本当はプロレベルの野球の腕前なんだよ、もしチームが甲子園に行ってたら、スカウトの目に止まっただろうなぁ」
などと言えば
「じゃあ、今からでもプロ野球のトライアウトでも受ければ?」
となる。

もし、本当にそんなことになれば、オーディションやトライアウトに合格するための努力が必要になる。しかし、
「俺にもチャンスさえあれば・・・」
というこの連中には、目標に向かって努力する意志など無い。結局現実には大した努力もなしに言葉でうまく自分がさも大物であるような説得をしようとしているだけである。

もちろん、この説得やらハッタリやらがうまくいく場合もあるだろうが、現実の世界で成功のために努力し、常に自分の実力を試す機会に挑んで生きてきた人間には、そういった説得を試みる人間を薄っぺらく感じてしまう。

結局、努力してきた人間は、努力とその結果としての実力というものがほとんどの場合、成績、実績、結果として表れるものであることを知っている。

結局、誰にでも等しくチャンスの与えられている社会というものはただただ素晴らしいだけではなく、同時にその人間の周りの環境がその人自身の実力を(多くの場合)正確に反映させてしまうという、見方によっては非常に残酷な社会でもある。

「格差遺伝」などという言葉が以前流行った。確かに運とちょっとした才覚と親の力だけで素晴らしい人生を送れる幸福な人間も少数ながら存在するのは事実なのだと思う。しかし、そういった例外的な幸福を除けば多くの子供は平凡な家庭に生まれ育つ、結局はほとんどの場合自分の努力と実力で自分の人生をなんとかするしかない。

ところで、以前俺は『自分以外はバカの時代』という本を読んだことがあるのだが、その内容を簡単に言うと、例え自分の何ら実績が無くとも、自分が非常に優秀で将来性を持った人間だと勘違いし、他人を容易に見下す若者の話である。

読んでる時はなんとく納得したが、どうにも少しおかしいのではないかと思うこともある。
「今のような誰にでも成功のチャンスが開かれている時代に、何故それほど優秀な(自分という)人間が成功していないのだろうか?」
という疑問を果たして彼らは微塵も抱かないのだろうか?

果たして、現実の状況の中で実は実際の自分の能力の限界にうすうす気付いているのか、そんな事に考えが及ばないほど頭が弱いのか、志向が現実とあまりに乖離してしまっているのかは分からない。

しかし、現実的な思考の持ち主にとっては、現代はある程度公正な能力の評価を行っており、たとえ自分のいる環境が劣悪であったとしても適切な環境を探してそこに移ることが可能であることを知っている。

長くなってしまったので、今回の文章を簡単にまとめると
「現代は、運がよくて成功することはあり得ても、本当に実力を持った人間にとって運が悪くて成功できないという可能性は非常に低い。故に「自分は本当は非常に優秀であるのに世間に評価されない」などという一種のナルシシズムを持ち続けることが非常に困難な時代だ」
ということである。


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長文・・・

posted by TAKA at 10:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

一人ですごろく15時間(ドカポン最短クリア編)

知人にプレステ2を借りたので中学校時代にはまったボードゲーム「ドカポン」の新作(ドカポンキングダム)をやってみた。




簡単に説明すると戦闘要素を混ぜた桃太郎電鉄のようなゲーム。ルーレットでフィールド(ボード)上のキャラを動かしながら買い物したり闘ったりしてお金を集めていくゲーム。

本来一人でプレイするのは非常に恥ずかしい部類に入るゲームなのだが「そんなの関係ねぇ!!」とばかりにコンピューターと対戦。まず、プレイしてみた印象としては非常にゲームの進行がさくさく進むなぁと、コンピューターのバトルを省略したり、くどいCGの場面を少なくすることで非常にスムーズに進行するようになっていた。だか、反面もしかしたら前作の「ドカポン 怒りの鉄拳」をやったことがある人には少しあっさりし過ぎて物足りなく感じるかもしれない。

死亡時に1ターン休むだけで復帰できるようにしたあたりにストレスを少なくさせようという配慮が見られる。


大体プレイ時間はプレイヤー人間一人コンピューター二人のプレイでシナリオモードクリアまでに普通にやれば10時間程度。

シナリオ第8章クリアまでに70〜80週間(ゲーム上のターン数)程度というのが普通なのではないだろうか。

さすがに1日に10時間はやり過ぎだが、俺はどうしても最後までやりきりたくなってしまう。そこでなんとか最短クリア方法を考えて色々と試しているがどれもいまいち効果が出ない。

基本的に前作でいくつか存在したチート技はほとんどできなくなっている。前作ではストーリー中盤に最強クラスの装備を手に入れられたり、パペットという相手を操作して好きな行動を取らせるようなアイテムで無敵(のはず)の悪魔を倒して装備品を奪えたりしたが、今回はそういったチートはほとんど不可能になっていた。

それから、敵を徹底的に懲らしめて自分の強さを圧倒的にすることで素早くクリアするという作戦もコンピューターやフィールド上のモンスターが強いのでほぼ不可能。ならば、コンピューターを圧倒的に優位な状況に置くことで敵をどんどん倒してもらい最後の最後で逆転するというパターンも考えたが、どうやらコンピューターは人間のプレイヤーに強さを合わせるようで、コンピューターにどんどん敵を倒させようとしても人間のプレイヤーに差を付け過ぎないようにするためか、妙にもたついたりする。
色々と試してみるがどうしても70週間を超えてしまう・・・。


そんなこんな考えながらやっていたら、いつの間にか週に30時間以上やっていることに気づき死にたくなった。

今回はいつにも増して意味不明瞭な文章だがおそらく寝てないからだと思う。

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キャラは全員女で・・・
posted by TAKA at 01:36 | Comment(1) | TrackBack(0) | その他

問題は躁なんです

今回は、今読み途中の『問題は躁なんです 正常と異常のあいだ』(春日武彦 著)という本の感想。

現在書店の健康、医学のコーナーに行くとこれでもかというほどに大量に鬱に関する書籍が並んでいる。現在では誰もがある程度の知識と理解を持っている鬱に対して躁についてはあまり知られていない。そのあまり知られていない躁に関する本である。

精神科医であるこの本の著者は精神病(もしくはもう少し軽度の精神疾患)の原因の一つとしてストレス状態に対する防御反応というものを挙げている。そのように考えた時に、躁というものは鬱状態になっても解決不能なより多大なストレスに対する防御反応として表れてくるのではないかという。つまり、簡単に言ってしまえば鬱より躁の方が深刻な精神疾患であるということ。

その根拠は詳しくは説明しないが人間ストレスに対する反応は躁よりも鬱の方が自然なのではないかということ、このあたりは文中それほど詳しく書かれておらず根拠もいまいちあいまいであった。

ところで、俺が以前からブログでも何度か書いているスーパーサイヤ人というのは、いわゆるこの躁状態に非常に近い、もう少し正確には躁状態を意識的に作り出すこと、理想を言えば躁状態を継続させること、さらにはそれを特に優れた一部の人間だけでなく普通の人間でも可能にするメソッドについて研究しているのだが、残念ながら未だその答えは見つからない。おそらく見つけるのは不可能なのではないかという思いを抱きながらも未だ研究を続けている。

で、まあこの本の中に興味深い文があったので引用してみる
「軽躁的な人生は、「躁」から覚めない限りはなかなか楽しいものだと思う。ただし金銭的に逼迫してくれば、どうしても覚醒を促される。ポール・Nはハイジャックを以って「しらふ」に戻ることを拒否し、しかし結局は刑務所で我に返ることになった。躁のまま人生を逃げ切るのは至難の業と思われる」

ここで書かれているポール・Nという人物は戦後アメリカの映画界ででマネージャー等で活躍した日本人である。後に業界で干され様々な詐欺行為をはたらきながら生計を立てていた。軽躁的な人物の(非常に派手な)例の一つとして紹介されていた。
「こんな大きな仕事の話があるんだ」
「じつは何々って女優と寝ちまったんだよ」
様々なほらを吹きまくって派手で豪勢な暮らしをしていたが、最終的には金も運も尽きヤケになってハイジャックをして男である(何故かこの本にはやたらハイジャック犯の話が出てくる)。

「ただし金銭的に逼迫してくれば、どうしても覚醒を促される。」
もし仮に躁状態がただ純粋に明るく楽しくハイな状態だとするなら、その状態は悪くないかもしれない(筆者は実際にそうではないと考えている)、もしそうだとしても躁状態に付随しやすい悪い性質もいくつか存在する、金銭に対するルーズさや、一つのことに打ち込む根気強さ、特定の作業、行為を完成させる持続的な意思等の欠如である。

躁状態の人間は一見非常にエネルギッシュに見えるが、一般的に飽きっぽい傾向があり、一つのことを完遂する意志の強さに欠けることが多い 、そのためにエネルギッシュでありながらも何事も大成せずに終わることがほとんどである(別に躁でない人間と比較して大成しにくいと言っているワケではなく、非常にエネルギッシュな割には集中力に欠け結果的にそれほど成功しやすくもならないという意味である)。

もう一つ、躁状態にある人間は金銭的に破綻し易いということ、何故か?簡単な原因をいくつか挙げると世俗的な欲求が強すぎるために見栄やのために使うお金が多すぎるということ、同じく世俗的な欲求が大きすぎるために自分の身の丈に合わない大きな事業を成し遂げようとすること、飽きっぽいために地道な仕事を継続しにくいこと等だろう。
とにもかくにも、一定以上の躁的な傾向は人生を破綻させやすくする 。
調子の良い時は気分上々であっても、ほとんどの場合自分の人生がどうにもいかなくなっていることに気づくと同時に夢見心地から現実に引き戻されることになる。
「人生の破綻とは何か?」
とは、一言で言えば
「個人の経済的破綻」
である。現代であればよほど特殊な状況を除いて、金さえあれば衣食住は満たされる。であるならば、根気や集中力を必要とする作業(多くの場合仕事)から完全に解放されストレスと無縁でありながら、ほぼ確実に経済的に破綻しないような生活であれば、一生躁状態のままでいられるのだろうか。

実際に分からないが、俺はこの答えは「イエス」なのではないかと思う。 ところでこの 「根気や集中力を必要とする作業(多くの場合仕事)から完全に解放されストレスと無縁でありながら、ほぼ確実に経済的に破綻しないような生活」 というような状況はあり得るのだろうか?

その答えもイエスと言えるかもしれない。「金持ち父さん貧乏父さん」を書いたロバート・キヨサキの提唱する経済的自由というのはまさにそのことである。
そのような状況にある人物の例としてネットワークビジネスで大成功した人物にいつて考えてみる。 ネットワークビジネスは自分のグループの規模が一定以上の大きさになればほぼ何もしなくても金が継続的に入ってくる。
そして、ニューウェイズやアムウェイのような大手企業であれば、倒産のリスクも低いだろう。となると一定以上の規模の組織を作ってしまえばかなりの額の不労所得が確保されることになる(ただし、もちろん永遠に収入が保証されるわけではない)。

この段階においては、通常では人生を破滅させかねないような躁状態においても経済的破綻を逃れることができる。見栄のための浪費も、事業の失敗における金銭的損失も不労所得がカバーしてくれる。巨額の収入と浪費が精神的高揚つまり躁状態を招くかもしれないし、経済的破綻により現実に引き戻されることもない。ネットワークビジネスで成功した後にセミナー、講演、執筆等で活躍する人間の多くに感じる薄っぺらさのようなものの背景はこの躁状態にあるのではないかと思う。
躁状態においては、普通の人が
「そんなの何回も本で読んだり聞いたりしたよ」
というようなありきたりな情報でも、まるで世界で最も重要な秘密であるかのように喜々として話すことがある。話している当人にとってはありきたりな話ではないのだろう。

ネットワークビジネスで成功した人間にセミナー屋が多い理由の一つはこの躁状態ではないだろうか?例えば、何か外から得た知識があれば
「自分はこのメッセージをより広く普及させ、世の中をより良くしよう。それが自分の使命だ」
と思うかもしれないし、自らの思索の末に得た思想であればまるでそれが天啓であり自分を神の代理人のように感じるかもしれない。

周りの人の中にも、一見非常に元気でエネルギッシュな躁状態の人を見て魅力を感じるかもしれない。何しろセミナーも儲かるビジネスの一つである。金が入り、ファンは神のように崇めてくるさらに躁の状態が強化される条件が整う。

セミナー屋、自己啓発屋はこう言う
「私の教えに従えば、私のように明るく楽しい豊かで健康的な生活が送れるようになります」

実際には、天性の躁的性質に加え、躁状態の継続が許されるような環境に置かれているに過ぎないということも多い。

なんだかまとまりの無い文章になってしまったが、セミナー屋の躁的性質と、躁状態と環境との関係性について書いてみた。


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長ス・・・
posted by TAKA at 23:58 | Comment(1) | TrackBack(0) | その他

M(真野)ステ・・・

狼で話題になっていたので一応YOUTUBEでチェック・・・





2分51秒間笑いが止まらなかった、だいいち最初と最後のピアノは何なんだよ?
真野ちゃんを可愛いと思ったことは一度もないが、頑張って欲しいなと思うし応援したくなる・・・けどCDは死んでも買わない。

細かい事言うと、エッグのバックダンサーズでゆうかりんが一番映る位置に配置されてたなぁ。かにょんは一番左でほとんど目立たない・・・ゆうかりんは一時期はまったがかにょんの敵だからなぁ・・・かにょんの敵は俺の敵ということで、ごめんよゆうかりーーーーん(ノД`)・゜・。


↓久々の記事がこれか、まあいいや・・・応援よろしくお願いします

(・。・)




posted by TAKA at 03:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

左翼の矛盾・・・

前回の記事でもうブログは更新しないと宣言した。その舌の根も乾かないうちに更新。
というか、今回は小説はそこそこ長いやつを1年くらいかけて書く予定であり1年も更新しないのもどうかと思ったので・・・。


ところで俺が今読んでいる本がコレ↓



まだ半分も読んでいないのだが、気になった箇所があったので解説しておく。

「保守の主張の基本は政府というものへの強い不信感だ。レーガン大統領がかつて、「政府が問題を解決するのではない。政府こそが問題なのだ」と述べたのは象徴的で、保守派は、政府は基本的に国民の自由を束縛するものだから、治安と外交、安全保障などの最低限のサービスを提供する以外は手を縛っておいた方がいい、と考える。政府が自由市場に介入すれば、経済活動は効率と競争力を失い、企業だけでなく消費者にも労働者にも利益にならない(中略)一言で言えば「小さな政府」が保守の主張である。
これに対してリベラルの立場を貫いているのは、「政府は、国民を幸せにするために多くのことができるし、するべきだ」という政府への信頼と積極主義である。政府は労働者を保護するために、企業を規制すべきだし、所得を公平に配分するためには福祉政策も重要だ。そのためには、強力で財政力のある政府が必要だから、十分な税収を確保する必要がある。端的な言葉でいえば「大きな政府」の主張である。
佐々木毅元東大総長も説明したように、一見してこれはあべこべのように見えるかもしれない。一般的に、人民の権利を守るために、横暴な君主と政府の権力を制限する主張は「自由主義(リベラリズム)」と呼ばれ、「保守主義」とは、封建制度や君主制を擁護する思想のことであったはずだ。ところが、アメリカにはそもそも守るべき君主は最初からなくて、自由主義が建国以来の理念である。だから、その自由主義の伝統を守ることが、アメリカでは「保守主義」と言われているのだ。さらに、資本主義が発達するにつれて、経済活動の自由によって成功した資本家が、その自由を政府の規制から守ろうとする「自由放任」も保守主義の重要な要素に加わっていく。」(前掲)

めっちゃ長い引用になってしまったがご勘弁。つまり簡単にまとめると、本来の保守派は伝統的な王権や君主制を擁護する立場であり、リベラル(自由主義)とは逆に王権や君主制を否定し、一般市民の権利をそれらから守るという立場であるが、アメリカの場合そもそも初めから君主制が存在しなかったために、それとは全く逆の現象が起きているということである。

しかし、これは何もアメリカのみに起こった逆転現象ではない。例えばフランス革命により王権を打倒したフランスにおいても、この逆転現象は起こっている。すなわち王権打倒したのちに社会的経済的な大きな力を発揮したのは裕福な資本家達であった。
王権を打破したのちの資本主義の発達により、貧富の格差は拡大。極度の貧富差において経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などが生じていた。このような状況の中で強大な権力を打倒することによって自由が得られるとの考えは否定され、自由で平等な社会を実現するためには強大な権力(多くの場合は政府)による積極的な介入が必要であると考えられるようになった。この考えこそが王権打倒後の自由主義の考えである。

実は、このような説明は自由主義(左翼)の説明を過去に何人かの知人にしたことがあるのだが、決まって似たような反応が返ってくる。
「それって、どこか矛盾してるんじゃない?」
そう、まさにその通りで、この自由主義の主張には矛盾が存在するのである。
まず表面的な矛盾の説明としては、自由な社会を実現するためにその自由を制限する必要があるということだ。

それから、もう少し突っ込んだ話をするならば、自由と平等は相反する概念であり
「自由で平等な社会」
というものはそれ自体に矛盾を孕んでいるということである。

これは批評家の呉智英氏がよく使う主張なのだが、人々の自由な活動に制限を加えなければ、確実に不平等な結果がもたらされるということである。

企業の利益に税金をかけなければ、増加する資本はどんどん膨れ上がる。さらには、自分より弱い競争相手を飲み込んでいきさらに強大になっていく。
個人のレベルで言っても、封建制社会でない限りは、人々の能力や様々な選択により収入や地位、生活レベルにはどんどん差が出てくる。

つまり、平等であるためには(平等でなければそれぞれの発言の自由や選択の自由も結果的に制限される)権力による制限つまり、不自由というものが必ず必要になるということである。


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俺は右寄り・・・

posted by TAKA at 01:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | その他

小説を書くことにしました・・・

どうしても、書きたいアイディアが浮かんでしまったので、書き終えるまでブログの更新はしません。



いや、もしかしたら気が向いたら更新するかもしれません。


タイトルは「夢を叶えるネコ」・・・応援よろしくお願いします。

ウソです
posted by TAKA at 08:38 | Comment(1) | TrackBack(0) | その他